堕落
何も見えなかった。
目元を覆う布の内側で、まぶたを開けても、閉じても同じだった。重い皮革のような材質は、眼球の輪郭まで押し潰すほどに密着している。しばらく前までは、少しだけ光が入っていた気がした。だが、今はもう、それすらも無い。
腕は椅子の背もたれに巻きつけられ、膝は左右から何か硬いもので挟まれていた。指は動く。動くが、それだけだ。力を入れても反応はない。足の先は、そもそも感覚がない。
彼は、等価交換を試みた。最初は周囲の空気に触れる音に意識を集中し、物の気配を読み取ろうとした。椅子の下に何かがある。布の擦れる音、木の軋む音。だが、交換できない。軽すぎる。等価でない。意味を成さない。
「……これじゃ、ダメだ……」
呟いた声は、誰にも届かなかった。聞いている者はいない。気配も、吐息すらもない。
否、きっと居るのだ。監視はされている。だがそれは“視界の外”にある。等価交換を阻むための、絶妙な配置。誰もいないのではなく、「見えてはいけない場所にいる」。
この空間は、徹底していた。
鼻先をかすめる刺激がある。鉄と、血と、薬品の混じったような匂い。何度も鼻腔に叩き込まれた感覚だった。あのとき──
歯を、抜かれかけたときの。
爪の間に針を差し込まれたときの。
脚の神経を無理やり動かされたときの。
……喉が鳴った。
思い出すだけで、胃が締めつけられる。けれど、喉を潤すものは何もない。舌が、乾いていた。
彼は、首をわずかに動かした。動かすことだけが、唯一の自由だった。首の傾きに合わせて、頭から何かが滑り落ちる気配がした。視界がなくても、分かる。
──自分の髪だった。
桃色の髪。長くて、柔らかくて、
……彼女が「好き」だと、一度だけ言ってくれた。
その髪が、抜け落ちている。
ふ、と、息が詰まった。
ここにはレイナはいない。彼女は、どこか遠くにいる。もう自分のことなど、気づいてすらいないかもしれない。
でも──彼女を守りたい。まだ、守りたい。
それだけは変わっていないのに。
「……痛い……」
声が出た。それは誰に向けた言葉でもなかった。
限界が、来ていた。拷問の痕が、皮膚の奥でうずき、思考は責任と孤独のはざまで何度も溺れかけていた。
我慢しなきゃ──
レイナが居ない今こそ、自分が踏ん張らないと──
……でも、できない。
身体が、もう限界を越えていた。感情が、どこにも置けなかった。
目を閉じても、痛みは消えなかった。目を開けても、何も見えなかった。
けれど、イオは思った。この闇の中で、レイナの姿を思い出せる限り、自分は壊れない。まだ、“全部”壊れたわけじゃない。
(……ごめん、レイナ……)
心の中でだけ、そう呟いて。
彼はもう一度、等価交換を試みようとする。変わらないと分かっていても、それでも“諦めたくない”という本能だけで──
息を呑んだ。ほんの一瞬、胸の奥で“何か”が跳ねた。
理由なんてなかった。あったとしても、論理としては成立しない。
けれど──今、たしかに“誰か”が、自分の中に手を入れた。
──いや、違う。「入れ替わった」。
脳裏をかすめたのは、記憶でも幻覚でもない。何かを落書きされているような、薄く冷たい、くすぐったさだった。
「……イオ?」
彼女の名を口にする前に、レイナは踵を返していた。機体の奥、搭乗者用の非常口に向かう。扉の鍵はセキュリティがかけられている。だが、彼女はそれを見ていない。
壁際にあったカバーを蹴飛ばし、工具箱からバールを抜き取ると、手元のボルトを力任せに引きちぎる。あまりにも乱暴な動き。だが、レイナはもう止まれなかった。
「何してるんだ、君……!」
操縦席から駆け寄ってきた副操縦士の声。
レイナは振り向きもせず、言い放つ。
「誰かが──誰かが私に、“今だ”って言ったの。だから、私は行く。運を信じるの、今度は私の番よ」
誰に向けたわけでもない。ただ、心に焼き付いた“彼女”の姿を思い出していた。片足が不自由でも、どこまでも追いかけてきたあの少女。正しさでも、憎しみでもなく、“ただ信じている”という、どこか狂ったような眼差し。
──今なら、分かる。
あのとき、あの子は本気だった。そして今、私も本気になる番だ。
非常扉をこじ開けると、冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。機体が少し傾いた。高度は充分。落ちるなら、今しかない。
レイナは座席下から緊急パラシュートを引き抜く。まともに使ったことはない。教わったことすらない。だが、今なら飛べる気がした。
「イオ──待ってなさい」
誰にも届かないその言葉を最後に、彼女は振り返らず、夜の空に身を投げた。
風圧が皮膚を裂くように痛い。耳が詰まり、吐き気すらする。
でも──こんなに自由だったなんて。
どこに落ちるかなんて、分からない。ただ一つ、運を信じた。
“誰かが呼んでいた”という、曖昧な記憶と共に。
そしてレイナは思う。
この賭けが、世界で一番大切な人のためであるなら。
外れても、悔いはないと──。
着地の衝撃は、痛みよりも感覚を研ぎ澄ませた。体中の神経が一瞬だけ鋭くなり、風と土の匂い、乾いた葉の擦れる音、遠くで鳥が逃げる羽音まで聞き取れた。
それらすべてを無視し、レイナはすぐに地面に身を伏せる。パラシュートは一瞬で切り離し、手元のポーチから手榴弾のピンに指をかけた。
最初から、戦うつもりでここに来た。
──いや、違う。殺すつもりで来た。
イオが残した記憶。ほんの数秒、魂が重なっただけで分かった。彼が、どれだけの痛みに耐えていたか。どれだけ静かに、ひとりで──私を庇っていたか。
喉の奥が焼けたように熱い。けれど、涙は出なかった。
レイナはピンを静かに引き抜いた。
足音。
森の中に紛れたような草の踏みしめる音が、背後に近づいてくる。
──来い。
一歩、二歩。相手の気配が“射界”に入った瞬間、レイナは右へと転がり込む。先ほどまで立っていた場所に、足音が重なる。
その刹那、背後の茂みに手榴弾を放り込み、木陰へと滑り込む。
──ドォンッ!!
爆音が夜の静寂を裂く。乾いた音が二、三、木に反響し、そのあと静かになった。
確認はしない。生死はどうでもいい。重要なのは、「今、この瞬間に減らすこと」。レイナはすぐに次の手榴弾に指をかける。肩のポーチには残り五つ。一人に一発、それで足りるなら幸運だ。
──次。
建物の輪郭が見えた。低く、石造り。施設というよりは、農場を改造したような造り。外壁沿いに一人、歩哨の影。
レイナはわざと音を立てる。枝を踏み、呼吸を荒げたように演出する。影が反応した。動く。追ってくる。
レイナは息を抑え、裏手へと回りこむ。走りながら手榴弾を一つ、背後の壁際に滑り込ませる。角を曲がった瞬間に身を伏せ、爆音が再び背中を叩く。
(──どうせ、父はいない)
確信だった。こんな場所に、あの男がいるはずがない。もし居たとしても、そんな器ではない。
(──なら、ここにいる奴らは──皆殺しでいい)
イオに手を出した時点で、終わってる。許しなんてない。この世にいる意味ごと、地面に沈めてやる。
三人目。
ドアの隙間から出てきた男が、何か叫ぶ。言葉は聞こえない。
レイナはすでに、四発目のピンを引いていた。命乞いか?なら、口を閉じておくべきだったな。
手榴弾を投げる。今度は空中で爆発させるよう、タイミングをずらす。ドアの隙間に火と肉片が舞い、何かが崩れ落ちた音がした。
(……あと、二つ)
数を確認する。心は静かだった。怒りは、冷えていた。だがその分、殺意は鋭利になっていた。
──イオ、もうすぐ行くから。
ただその前に、“あなたに触れた奴らを全部、消す”。
一人残らず。
建物の中は驚くほど静かだった。まるで今までの爆音が、ここまで届いていないかのように。
だが、それは狙い通りだ。壁の厚み。スラムに面した配置。そして何より、“誰もここに関心を向けないような地形”。
外周で起こした爆破と死体の残骸は、「ギャングが襲撃した」「巻き込まれた」と思わせるには十分だった。特に、この地域ではそれが“日常”だ。通報もなければ、介入もない。
レイナは手元の簡易マップを脳内で再構成しながら、ギャングから受け取った設計図を思い出す。この廊下の先──地下へと続く鉄扉。その奥に、イオがいる。
「……冷静に、ね」
手榴弾は残り一つ。
C4は既に外壁下部に設置済み。導火用のモロトフは、細工済みの信管に差し込まれている。爆破すれば、証拠ごとすべて吹き飛ぶ。だがそれは、イオを連れ出してからでいい。
(ここに、父はいない)
あの男が、こんな場所に隠れるような性格ではない。いや、むしろ──自分に見つけさせようと“演出”するタイプだ。
ならば、ここにいるのはただの端末。
──イオを傷つけた“手”だけ。
その手を、切り落とす。指一本残さずに。
レイナは足音を殺しながら、廊下の奥へ進む。壁に手を触れると、薄く埃がついた。空調は止まっている。人の通った気配は希薄。
この奥にいる者は──動かせない対象。
イオだ。
胸の奥が、かすかに痛んだ。置いてきたのは、私だ。彼を──助けてくれた人を、見殺しにして、私は逃げた。
──なのに。
彼は、今も生きてる。そして、何も言わずに耐えている。そのことが、痛かった。それが、どうしようもなく──
(……殺してやる)
自分の“感情”を閉じるように、レイナは再び怒りへと火をつけた。その方が、ずっと楽だった。後悔も、痛みも、思い出さなくて済むから。
鉄扉の前に立つ。開け方は分かっている。ギャングの中に、似た構造の監獄を扱っていた者がいた。特殊なスライドロック。脆い。
レイナは工具も使わず、構造だけを頼りに扉を引っ張り上げ──“きしむ音”と共に、ゆっくりと開いた。
「……レイナ?」
声に出したのは、自分だった。だが、それが現実なのか、幻覚なのか──確信はなかった。
何度も眠ったふりをして、動かされ、殴られ、針を打たれてきた。次に目を開けば、きっとまた別の誰かが現れる。そう思っていたのに──今、扉の向こうにいたのは、彼女だった。
「……ごめ──」
言葉の途中で、身体が傾いた。視界が震えた。
次の瞬間、何かが胸に強くぶつかる。温かい。でも、苦しいほど強くて、でも、壊れそうに優しかった。
「ごめんね……!」
その言葉は、イオのものでもレイナのものでもなかった。二人の喉が、同時に震えて、どちらの涙が先に落ちたかなんて、分からなかった。
彼女の腕が震えていた。自分の指も力が入らず、ただ布を握っていた。抱きしめるには弱すぎて、でも、離れたくなかった。
泣きたくなんてなかった。責める言葉も、赦す言葉も、頭の中にはあった。
でもそれよりも先に、あの日見失ったものが、今ようやく戻ってきた気がして、息が詰まるように、涙が出た。
レイナがそっと身体を離す。瞳が赤くなっていて、化粧は落ちかけていて、けれど、どこか安心しているような顔だった。
「帰ろう、イオ。もう、こんなとこ──」
イオは静かに頷いて、指を動かした。等価交換の印を描く。ずっと考えてきた。どうすれば、レイナに何もさせずに、脱出できるか。今ここで、自分が交換で全員を飛ばせれば──
しかし、空気は動かなかった。指先が止まった。手のひらから、力が抜けた。
「……使えない」
呟くと、レイナは何も言わず、イオをそっと持ち上げた。抱きかかえられるのは久しぶりだった。過去のどこかで、似た感覚を思い出しそうになる。でも、それよりも今は──この温度が、ただ静かに嬉しかった。
イオは首をレイナの肩に預けた。もう少しだけ、甘えてもいいと思った。
廊下の奥で、何かが僅かに揺れた。その音に、二人は気づかなかった。足音はなかった。影も揺れなかった。
だが確かに、“そこ”にはもう一人いた。
「ふぅ……やっと、乗れた」
レイナは息をつきながら、助手席のドアを開けた。イオを抱えたまま、ひょいと乗せる。どこかまだ緊張を解けないイオの表情は、汗と涙でぐしゃぐしゃだ。だがそれが、妙に愛おしい。
エンジンをかける。鍵はすでに回してある。
けれど──
「私? 十五だから、免許はないわよ?」
シートベルトを締めながら、レイナは自然に告げた。
一方、助手席のイオは少し遅れて反応した。
「え……あ、あの……僕も……取ったことないです……」
車内に沈黙が落ちる。数秒後。
「ま、いっか。バレなきゃ犯罪じゃないし」
「いや、普通に犯罪ですよ」
ハンドルがぶれた。イオの声が少し震えている。シートの下で足ががくがく動いている。アクセルとブレーキの感覚も怪しい。だけど、もう戻る選択肢はなかった。
「右、右! そっちカーブだから!」
「う、うんっ!」
「そのまま真っ直ぐ、で、左──……ま、まぁ何とかなってる」
「“何とかなってる”じゃない……!」
道路は舗装されていない。タイヤが泥を噛む音が響くたび、イオの顔が少し青ざめる。だが、車は不格好ながらも前に進んでいた。
二人の会話も、少しずつ呼吸を取り戻していく。
「そういえばさ」
レイナは窓に肘をつけた。
「イオの親の話、調べたの」
「……うん」
「鑑定出た。父と母、DNA一致。兄妹だったわ」
イオは返事をしなかった。視線も前を見たまま。何かを飲み込むように沈黙する……かと思えば、ふいに横を向いて、レイナの顔をじっと見た。
「…………なによ」
「ううん」
明らかに“なにかある”顔で微笑んでいる。しかも、目線がずっとこちらの頬あたりに向いている気がした。
「……なによ……何見てるのよ」
「別に。ずっと好きだったから、見てるだけ」
「……」
一瞬で何も言えなくなった。レイナはそっとミラーに目をやった。そこには──自分の顔があった。そして、頬に黒く太い字でこう書かれていた。
『全身メモ女』
「…………」
「いや、別に、僕が書いたわけじゃ──」
レイナは舌打ちした。唇をゆがめて助手席のグローブボックスを開けた。取り出したのは、油性ペン。
「書いたら、書き返される覚悟しときなさい」
「えっ、ま、まって、ぼくは──」
レイナは運転席から身を乗り出し、イオのほっぺに“飼”の一文字。イオが慌てて身をよじって抵抗するも、片足しか使えない身体ではまともに逃げられない。
「や、やだ、やめてぇ……!」
「“レイナの飼い犬”って書くわ」
「ぼ、僕は人間ですッ!」
「じゃあおとなしく人間らしく首を振るのやめなさいよ!」
「それ矛盾してる! あっ、ああぁ!」
車は未舗装路をぐらぐら揺れながら進み、その中で、“再会”の時間は、ひどく馬鹿馬鹿しく、そしてどこまでも──温かかった。
「……あ、なんか前にいる」
車のフロントガラス越し、道の真ん中に黒い影が見えた。森の中から、明らかに不自然なタイミングで出てきた人影。その立ち方も、距離の詰め方も──訓練されている。
レイナは一瞬で判断した。
「護衛の残党。……危ない、アクセル全開!!」
「え!? いや、それ危ないって──」
イオの叫びは最後まで届かない。
レイナは片手でイオの頭をそっと押さえ、視線をそらせる。その間にハンドルを真っ直ぐ固定し、足元のペダルを踏み抜いた。
ドォン!
ボンネットに“何か”が当たった音。そして衝撃。だが、速度は落とさずそのまま直進。
イオは目を閉じていた。開けたくなかった。そして、レイナはそれでいいと思っていた。
「もういないわよ」
その言葉に、イオは小さく頷いた。彼女の行動を止める理由は──もう、ない。
レイナはミラーを見ずに言った。
「これで、連中がまだ狙ってるってわかった。……空港、向かうよ」
「うん。……どこで?」
「田舎の空港、個人所有のが19000近くある。目立たず乗れるのは、旧式滑走路のある山地空港」
レイナは一つ、思い当たる場所に連絡を入れた。それは──“業界で有名な女優”だった母親の知人で、家族ぐるみでの付き合いがあった女性。
「……死んだ母の話でも出せば、断りにくくなるか」
レイナはトーンを落とし、電話越しに微かに震える声をつくる。
「……あの、聞いたかもしれませんけど、母が、先月……急に……」
沈黙。電話の向こうからは、絶句したような気配が返ってくる。
「……そう。うん……あの子、ね……わかってる。滑走路空けておくわ」
目論見通り。悲劇はいつだって、言い訳になる。
レイナは無言で電話を切る。
「……これで滑走路は確保。問題は、どう飛ぶか」
「名義とか……?」
「こっちは“家族の関係”でごまかした。でもパイロットは確認してくるかも」
イオはしばらく悩んでいたが、目を逸らして呟いた。
「……じゃあ、僕は母の隠し子ってことで」
「え?」
「遺産関係とかで揉めるのが嫌だから、存在を隠してたって……その言い訳、どう?」
「なるほど。……あんたって、ほんと時々……すごいわね」
「時々ですか……」
レイナは笑いそうになったが、肩で息を吐いただけだった。
滑走路までは、あと15分。それまでに、何人来るか──何人、殺すか。
タラップを登る途中、誰かに見られている気がした。
レイナは振り向かなかった。背後に何かがあっても、今は進むしかない。
私服姿の整備士が軽く帽子を上げる。パイロットは既に席についている。空港の誰一人、怪しげな挙動はない。だが、胸の奥だけが──妙に冷えていた。
「行こう、イオ」
「……うん」
搭乗口のドアが閉まり、飛行機は滑走準備に入った。エンジンが唸る。小さな振動が床を伝い、緊張感が機内を満たしていく。
「あと少しで、全部終わる」
そう言ってレイナは目を閉じた。
長かった。ここに至るまでに、何度命を削ったか分からない。
だけど今、イオは隣にいる。それだけで、充分だった。
──と思った、その時だった。
視界の端。
収納棚の影、スーツケースの向こう、そこから、何かが“にゅっ”と出てきた。人間の指。黒手袋。血の跡。
次いで、静かに顔を出したのは──さっき轢いたはずの護衛だった。
レイナは瞬時に呼吸を止めた。身体を動かそうとして、すぐやめる。
騒げばパニックになる。撃てば機体が揺れる。狭すぎる。逃げ場も、撃ち合う余裕もない。
(どうして……生きてる?)
しかし、すぐに違和感が浮かんだ。音がない。呼吸の揺らぎもない。動かない──否、動けない。それは、見せびらかすように“存在”しているだけだった。
「……イオ」
隣で、目を伏せていたイオがそっと指を動かしていた。何も言わない。だが、空気が──わずかに“入れ替わった”。
その瞬間、棚にあった砂袋のような重しが突如として崩れ落ち、同時に、護衛の身体が、スーツケースの裏から消えた。
“等価交換”。
イオは何も見ていなかった。だが、感じていた。レイナの顔色と空気の重さで。それで十分だった。
レイナは何も言わず、少しだけ頷いた。
飛行機はすでに滑走路へと進み始めている。ドアは閉じられ、後戻りはできない。彼女たちを乗せた機体は、沈黙のまま夜の空へ向かって──静かに、走り出した。
互いに分かった上で、着陸までを待った。覚悟までの猶予だ。そっと、互いに言葉を刻み込む。
"Blood in, blood out."
"血に始め、血に終えよ"と。
降り立った場所は、無人の滑走路だった。整備員も、空港職員もいない。事前に手配されていた通り──“誰にも見られない場所”。
だが、イオの中では何かが軋み始めていた。理由も、きっかけも、はっきりしていた。
「ねぇ、レイナ」
「ん?」
「……もしさ。僕に兄弟がいたとしたら──どう思う?」
彼女は歩きながら眉をひそめた。冗談として返すには、イオの声は静かすぎた。
「母さんはさ、僕に“教えなかった”。魔術の、深い仕組みとか──母さん自身の過去とか」
言いながらイオは指を動かす。その線は等価交換の印ではなかった。もっと原始的で、もっと根源的な、“呪”だった。
「教えなかった理由は、たぶん──“他にもいたから”」
「他にも?」
「兄弟だよ。母さんの能力は、複数の子に“分散”してた。僕だけじゃ、制御しきれない量だったってことだ。つまり……他の誰かも、僕と同じ“血”を持ってる」
「じゃあそいつが──」
「うん、母さんを消した。君の敵と同じ手口で、静かに、効率的に。等価交換を悪用して、母さんの“存在”を別の栄養と交換した」
レイナは止まった。
「……存在を?」
「細胞、栄養、情報、命。等価交換は、全部“置き換え”られる。要するに、“クローン技術の先を行った無法”だよ」
イオの指が、空中で円を描いた。それはもはや契約の形ではなかった。一瞬、空気が収束し──
「──そこ、何してる」
背後から声がした。あの護衛の一人──轢かれ、消えたはずのあいつがまた現れた。
瞬間、イオは振り返った。
「だったら、お前の腕と──これを、交換だ」
パァン!!
爆裂のような空気音と共に、男の右腕が金属の棒に変わった。鋼鉄と同じ重量・同じ形・同じ温度。
男が叫ぶ前に、イオは指を弾いた。その棒が“発火”した。皮膚のように燃え、筋繊維のように焦げ、火炎のように赤く膨張し──男の意識ごと、沈黙させた。
レイナは一歩、後退しかけた。
けれど、次の瞬間──イオの手が、彼女の手を掴んでいた。
「レイナ」
「……」
「僕はもう、正しくなんかない。君も正義じゃない。それでも──全部終わらせたい。母を殺した奴らも、君を狙った奴らも。全部、滅ぼす」
その手は、どこまでも冷たく、けれど、誰よりも、彼女を離そうとしなかった。
レイナは息をのんだ。イオの背後に、かつての少年の面影はなかった。そこにいたのは──“覚悟を決めた魔術師”。
「……ええ。行きましょ、イオ。もう、誰も許さない」
二人は、暗い滑走路を歩き出した。背後には焼け焦げた鉄の残骸。そして前方には──復讐の“夜”が、待っていた。
「いや、最初から少年の面影ないわ。私の方がまだ男と誤認される位に。」
「そうだね、系統的にね…あ、他の敵はもう切断しといたよ、さっきので。母が禁じてた理由がよく分かった。」
静寂だった。
夜の空気は冷え、滑走路はまるで墓標のように静かだった。
その空を──ヘリが裂いた。プロペラの風が荒れ狂い、金属音を纏った機体が下降する。地面を強く蹴り返す風の中、最も前に立っていたレイナは目を細めた。
ヘリのドアがゆっくりと開く。見慣れた顔──否、忌まわしい顔が姿を現した。
マティアス。レイナの父。彼女の過去を知る、すべての元凶。
「来たわね」
レイナの声に、イオは返さなかった。ただ、静かに車椅子のブレーキを解除し、前へと進む。
マティアスの足元には数名の護衛。無言で警戒しながら、距離を詰めようと──した、が。
イオは、手を挙げた。指が宙に弧を描く。それだけで、すべては終わった。
「──交換」
次の瞬間、護衛のひとりの身体が、等価交換された“金属片”と入れ替わった。それはあまりに脆く、あまりに重く、その場にいた別の護衛の機関銃の掃射を誘う形で──
──ズガガガガガ!!
轟音と閃光の中、砕けたのは“人間”の残骸だった。燃えたのは、守るべき命だった。
「……殺すのは、簡単だよ」
イオの声は、火薬の煙に消えそうなくらい小さかった。だが、鋼のような冷たさを孕んでいた。
レイナは振り返り、静かに言った。
「でも──それじゃ終わらない」
「……ッ」
イオは銃を握っていた。マティアスを、すぐにでも撃てる距離。そのまま引き金に手をかけようとして──
──バキッ。
乾いた音。手の中で、銃が壊れた。
「……あっ」
「何やってんのよ、もう!!」
振り返ったレイナが、思わず声を上げた。まったく、こんな緊張の中で。
「力入りすぎ……」
「それ以前の問題!」
少しだけ笑って、互いの顔を見た。
だが──その瞬間。レイナは踏み込んだ。まるでイオに気を取られたふりをしていたかのように。そのままマティアスの目前へ。
──パァン!!
銃声。イオが動こうとした瞬間、レイナの隠し持っていた拳銃が火を吹いていた。
マティアスの右足。正確に、膝関節を砕く角度。血が跳ね、男が苦悶の声を上げて崩れ落ちる。
「何よ、逃げる準備でもしてた?」
レイナは冷たく吐き捨てる。
「……こっちも、もう待つ気はないのよ」
彼女の頬には、まだ「全身メモ女」と書かれたまま──
それでも今、誰よりも“主導権”を握っていた。
「……あんた、どこまで逃げ道用意してたのよ」
レイナが足を撃ち抜いたマティアスは、呻きながら地面に倒れ伏していた。
だが──その口角だけは、ゆっくりと、笑っていた。
「逃げ道?違うさ……“入り口”を開けただけだ」
その瞬間だった。
遠く、空気を裂く低音が響いた。最初に見えたのは、白い光点。その次に、翼を持たない機影。無音で滑走路へ向かって──
──轟音。
爆風。
炎柱。
最初の機体は、地上すれすれで滑り込み、管制塔の残骸に激突して爆散した。
「っ、無人機……っ!」
レイナが歯を噛んだ瞬間──今度は二機、三機、続く。それはあまりにも正確で、あまりにも制御された狂気だった。
(これ──全部、突入コースに入ってる!?)
燃える。滑走路が、焦げる。地面が、抉れる。その中を、なおも突っ込んでくる無人航空機──
20機以上が、次々に時間差で滑走路に到達しようとしていた。
「動けない……動けば死ぬ……!」
レイナが咄嗟に伏せる。イオは車椅子の位置を半回転させ、爆風の向きを見極めて──瞬時に判断する。
(入れ替える……?いや、ダメだ──)
もし誤って無人機本体と等価交換すれば、その爆発力がこの場に転送される。破片ならまだしも、弾頭や燃料タンクだった場合──全滅する。
「くそ……!」
レイナが何かを叫ぼうとした。その直後──また一機、衝突。
爆風。砂煙。空が割れるような音。
爆撃というより、これは“儀式”だった。破壊の演出。誰も安全ではないことを示す、“ショー”だった。
「レイナ!!」
イオが叫んだ。だがレイナは、目を逸らさず、ただ静かに地面を睨んでいた。
「そういうことね……。これが──あんたたちの“やり方”か」
マティアスは、笑っていた。血の海の中、どこまでも冷静に。
「こっちはな、たかが命一つで勝とうなんて思ってないんだ。こっちが賭けてんのは、都市ごとだよ」
レイナは震える手でジャケットの下を探った。まだ──生きている。まだ──終わっていない。
「イオ、次に落ちたら、突っ込むわよ」
「了解……」
彼女たちは理解していた。これが、最後の一線であることを。
生き延びることも、戦うことも、もはや“正義”とは無関係だった。
──世界が終わる音が、夜明けと共に鳴り響いていた。