1.人生の主役はひとり
コポコポコポ……
冬の凍てつくような水が、肺に入る。
(旦那様の心がつかめなかった、私が悪いのだわ)
衣服が鉛のように身体にまとわりつく。
だれか、たすけて、おねがい。
こんなことなら、最後くらい自由に生きたかった―――
◇◇
「ぐぅぬぬ、だっるいわぁ」
頭が割れるように痛い。
二日酔いなんていつ以来だろう?
酒に飲まれるなんて大失態に、悪態をつく。
身体を起こすと見たことのない部屋だ。
シーツの上質な感触はどこかのホテルのようだが、アンティークなインテリアに見覚えはない。力の入らない身体でなんとか立ち上がると、鏡が目に入る。
「ひっ!!!」
げっそりと頬がこけた、骸骨のような女がこちらを見ていた。
窪んだ瞳は不気味にぎょろつき、カサカサの肌にはボサボサの髪が脂で張り付いている。
「だれ、このブサイクな女」
『ブサイクですいません……』
頭の中に弱々しい声が響く。振り向くが誰もいない。
『守護霊さま、こちらでございます』
再び鏡を見ると、鏡に映っている女が口を開く。
『私はメディチ王国 皇太子妃、ユーリと申します。』
「なにこの鏡?」
『あぁ、天に祈りが通じたのですね、神よ、感謝いたします』
「はぁ?ん?なにこれ!」
鏡に映る女が自分だとようやく気付く。
骨の浮き出た手の甲をつねるが、ちゃんと痛い。
まさか異世界転生、とかいうやつだろうか。
教養として流行り物は一通り読んだことはあるが。
「ちょっと待って。今あんた、皇太子妃とか言ってなかった?」
『はい。皇太子妃は私の他にも2人おりますが』
「妻が3人いるってこと!」
とても一国の妃とは思えない、みすぼらしい女がこくんと頷く。
「ほかの妃を蹴落として、王子様のご寵愛がほしいとか?悪いけど、略奪愛なんて私の専門外だよ」
『いえ、殿下への愛情はないのです』
「じゃあ、あんたは神様とやらに何を願ったの?」
鏡の中の女は顔を苦しそうにゆがめる。
『私は…!』
そのとき、部屋の扉が開いた。
「あら、奥様。もう起きてたんですかぁ」
ノックもせずに入ってきたのは、メイド服を着た若い女だ。
どうにも態度がでかいが使用人のようだ。
「のどが渇いているのだけど」
「えー、そこに置いてあるじゃないですか」
メイドがめんどくさそうに指さしたのは、ベッドサイドの水差しだ。
いつから置かれていたのか、レモンの輪切りが浮いた水は、濁り、埃まで浮いている。
(私にこれを飲めというの。いい度胸じゃないか。)
「あなた、上司を呼んでいらっしゃい」
「えー?何言ってるんですか奥様」
「早く呼んできなさい」
ぶつくさいうメイドを追い出し、鏡を睨む。
「皇太子妃なのに、なめられすぎじゃないの」
『殿下に見捨てられている私のことを、宮の者はみな軽蔑しているのです』
「それでもここはあんたの縄張りでしょ、しっかりしな!」
『ヒッ』
ジメジメと嘆きはじめた女に喝を入れていると、再びノックもなしに扉が開く。
「メイド長呼んできましたぁ」
「奥様、お呼びと伺いましたが」
不機嫌そうな年かさのメイドが立っている。
「遅かったわね。あなた、この水を飲みなさい」
「はあ?」
メイドは、先ほどのにごった水差しをみて顔をしかめる。
「ハイハイ、新しいのをお持ちすればいいんですか」
「私の言葉が分からない?あなたに飲めと命じたのよ」
「奥様!いやがらせですか?!」
「あら?そこのメイドは私にこれを飲めと言ったのだけど?」
「そっ、それは」
メイド長ににらまれ、若いメイドが引きつる。
「もちろん上司のあなたなら飲めるわよね?」
「殿下に報告しますよ!」
「皇太子妃が自分の食事をメイドに食べさせようとするんです、って?お笑いね」
「っ!!」
「報告できるのならしたらいいわ。それとも私からしましょうか?」
埃の積もった水差しを笑顔で差し出すと、メイド長は怒りで震える。
「ほらどうぞ?」
きしむ背筋を伸ばし、目を細めて威圧する。
「一滴でもこぼしたら、許さなくてよ?」
赤い顔で水を飲み干したメイド長に、若いメイドが駆け寄り頭を下げる。
「メイド長!申し訳ございません!!」
「まだ分からないの?お前たちの主人は、この私よ」
青ざめたメイドたちの前で仁王立ちし、宣言する。
「この身体に傷ひとつつけてごらんなさい。次に不作法があればこの程度では済まないわ」
ひと睨みすると、メイドたちはバタバタと部屋から出ていった。
「従業員のしつけがなってないね」
『ヒ、ヒィィィィッ~~~~!』
鏡をみると、ユーリまでカタカタ震えている。
『守護霊様じゃなくて悪魔が降臨してしまった~~~~!』
「だれが悪魔よっ!」
『そんなに怒らなくても~』
「あのねぇ、この身体は誰のものだ?」
ガリガリにやせ細った鶏ガラのような全身を、鏡に映す。
栄養不足でボロボロになった肌と髪、折れそうに細い手足、何日も変えていないだろう寝巻。
『アッ……皇太子妃であるこの身体は、国のもの…です。自覚が足りませんでした』
「ちっがーう!!そういうことじゃない」
うなだれる女を睨みつける。
「あんた、この身体は自分のものだろ!自分の身体を、自分が守らなくてどうするんだ」
『自分の、身体?』
「そう、あんたがお姫様だろうが主婦だろうが関係ない。自分の身体を大事にできるのは自分だけだ」
『それはそうですけど』
「私の身体を、軽視し侵害する奴を、私は絶対に許さない」
そう断言すると、ユーリは驚いている。
『守護霊様は、ご自身のことをとても尊ばれているのですね』
「自分の心の声に耳をすませるんだ。なにがしたいのか、自分の気持ちに正直になれ」
「自分の気持ち……」
「あんたは、本当は何がしたい?何のために私を呼んだ?」
ユーリはうつむき、悩みながらぽつりと話始めた。
『三年前にこちらへ嫁いでから、殿下とよき夫婦になれればと努力してきました』
「そうかい」
仕事柄、若い女の身の上話や人生相談にはなれている。
ユーリは今、初めて誰かに自分のことを話そうとしているのだろう。じっと話すのを待つ。
『殿下には無視され続け、今回池に落ちて死の淵をさまよったときでさえ、手紙のひとつすらありません』
「ひどい話だね」
『私はこれ以上、誰かの愛情を乞い、機嫌を伺い、生きていきたくないのです』
それまで気弱だった女の瞳に、光が宿る。
『私は死の間際、願ったのです』
「ほう?」
『私は……自由に生きる力が欲しい!皇太子妃をやめて、自由になりたい!』
鏡の中の女が、貪欲に叫ぶ。
いい顔だ。
私は今にしがみつく女より、今を変えようと必死にあがく女が好きなんだ。
「いいね、上等だ」
『でもこんな考え、わがままですよね』
恥ずかしそうに身体を小さくするユーリを、まっすぐ見つめる。
「いいかい?自分勝手に振る舞うことと、自分を大切にするってことは違う」
ユーリはピンとこなかったようで、首をかしげる。
「あんたの人生の主役は誰だい?旦那か?」
『……!』
「そう。いつだって人生の主役は一人しかいないんだ。自分だよ」
『私が、主役』
「そう。人生の歓びも哀しみも、すべてあんただけのものなんだ!」
ユーリは呆然としている。
「あんたが男の手を借りずに生きたいのなら、私が力を貸そう」
『守護霊様は一体……?』
「ふふ、その道のプロだよ。これでも銀座の女でね」
『銀座?』
「粋な大人の社交場さ。女が己の才覚と身一つで戦う戦場でもある」
とっておきの笑みを浮かべる。
「銀座の女には、世間体も肩書きも関係ない。腕一本で食い扶持を稼いで、自分の意思で生きるのさ」
『なんだか、たくましいですね』
「私があんたの願い通り、自分の人生を取り戻す手伝いをしてやろうじゃないか」
『はい!』
ユーリの瞳が輝く。
メイドが床に落としていった水差しを拾い上げる。
栄養不足な細い腕にはやたら重たく感じるが、あいにく私は逆境には慣れてるんだ。
「さぁ、はじめるよ」
鏡の中の女に向かって、ニヤリと笑いかけた。