第5話
「ごめんなさいね。きっと、この裁判は皆さんの汚点になる」
時間遡行研究の第一人者であり、時間遡行機の開発者の一人である車椅子の老婦人がそう言ったのは〝自由科刑〟で決まった刑が執行される日のこと。被害者である少女が退室した後のことだった。執行前の最終確認でも少女の意思が変わることはなく、結局、刑は執行されることになった。
刑を執行すれば被害者である少女が消える。少女の求刑内容を妥当と判断した全員が世間やマスコミからバッシングを受けることになる。
裁判官も検察官、弁護士、有識者も全員がうなだれ、しかし、ゆるゆると首を横に振った。
全員がすでに現場を退いていて不思議のない年令だ。そんな老兵ばかりがこの裁判を担当したのは裁判官同様、三十年前の自分たちの判断に疑問を持ち、振り子のように行ったり来たりする気持ちに苦しんできたから。
そして、疑問は確信になり、後悔になった。
「未来には……あなたの本来の時間軸には戻られないのですか?」
「ええ、戻るつもりはありません」
老婦人はきっぱりと答える。
「時間遡行の研究を始めたのも時間遡行機を開発したのも過去に戻って確かめたかったから。あの時、あの人から聞いた言葉と父から聞いた言葉のどちらが本物でどちらが偽物だったのか。それを確かめたかったからです」
被害者である、かつては少女だった老婦人は研究の末、過去に戻る方法を確立した。そして、確かめた。自分の身に起こったことの原因と、信じたかった父親の言葉が偽物だったことを。
その後、望む結末を求めて過去にやってきたのだ。自分自身の研究の成果を存分に活かして。
素晴らしい成果だ。世紀の大発明だ。
でも――。
「あの悲惨な事件があったから。辛い日々があったから。だから、素晴らしい発明が生まれたんですね、なんて言われるのも思われるのも真平御免。せっかく助かった命なんだからなんて言われるのも、もう沢山」
老婦人はそう言って穏やかに微笑んだ。
頭部全体に包帯が巻かれていて目と鼻の穴と口しか見えない少女と、目の前の穏やかに微笑む老婦人と。面影があるかと聞かれても比べようもない。
ただ――。
「体も心も不自由で仕方なかった。でも、過去でなら私は〝時間遡行研究の有識者〟として死ねる。やっと楽になれる。本来の時間軸に戻る理由なんて何一つないのよ」
凪いだ目は同じだと、確かに同じ人物なのだと――そして、凪いだ目の原因の一端は自分たちの節穴な目なのだと裁判官たちに突きつけてくる。
「戸籍を用意してくれた方たちに感謝をしないと。私の研究欲しさとは言え、ね。彼らに伝えて。私が消えても私の研究も時間遡行機も消えませんから安心してください、と」
「そういうもの、なんですね」
「そういうものなんですよ。小説や映画ではタイムパラドックスによって大事件が起きたりしますが、現実は歪みを戻そうとする力が働きますし、何より私たちの目が節穴ですから。歪みによる違和感に気付かず、気付いても目を逸らして気付かない振りをしてしまう」
そう言って老婦人は自嘲気味に笑う。
「私が消えても今、この時間に時間遡行に関する研究と時間遡行機が存在し、〝自由科刑〟によって一人の人間が消えたという事象があればそこに向かって歪みを修正し、誤魔化しながら時間は流れていく。小説や映画のようにはいかないものなんですよ」
だって、現実は人間の一人や二人いなくなった程度で揺るがない。
「だから、この裁判に関わるのはイヤだったんだ」
刑が執行されたのだろう。
裁判官たちの前には空の車椅子だけが残された。
とある男は居もしない娘を裁判で奪われたと訴え、暴れ、狂って正気を失ったのだと判断されて閉鎖病棟の一室に押し込められた。
隣の部屋では、とある娘を殺された男がいつからそうしているのかもわからないまま、今日も体を前後に揺らして同じ言葉を呟き続けている。
どうしてこんなことになったのか。
「彼女たちの記憶も、この裁判の記憶も、私の中には残り続けるのか。一生、死ぬまで、消えてくれないのか」
〝自由科刑〟に関する機密情報の閲覧権限を持つ者だけがその理由を知っている。
空の車椅子を見下ろして裁判官は機密印の押された書類をぐしゃりと握りしめた。