表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ガニミズムの思索

ガニミズム驕声〜アンドレ・ブルトンに憧憬を込めて〜

作者: ガニミズム・わいばーん

大きな声でご挨拶!!

おはようございまぁぁ〜〜す!!

わいちゃんでぇ〜す!!


今日は僕、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言みたいになりたくて、書いたよ!

よかったら読んでってぇね〜。





《《僕についてのこと》》


____ガニミズムは言葉を必要としない。これは叫びである。


 2024年7月26日、僕は国立近代美術館の企画展に行ったのね。絵を見ながら僕、ふと思ったのだ、この美術館に飾られている絵と、SNSで膨大に投稿され流れてゆく絵と、何が違うのだろう、片方は美術館に飾られ多くの人々がお金を払って見に来て、他方はネットの海に消えてゆく。何が違ったんだろうか、と。もちろん僕のこの感に反論は山ほどあるだろうし、美術というムーブメントの中で試行錯誤し研さんした画家や批評家、キュレーターの姿であり、美術サロンでの見聞を広め人脈を作り戦略的に自分の作品を展開してゆく姿勢、だのね。でもそれでも作品そのものに限って見てみれば、美術館の絵とネットの絵に何か決定的な差があるのだろうか、それは発表年数と画家の学歴修行歴サロンの交流といった、ストーリーの差しかないのではないか、わいちゃんはそう考えてしまうのね。


____ガニミズムは名を与えてはならない。言語化してはならない。生き様、エネルギーの総称。


 僕は劇作家寺山修司の行っていた市街劇、というものが極めて重要なものだと考えているのね。これを天井桟敷の自費出版の「地下演劇」という本で知ったんだけど、そこに載ってた「市街劇一m四方一時間国家」の台本と、ヨーロッパで行われたそれらの公演の総括座談会の書き起こしを、読んだのね。そこには寺山修司、九条映子、JAシーザーといったすごい人達が喋っててビックリしたのね。その総括を読んで、わいちゃんさらにびっくりびっくりしたのね! 彼ら天井桟敷が話していたのは市街劇が上手くいったか否かではなく、いかに芝居というフィクションが、現実というものに拮抗できるか、そしてあわよくば現実を芝居というフィクションによって打破、飲み込んでその優位を奪ってしまえるかという、目論見だったのね!

 も一つ。言うとね。わいちゃんは「市街劇人力飛行機ソロモン」の映像を見たことがあるのね。それは木で組み上げられた飛行機が群衆の真ん中で火をつけられ燃えてゆく映像だったのね。そしてそれを僕はある時ふいに思い出したのね。あ、「人力飛行機ソロモン」と、これは似ているんじゃないかって。それは大分県の一部に伝わる民間芸能、修正鬼会の映像を見た時なのね。それは巨木に火をつけて男の人達が担いで村中を走り回っていた。その時僕は"もしかしたら寺山修司達の現実をフィクションが飲み込んでゆく様は、民間芸能、この修正鬼会に近かったのでは、と思ったのね! そしてその儀式は今もその村に脈々と息づいている、のね。


____ガニミズムとは、その人個人その人のみの身体感覚があり言語があり、安易に言葉にしてはならない、ということ。


 わいちゃんも一つ、語りたいことがあるのね。それはかつて岡本太郎芸術祭で次賞岡本敏子賞を受賞した弓指寛二さんの作品「Oの慰霊」のことなのね。この作品は、1980年代に活躍し衝撃的な最後を迎えユッコシンドロームという社会問題にもなったアイドル、岡田有希子をモチーフにしたものなのね。

 高さは6mはあろうかという画板をコの字に配置し、正面には巨大な鳥の絵、側面は大量の絵馬で埋め尽くされている。この画家さん自身が自死をテーマに絵画制作をしているのね。

 丁度、僕が見に行った日が岡田有希子の命日に近くて、彼女のファンが四谷の交差点に集まるって聞いたから、これも何かの縁と思いその交差点に手を合わせ黙祷しに行こうと思ったのね。

 僕がその交差点に着いたのは10時半頃だったかな。ガードレールに腰かけてね、ぼ〜っとしていたのね。

 11時、11時半。すると何人かの人が集まって来ていた。

 そして徐々に徐々に人が増え始めて、12時に近くなるころにはその交差点に人が溢れてたよ。

 有志のファンの人は人通りの邪魔にならないように交通整理もしていたよ。植え込みには彼女の写真が飾られその周りにはたくさんのお花やお菓子が備えられていて。その人の中には当時の岡田有希子を知らないであろう中学生もいたよ。みんなはみんな、アイドル岡田有希子の話をしていた。そして12時になって、みんなで手を合わせて黙祷したよ。今、ここの四谷の交差点には、今は亡きアイドル岡田有希子への思いで溢れていた。それは、異化された空間であり、僕は美術館で見た絵以上に、芸術的だと思ったよ。



《《あなたについてのこと》》


 ガニミズムとは、今このSNSの社会においても、私的な極めて個人的なものの肥大化により得る快楽の中だからこそ、己の中の美に深く向き合わねばならなくちゃ、です。僕は冒頭でそれを"名を与えるな、言語化するな。"と言ったけどでもしかし"生き様、エネルギーの総称。"だとも言っちゃった。しかし形を与えることがガニミズムではない。ゴミとアニミズム、ゴミ芥のようなガラクタに魂が宿るという造語だけど、たいそうなものじゃあない。ゴミである、という自己肯定とは真逆の言葉だけど、しかしそれは過剰になり過ぎ暴走している価値、物からの脱却なのねなのね。本当の美とは。感動とは。名や言語にならない神の領域のことだと、思うのね。きっと、美術館の額縁にちょこんと収まることはない。つまりは美への懐疑なのね。



《《ではいかにガニミズムを定義するか》》


 ガニミズムとは民間芸能のようでもあり、プリミティブな己の中の美術館を創るということでもあるのね。それは同人誌即売会「コミックマーケット」のようでもあり、「小説家になろう」の交流かもしれない。その本質とは。作品、物、対象と観察者とのエネルギーのやりとりこそが、ガニミズムにおいて美に値するのね。作品が美ではない、やりとりのエネルギーが美! なのね。これは既存の美術の歴史の粗悪な焼き増しで当然の当たり前の話と言われちゃうとそうかもしれないけど、しかし重要なのは感動や生き様、やりとりされるエネルギーとして刹那を示し続ける活動それこそが美術、本質なのね。それだから、価値、物=美術作品からの脱却というよ。でもそれでも作品そのものに限って見てみれば、美術館の絵とネットの絵に何か決定的な差があるのだろうか、それは発表年数と画家の学歴修行歴サロンの交流といった、ストーリーの差しかないのではないか、わいちゃんはそう考えてしまうのね。

 それが民間芸能でありプリミティブな美術館なのね。そのようなガニミズムとしての美が名や言語や価値や物でないならば、それは時間と空間と記憶だと、わいちゃんは言う、のね。そしてそれを僕はある時ふいに思い出したのね。あ、「人力飛行機ソロモン」と、これは似ているんじゃないかって。

 ゆえに、それを美術館で展示することはできないと思うのね。美術館はガニミズムを歪ませる、なぜならその人の生き様、エネルギーを示すという活動に強く干渉し時に阻害すらするからなのね。そして徐々に徐々に人が増え始めて、12時に近くなるころにはその交差点に人が溢れてたよ。

 もし徹底した名と言語と価値と物を推し進めた画家がいるとすれば、それは価値と物が人の形をしたものであり、ガニミズムにおいてはそこからの脱却しなければガニミズムではないのね。つまりは絵やそれらではなく観察者の反応、いや観察者そのものこそが美であり美術であるということがガニミズムだと言っていいのね。言葉を必要としない。これは叫びである。名を与えてはならない。言語化してはならない。生き様、エネルギーの総称。その人個人その人のみの身体感覚があり言語があり、安易に言葉にしてはならない、ということ。

 時間と空間と記憶という。物質の、世界へと己を固着させる碇だよ。



____________________________________



【付録】

 わいちゃんなりにガニミズムを図にしたよ!

 ↓

 ↓

 ↓



⇒《《ガニミズム、ゴミに魂が宿る》》

↑________________________

④民間芸能。

↑プリミティブな美術館。

↑________________________

③名を与えず。言語化せず。

↑価値、物からの脱却。

↑________________________

②感動。生き様。

↑やりとりされるエネルギー。

↑________________________

①刹那を示し続ける活動。

 時間と空間と記憶。



【付録2】

 ガニミズムの簡単な解説をするよ!

 ↓

 ↓

 ↓



 僕はこんな実験をしたことがあるのね。


 机の上にある空き缶をAくんに「はい」と渡す。

 するとAくんは「?」と言いながら受け取る。

 今度は空き缶をゴミ箱の中に入れる。

 そしてそれを拾い上げてAくんに渡す。

 するとAくん「そんなゴミ渡すなよ! 汚い!」と言ったのね。


 確かにゴミ箱の中は汚いかもしれないけど、ではしかし通学で電車の吊り革を握った僕の手の方がゴミ箱の中より清潔だと言えるかな? その吊り革は鼻水を手で擦って手を洗わずに握ってるかもしれないし、おしっこした後に手を洗わずに握ってるかもしれない、そして手の細菌はいろんな所に触っているからとっても多いとも言われているのね。つまりAくんの言った「汚い!」というのは科学的な細菌の数ではないと思うのね。

 では何か。それは僕が《捨てるという行為=使用》によって空き缶だったものをゴミに変化させたからAくんはそれをゴミと認知し「汚い!」と言った、のだと考えたのね。僕はこの変化を、物が《捨てる=行為=使用》によって変化する、物に魂が宿る=アニミズムをもじった造語として"ガニミズム"と名付けたのね。



追記。

 僕は国立近代美術館の所で「ストーリーの差」と言ったけど、ガニミズムの"感動、生き様。"を筆頭にそれそのものが「ストーリーの塊じゃないか」と思われるかもしれないのね。でもね。僕は

"名を与えず。言語化せず。価値、物からの脱却"。

 が大切だと考えているよ。それは、価値、物にがんじがらめにされずに作品と観察者がエネルギーのやりとりをする、ということだよ。


……なんだか、怪しげな自己啓発みたいになっちゃったのね……。でも、そんな所からでもでは美とは美術とは何か、と問うこともあるのの。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ