放たれた矢
石畳の上を静かに進む車椅子。その背を押していたのは、灰色の髪を束ねた少女だった。背は高く、姿勢は丁寧。時折風に揺れるシャツの裾が、彼女の所作に似合っていた。ゆっくりとした歩調のまま、少女は周囲を確認するように目を向け、角を曲がるたびに手の力を微調整する。乱れはない。だが滑らかすぎるその動きには、慎重というよりも、あらかじめ知っていた手つきのような癖がある。
香水の強い花屋の前を過ぎる。見慣れない外国語の看板、ショーウィンドウのドレス、演出めいた光景の中に、何か探すような気配がある。少女は一度も話しかけてこない。ただ黙って、私を押し続けていた。私も振り返らなかった。けれど、風が一度だけ髪を揺らしたとき、その頬にかかる影を見た。それだけで十分だった。この人は、私を知っている。けれど、知らないふりをしている。その確信だけが、ずっと胸のどこかで揺れていた。
その素肌と灰の髪は、突然変異を除けば最も世界で灰色に近いものであろう。
世界で最も女性が美しい国・・・そう言われる国に、ある問題が起きた。
そこは食糧生産国で、農業のノウハウもない、植えれば育つような土地だ。
そこで、昔、友達とある契約をした。
「私が立てる様になったら、貴女の国に連れてって・・・。」
そう、約束した。
・・・私はウィッチャー・・・意味的な話をすると、ウィッチが魔女、ウィザードが魔術師、ウィッチャーは魔女の真似事・・・母親が魔女で、簡単なものであれば使える。
盗み見たものなので正確性は無い。だが、一つだけ確実なものとして、試験管の中身を入れ替える・・・という質量の等価交換である。・・・これは、極論生物の入れ替えに使える。
例えば家畜、稀に野生動物からの襲撃を受けるが、数秒に何度も入れ替える事で動きを止め、食わなくなる。そして飼い慣らす。
植物であれば小さい段階で根と葉を入れ替えると面白いサイズのものにも出来る。
大根サイズの玉葱も、その逆も。・・・これは水を扱い農地を安定させる為と母親に絶対に使える様にしなと教わった。
魂にも質量はあるが、身体スペックを徹底的に同じにしなければならない、逆に同じなら強引に進めれる。政治家を入れ替えると楽しい。ホームレスと入れ替えると大半が特権を使い出す。しかし入れ替えない時よりも抑えれるのが不思議だ。
小高い土の上に建てられた古い休憩所。錆びた柵越しに街の明かりが見えていた。
すぐ近くには崖縁の草が風に揺れていて、遠くには列車の音が響いていた。誰もこちらには気づかない。
空はまだ薄く青い。夜になりきらない時間、輪郭だけがはっきりと残る。
「・・・いい?」
二人の間には何も置かれていなかった。
指輪も契約書も、血の杯も。だが、それでも充分だった。
「・・・いいよ。」
風が止み、影が伸びる。片方の影はかすかに揺れていた。もう片方は、まっすぐ伸びて、隣の影と溶けていく。
「・・・これから、一緒に行く為の魔術を使うの。一度も使ったが事は無いけど・・・。」
手は触れていない。目も合っていない。
だが、呼吸が一瞬だけ重なった。
「いいよ・・・全部、受け入れるから。」
質量は等しく、言葉は交わされた。
それだけで、契約は完了した。
そして、彼女の動かない足を見捨てる様に逃げ出した。
何も変わらぬようで、何もかもが変わった。
これから先、誰かの声が裏返るとき、世界の順序もまたひとつ──ずれていくのだろう。
これは彼女に対する裏切りだ──そう思いながらも、私は歩を進めていた。柔らかな風が額にかかる髪を揺らし、鏡に映った姿は完璧だった。彼女の声を真似て、癖を真似て、笑い方まで同じにした。どこもかしこも嘘で塗り固めた姿だというのに、通りすがりの男たちは皆こちらを見る。美しい、完璧だ、理想的だ──そういう視線を向けてくる。私はそれを、ただ静かに楽しんでいた。気づいていないのは、彼女だけだ。この姿がどこから来て、どこに向かっているのか。全てを知っているのは私だけ。それがたまらなく気持ちよかった。
「何より・・・この足は素晴らしい。」
歩みは止まらない、動きは止められない。世界に常に進みたがる。その心は弾む。
入れ替える、手品と言い張って硬貨と物を入れ替えると多少値段をちょろまかせる。
鶏肉は骨と肉の境目を探るまでもなく、関節ごとに質量を合わせてすり替える。骨は犬に渡すのが一番だ。細かく噛んで喜ぶし、残った部位の処理に困らない。肉だけが綺麗に残れば、手も汚れずに済む。小魚はもっと楽だ。骨の質量と水に溶かした塩を同じにして入れ替える。水に骨は残らず、塩は魚に馴染む。結果、魚の形を保ったまま食べやすく、味も深くなる。火も包丁もいらない。これだけで節約ができる。だが悪さはしない──それは母との約束だ。
だから、盗まれた老婆のバッグは手を貸す。石畳に落ちていた古いカラーボールと入れ替えただけだが、通報された犯人はポケットから派手な球を取り出され、すぐに連行された。バッグは戻り、問題は解決する。老婆は何も言わずに手を握って、お菓子を一袋くれた。甘さ控えめのバターサブレで、油脂の匂いが微かに指に残る。私はそれを一枚ずつ口に運びながら、この身体が“ちゃんと世界の役に立っている”という実感を、確かめていた。
次の店はスープだった。昼を回ったばかりの時間帯で、行列は短い。皿の縁には小さく欠けた跡があり、注がれた液体の重さが偏っていた。香りは野菜と魚の出汁で、裏通りの仕入れとは思えないほどに濃い。私は同じ量の水を混ぜて少し薄め、その代わりにパン屑と交換した。小さくても塩気のあるパンは、スープの厚みを補ってくれる。パンを噛み、スープを飲む。口の中で混ざり、味が変化していく。料理の完成度とは、こうして手の中で補えるものだとさえ思った。
人が多い場では、入れ替えは慎重になる。すれ違いざまに買われた品物、レジ袋の中身、腰のベルトに差された財布──あらゆるものが一瞬で交換できる。だが私はそれをしない。目的のないすり替えは空虚だ。誰かの利益にも、私の満足にもならない。価値のある置き換えだけが、魔術として意味を持つ。母はそう教えなかったが、私はそう考えている。
・・・だから、裏切りには後悔していた。
そう思ったのは、あの景色を見たときだった。
丘の上にある風見塔のそば、小さな東屋。その隣にある石造りの見晴らし台。村を一望するにはそこしかない。畑が続く谷あい、羊と牛が点々と散らばる丘陵地帯、夕陽に照らされた小川が一筋だけ白く光っていた。そのすべてを背景に、彼女はいた。
車椅子に座っている。背をまっすぐに伸ばし、手は膝の上、視線は遠くを向いていた。灰色の髪が風を孕み、陽光を受けてほのかに金色を帯びていた。
息が詰まった。まさか追ってきたのかとさえ思った。ここまでの道のりは、崩れた段差や砂利、放置された家畜の柵、車椅子では無理な場所ばかりだった。それでも来たのか。いや、来ていたのだ。
思い出した。石段の脇に残された、土の詰まった車輪の跡。木の根に引っかかった傷。無理やり押し上げた形跡。私は何も気づかなかった。いつも自分だけが大変だと思っていた。彼女を騙したことの理由ばかりを考えていた。
レイナが振り返る。まぶしさに片目を細めながら、それでも落ち着いた表情だった。怒ってはいない。でも、赦しているとも言えない、そんな顔だった。
「バターサブレ、まだある?」
一枚、手を差し出される。怒りではなく、要求。嫌味ではなく、確認。私は黙って、ポケットの包みから一枚を取り出した。
彼女はそれを受け取り、唇を噛みながら言った。
「・・・私が一番不幸なんだと思ってた。でも、そうじゃなかった。種類が違うだけで、どっちも不幸だって、わかった。」
視線が合わない。でも、心が距離を詰めてくるのがわかった。
「友達じゃなくて、仲間でいい。それでいい。」
静かな言葉。強くもなく、優しくもない。ただ、受け止めるための一言だった。それに頷くしかなかった。
イオは、膝の上に置いた紙袋を軽く指で押しながら言った。
「・・・食べるか。」
「うん、欲しい。動いたらお腹空いちゃってさ。」
レイナの声は、わずかに明るかった。けれど、それは演技ではない。空腹と、少しの気まずさをごまかすための無垢な声だった。イオは包みを開き、サブレを一枚取り出すと、ぎこちなくレイナの手に渡した。
「・・・少しは、休めたか。」
「どうかな。正直、疲れてる。でも、満足してるよ。」
その言葉にイオは返すことができなかった。風見塔の向こうに陽が沈みかけ、影が地を這い始めていた。レイナは小さく息をついた。
「・・・イオ。あのとき、国に連れてってって言ったの、覚えてる?」
「・・・ああ。」
「本当に来てよかった。嘘だって思ってたけど、来てくれた。・・・でも、やっぱり騙されたのは嫌だった。」
「・・・ああ、それは、済まない。」
「だから、サブレもう一枚ちょうだい。」
「食いすぎだ。」
「歩いたんだから、当然だよ。」
二人は短く笑った。そのまま、しばらく沈黙が続いた。レイナは手の中のサブレを見つめながら、ぽつりとこぼす。
「会いたい人がいるの。入れ替わったままで、どうしても一度だけ、会って話したい。」
「・・・親か。」
レイナは何も言わなかった。だが、イオにはその沈黙で十分だった。それ以上、言葉を重ねなかった。サブレの袋を閉じると、イオはそっとその場を立ち去ろうとする。
「・・・レイナ。」
「なに?」
「・・・それが終わったら、ちゃんと帰ってこい。」
「・・・うん、必ず。」
レイナはバターサブレの包みを両手で握りしめた。指先に残る甘い匂いと、掌に感じる薄い温もり。表情には出さなかったが、その手の動きは、少しだけ名残惜しそうだった。彼女は視線を上げると、じっとイオを見つめた。感情をぶつけるでもなく、責めるでもなく、ただ確認するように。イオはそれを受けて、短く頷いた。どちらともなく、少しだけ微笑んだ。
風が二人の間を抜け、麦畑の葉擦れをかすかに響かせる。太陽は沈みかけ、空の端が赤く染まり始めていた。時間は限られている。そのことを、お互い口にせずとも理解していた。
「分かりあったからってすぐにふてぶてしくなるあなたは嫌いじゃないわ。」
「そうかな?」
「ええ、これっていつまで続くの?」
「25時間、人間のサイクルと連動してる。」
「なら行けるね。」
レイナが持っていた菓子の包みを胸元にしまうと、イオは車椅子のブレーキを外した。軽く押すと、車輪は静かに音を立てて回る。坂を下る道を選びながら、二人は言葉を交わした。声には出さずとも、視線と身振りでやりとりができるほどには、信頼が戻っていた。目的は一つ。ナディアのもとへ行くこと。レイナの「会いたい人」は、イオの知らない誰かではなかった。彼女の本当の母親――ナディアだった。
方法は決まっていた。家具と身体の一部を入れ替えることで、警備の目を逃れて屋敷に潜入する。イオが説明し、レイナが頷く。二人は息を合わせて、計画を練るようにして進んだ。
「家具の配置とかは覚えてるのか?」
「念入りに一人護衛を買収してる・・・けど二人一組だから侵入は難しかったの。」
「手当たり次第に何個か試すか、倉庫が多分あるからそこに入る。車椅子はタイヤ痕残ると厄介だから置いてく・・・ちょっと背負って?」
「分かった・・・結構重い!」
やがて、ナディアの屋敷が見えてきた。村のはずれ、小高い場所に建てられた石造りの家屋。外観は古びているが、重厚な柱と屋根瓦が、かつての威厳を物語っていた。周囲には不自然な人の気配がある。農夫のふりをした男たちが、同じ場所を何度も往復している。立ち話をしている者たちの目線が、常に門扉へと向いている。見せかけの自由の中に仕込まれた監視。それは幽閉というより、静かな拘束だった。
「結構大きくない?」
「別荘なのよ、父である大物俳優の。」
「実母は婚姻関係ではないんだろう?」
「裏切らない様にと薬で廃人にされちゃったし、怪我で会話や移動も難しいけどね。」
家そのものもまた、不自然な静けさに包まれていた。開いた窓の奥には、人の姿は見えない。カーテンがかすかに揺れ、誰かが中にいることだけが分かる。ナディアは、この中にいる。誰にも会わせてもらえず、忘れられたように過ごしている。レイナは深く息を吸い、車椅子から立ち上がった。入れ替えの準備が整ったことを、イオにだけ伝えるように、小さく頷いた。
「入れ替わり、信用してるよ?」
「質量の等価交換だ、人格の入れ替えは脳機能の部分的入れ替えだから記憶とかは表層的なものなら持ち越せる。」
「・・・ん?・・・あれ・・・んー、違うか。」
「どうかしたか?」
「いや・・・聞こうと思ってたけど忘れてた事があった気がして・・・。」
彼女は視線を彷徨わせた。何かが喉元までせり上がってきていたが、形にならなかった。確かに思い出しかけたはずだった。だが指先からこぼれる水のように、それはすぐ消えてしまった。風の匂いが変わったわけでもない。重さも光もいつも通りだ。それなのに、ほんの僅かだけ何かが違っていた気がする。違う、けれど掴めない。そういう感覚だけが胸の内に引っかかっていた。彼女は一度、小さく息をついた。
彼女の隣にいた少女は、黙っていた。問い返すことも、促すこともなかった。その沈黙には意味があった。少女は気づいていた。今、彼女が何を思いかけたのか。その先に何があるのか。けれど、それを教えることはしなかった。思い出してしまえば、この後の道筋が変わってしまうから。だから彼女が迷いを打ち消すように歩き出したとき、少女はただ一歩だけ遅れて、それに続いた。
彼女は、かつて何度かそこに足を踏み入れていた。裏手の窓、掃除係の交代時間、警備員が仮眠に入る深夜の数分間。そのすべてを縫うようにして、ほんの一瞬だけ、彼女に会えていた。話せたわけではない。触れたわけでもない。ただ、顔を見て、存在を確かめる。それだけで充分だった。だが、それはもうできない。痕跡を残したのが悪かった。靴の砂、手の脂、微かに折れたカーテンの留め具。すべてが彼女の侵入を裏付ける証拠となった。そして、それは警戒を呼んだ。彼女だけでなく、同じような手口で接触を試みる者が他にもいた。別の施設、別の女。外見も違い、経緯も違ったが、共通していたのは、生まれの経緯とその沈黙だった。数が増えたことで、彼女の立場は変わった。単なる被写体ではない。象徴となった。だからこそ、今は誰も近づけない。階級や契約ではどうにもならない重さが、その扉を塞いでいた。彼女に会うことは、沈黙に抗うことだった。それを知った瞬間から、全てが敵に変わっていた。
「政界も、映画界も関与してる、危険な話題よ。だから何時殺されるか分かんないからね?」
「托卵率って6%だって聞くし、割と当たり前なんじゃないか?」
「人類がこんなに居たからバカの中のバカ数%で最終的に6%になったんだろ。」
「そうなのかな?・・・そうかも。」
「でも屋敷の外ばっかで中は対策されてないらしい。監視カメラの方が安いだろうに。」
「情報が漏れるんじゃないかな?」
「・・・んー?電子機器は分からん、腕だけで操作出来るラジコンなら分かるんだが・・・。」
「テープだと身内が信用出来ないし、ネットだと情報が漏洩がね。簡単に言うと対話メインの世界と入れ替わりメインの世界があって、どっちも短所が致命的って事。」
「はーぁ、うん。」
言葉が途切れたのは、階段をひとつ上がったときだった。照明は少なく、壁の装飾も古びている。重たい扉の前で、彼女は足を止めた。金属製のネームプレートは外され、代わりに白いテープが貼られていた。部屋番号だけが小さく残っている。かつて何度か通ったその扉は、今も鍵がかかっていない。外の警備とは対照的に、内部にはほとんど対策が施されていなかった。あえてそうしているのか、あるいは誰も近づかないと高をくくっているのか、それは分からない。だが、彼女にとっては幸運だった。扉の向こうに、確かにあの人がいる。手をかける直前、彼女は一度だけ深く息を吸った。
扉は閉じられていた。だが、問題にはならなかった。鍵そのものを開いた状態と等価交換するだけで済む。それは彼女にとって難しいことではなかった。仕組みを知っていれば、鍵の内部にあるピンの配置と、既に開いていた別の錠前とを一瞬だけ入れ替えるだけでいい。この程度のものなら、質量も手頃で誤差も出ない。彼女が背中でわずかに指を動かすと、かすかな音もなく内部の構造が変わった。次の瞬間、扉は抵抗なく開いた。鍵は壊れていない。ただ、正しく解除された。それだけのことだった。
扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。湿度も温度もわずかに異なる。室内は静かで、誰の足音も呼吸音もなかった。彼女の視線が、ひとつの影を捉えた。奥のベッド、その上に横たわる身体。薄いブランケットに覆われた人影が、わずかに動いた。顔だけがこちらを向いている。声は出せない。身じろぎもできない。けれど、確かに彼女を見ていた。視線は震えていた。驚きと、安堵と、懐かしさと、怯えが混ざった目だった。
彼女の足が止まった。背に感じる重さが現実を引き戻す。今は駆け寄れない。腕に抱える身体を落とすわけにはいかない。だが、それでも胸の奥が熱くなる。懐かしさが痛みに変わりそうになるほど、彼女の存在が確かだった。
ベッドの上の彼女もまた、目を逸らさなかった。まるで時間が止まったように、ただその姿を見つめていた。視線だけで言葉を探すように。伝えたいことが山ほどあるのに、何もできずにいるもどかしさが、空気に滲んでいた。何も言えない。ただ、ここにいることだけが、互いにとって唯一の証だった。
「いつか、助けられるかな。」
「どれだけ名声を得れるか次第、だな?」
彼女はその言葉にすぐ返事をしなかった。助けるという行為が、どれほど遠く困難なものかを理解していた。けれど、目の前にいるその人の目が、それでも信じてくれていることを伝えていた。絶望の中に置かれても、なお期待してくれるまなざし。声を出せず、動けず、それでも確かに願っている。だから彼女は逃げられなかった。その重さが、背に感じる重力と混じり合って、足元にまとわりついていた。希望と呼ぶには脆く、決意と呼ぶには弱い。だが、それでも彼女は立ち止まっていた。手を伸ばせば届く距離に、彼女がいた。どれだけ時間がかかっても、その距離だけは変わらなかった。彼女は視線を逸らさなかった。呻くような呼吸が、かすかに室内に響いた。生きている。そのことだけが、唯一の救いだった。
彼女は視線を最後まで外さなかった。けれど、そこに未練はなかった。伝わるものはすでに伝わっていた。言葉も触れ合いもなかったが、それ以上は必要なかった。重さはまだ背にある。けれど、足は迷っていなかった。手元で一度だけブレーキを確かめると、車椅子はゆっくりと向きを変えた。扉の方へと進む動きは、先ほどまでとは違っていた。静かだが、躊躇はなかった。目の前の光景が、過去のものとして納まっていくのが分かった。それを寂しいとは思わなかった。新しい輪郭が、胸の奥に刻まれていた。それは形にはなっていない。だが、次に向かう場所を決めるには十分だった。彼女は部屋の境目を越え、何も言わずに扉を閉じた。金属の音は鳴らなかった。全てが過ぎたあとで、彼女は一度だけ深く息を吐いた。次の言葉が、自分の口から出てくるのを待つように。
「臓器売買とかだと結構な値段する?」
「手術は簡単だよ・・・でも肝心の肝臓がアル中ばっかりで渡しても微妙だから買うしかないんだよねー。ブタのも移植出来るけど割と小さいし。」
「自分の身体にはしないの?」
「・・・私には魔術があるけど、魔術の無い人に渡すのは気が引ける。特に今は。」
「・・・少しは懲りたんだ。」
彼女は冗談めかして問いかけたが、その声音にはわずかに迷いがあった。目の前の現実が、もはやそういう選択肢を否定できない段階にあることを知っていた。彼女は即答した。軽い口調の奥に、知識と実感がこもっていた。それがどれほど現実的な問題か、彼女には分かっていた。皮肉でも理屈でもない。見てきた数と、関わってきた命の重さが、その語尾に滲んでいた。自身の身体を使わない理由を問われたとき、彼女は一瞬だけ言葉を選んだ。魔術があるからこそ、自分には使える。だがそれを他人に渡すことが、今はできない。その境界は明確だった。かつての彼女であれば迷いなく利用していたかもしれない。けれど今は違った。そうした沈黙を、彼女は読み取っていた。わざわざ問い返さない。あえて肯定もしない。ただ、理解する。それだけだった。次の話題に入るとき、言葉は静かに交わされた。命に関わる話であることに、誰も驚いていなかった。彼女が調べた限り、状況は深刻だった。だが諦めではない。延命の可能性は残っていた。条件さえ整えば、延ばせる。彼女は短くうなずいた。そこに迷いはなかった。やるべきことがまた一つ、明確になっただけだった。
「薬は・・・多分無理?」
「確認したが結構頻繁に入れられてる。母親のお陰で農薬も扱っているから知っているが・・・アレはいつ死んでもおかしくない。猶予は十年だな。真逆の成分加えて伸ばせば変わる。定期的に来る事になるな。」
「・・・いいよ、分かった。」
彼女は振り返らなかった。目の前に広がるのは映画街へと続く道。陽の角度が変わり始めた舗道を、足音だけが淡々と進む。光の届かない場所にあったものを陽の下へ持ち出す、それだけのことだった。理想は形にはなっていない。ただ、誰かの中に刻まれてしまった痛みを、このまま流すのが嫌だった。それが正しいとも思っていない。ただ、やらずに終わるのは気持ちが悪い。それだけだった。
警備用の巡回線を越えたとき、金属の音が鳴った。声が上がる。彼女の名を呼ぶような声ではなかった。けれど、それが自分に向けられたものだと分かっていた。何をしている、止まれ、戻れ──そういった命令が一度に飛ぶ。彼女は止まらなかった。ポケットの中から小さな紙包みを取り出す。サブレの欠片。彼女はそれを、指先で押し潰すようにして砕いた。手のひらで丸めた粉を持ったまま、駆け出すこともなく、ふと立ち止まる。そして振り返らずに手をひと振りした。
粉が風に乗って散る。監視員の片目に、瞬時に吸い込まれる。魔術は起動済みだった。成分は簡素。小麦粉、脂質、乾燥甘味──そして媒体にわずかに混ぜた代謝水分。視神経と涙腺の表層と置き換わるよう調整された配合は、視界を濁らせ、眼球の開閉機能を一時的に麻痺させる。目が見えなくなるのではない。ただ、開けられなくなる。声が乱れ、動きが鈍る。彼女はその隙に、近くの配電箱と自分の身体の質量を合わせ、入れ替えた。声の届かない角度、見えない構造。すでに建物の縁にいた。振動が一度だけ壁を走った。揺れは一秒も続かず、すぐに元の静けさを取り戻した。
彼女の姿は消えていた。あとは、誰も追いつけない。踏み入れる者のいない構造の裏側へ、彼女は抜けていった。届くべき場所は、まだ遠い。しかし、進む事は定まっていた。振り返る理由は、最初からなかった。
「それじゃあ、行こっか。富と名声、衰退と忘却、大罪の終着点・・・映画街に。」
そして、車椅子の股の少し手前に彼女は手を置いた。
「出来るだろ、私にずっと性別欺いていたお前なら。」
「・・・。」
「さっきトイレの時しれっと終わったけどよく考えたら変なの付いてたし、先ず体の重さが少なく感じたのも偶然ではない。」
恥ずかしくなってきたが、昔は入れ替える為に男を漁ったが・・・大体釣られる奴は問題を抱えていたので入れ替えはしたくなかった。その時に偶然彼女が反応してくれて、それを利用したに過ぎない。
「その演技力があるなら通用する、映画街は最近バカが多いからな。」
彼女は、違う視点で物事を見るように車椅子の持ち手を正面から抑えている。
「結構前の時点で気付いてはいたぞ?だが、触れるべきか以上に演技力を試したかった。」
・・・彼女の性格は、鋭く、厳しい。
しかし、これほどまでに頼れる女は中々いないものだろう。