Ⅲ56.王弟は聞き、
「ならば今後現れたら言付けを頼んで欲しい。翌日の同じ時間にここで待つと」
そう告げ、セドリックはカウンターに両腕を置きながら店主へ僅かに上体を前傾した。
昨日団長に遭遇したという酒場。レオンから詳細を聞き、もう一度遭遇することができないかと足を運んではみたものの、そう簡単に相まみえることはできなかった。
閑古鳥が鳴くことの方が多い閑散とした酒場に二日連続で妙な客が来たものだと店主は思う。カウンターの向こうから出ようとはせず一定の距離を保ったままセドリックの質問には答えたが、その間も長身の彼よりもその背後の護衛らしき男達の方が気になった。
セドリックも充分に長身だが、身体つきだけで言えば背後の護衛三人に暴れられた時を考えた方が恐ろしい。昨日と同じく、今日も明るい時間の客は目の前の彼らだけだ。
わかった、言うだけだなとセドリックからの頼みに頷きながら、彼へ酒を注いだグラスを差し出した。
情報代代わりに酒を注文するセドリックは、三杯目のそれを難なく傾けた。
「彼は、どれくらいの頻度でこの店に?他に知り合いや行きつけの店に覚えはないか」
「知らねぇな。うちの店に来たのも昨日は一週間ぶりだったが、その前の前は一年だったか。昔馴染みには違いねぇが、常連ってほどでもなぁ」
「そこの〝スミシー〟という名札。ボトルはいつからの取り置きだ?」
首を捻る店主に、セドリックはその背後に並ぶ酒瓶の一つを指差した。奥から引き出されたばかりのボトルは被っていた埃も拭き取られ、手前の列に並べ直されていた。
〝スミシー〟と、店主から聞いた男の名は、本名ではない。あくまで酒場で飲む間だけの偽名だ。それはセドリックも察しはついている。
昨日ユミルから聞いた団長の名とは全く違う、しかし明らかにサーカス団関係者であることすら伏せていたらしい彼が名も偽っていたとしても何ら不思議ではない。
自分の背後を指し示すセドリックに、酒のボトルへ振り返りながら目ざといなと店主は思う。まさか昨日の今日で今度はサーカスではなく店の常連のことを聞かれるとは思いもしなかった。
ひと月前だ、と。そうまだ新しい売り上げ記憶を口にする店主は、何故彼がサーカスについてあんなに詳しかったのかもしらない。この時期になると客の間でサーカスの話題は珍しくもない。
そういえば昨日が特に口が回っていた、と。そう思い返しながらも、だからといって彼の正体を深入りしようとも思わない。
「年に一回取り置くんだよ。スミシーの奴とはもう十年以上は経つがまぁ悪いやつじゃねぇよ。こんな古びてしみったれた店と酒に金を落としてくれる。ああいう奴のお陰で俺は、奴隷にも貧困街にも世話にならず生きていけてる」
「!その貧困街についても少々聞かせてはくれないだろうか」
カン、とちょうど飲み切ったグラスをカウンターに置きながら瞼を大きく開く。
年に一回、取り置くという言葉から今後もボトルを飲み切るまでは酒場に訪れる可能性は高いと期待に目を輝かすセドリックだったが、その後に続けられた言葉も今は興味が高い。
昨日は自身も内部に身を投じた貧困街だったが、アーサーの話ではあの組織自体にも曰くが感じられてきた。ただでさえ組織のトップの正体を知る身としては、そこに不穏を覚えずにはいられない。
プライドの予知には関係なくとも、今後なんらかの予兆である可能性は充分にある。
思わず声量を上げるセドリックに、店主は返事の代わりに更に一杯酒を注いだ。酒一杯分で応えてやると有無を言わせない先払いに、セドリックも文句はなかった。しかし自分ばかりが飲むのも悪いと軽く背後に控える騎士に振り返ったが、エリック達三人揃って口を結んだまま首を横に振ってしまう。セドリックの視線の意図は察せられたが、あくまで護衛中の自分達が酒を安易に口をつけることは難しい。毒見やセドリックが限界であれば別だが、それ以外で任務中に酒など基本許されない。
「貧困街はいつから生じたのか。ここ数十年内のことなのだろう?」
「いつ……って、そりゃあ確か、…………ああ、いや。でもざっくりとしか言わねぇぞ?」
悪いが、と。そこで店主の断りに、セドリック達は口の中を飲み込んだ。「俺もはっきりと覚えてるわけでもねぇ」と店主の言葉にも無言のまま、先にセドリックは振り返りエリックと目を合わす。
ただ、自分達が想定した年数よりも遠く、そして数十年内とくくるにはあまりに近い期間であることだけが語られた。
予知ではなくあくまで自身の興味だと自覚にしつつもセドリックは更に問いを重ねる。その度に酒を注がれたグラスがとうとう新たにテーブルに並べられたが、それも黙認し続きを促した。
「貧困街は報復が厳しくてな。ちょっと貧困街の情報を漏らしただけで、もう何件も家や店だって潰されてる。一般人は関わりたくもねぇから今じゃあ噂もしねぇ。知りたけりゃあ貧困街に直接か、もしくは〝奴隷商人〟の方が詳しいと思うぜ」
当時のことは記憶に真新しい連中は多い、と。当時のことを想い出し目が僅かに遠くなる。
当時から自分の店は大して栄えてもいなかったが、それでもこの街に生まれてからずっと住んでいる店主にとっては大きな出来事だった。今では街で当然のように横行する貧困街だが、あの頃は革命でも起こったような錯覚すら覚えたと思う。
質疑応答を重ね、気付いた時にはセドリックの前には六つのグラスが並々と酒を注がれたまま並んでいた。質問を重ね終え、やっと溜息にも近い息を吐いたセドリックは椅子へ腰を落ち着かせ直してからグラスの水面を軽く左右に揺らした。貧困街にはまだ、踏み込み切れていない暗雲があるのだと理解する。
しかし、ここでそこまでの調査をするほどの時間を今の自分達は持て余していない。あくまでプライドとそして自分達の安全を確保されるかの確認程度。この国は自分達の国ではない。ラジヤだからといってどうなっても良いわけではないが、自分達が深く立ち入って良い領域でもない。
口を最初から付けていたグラスの淵を唇に当てながら、そこでまた思考が先立ち動きが止まる。ふー……と息の薄い音だけでグラスの中身は波紋を作る。
「店主は、……貧困街をどう思う?貧民に手を差し伸べ守る義軍か、それとも国外の裏稼業と同じ違法集団か」
「そりゃあ違法集団に決まってるだろ。うちに流れてきた観光客も何人が奴らに財布を奪われたか。奴隷だってこの街じゃ立派な商売だ」
今だって上手く回ってる。と、そう言いながら人差し指をくるくると空で円を書いてみせる店主に悪意はない。
セドリック達もそれを理解し、そこに口出しはしなかった。完全なる価値観と文化の違いを、ここでたった一人の一般人にぶつけたところで何も始まらないことは昨日既に思い知っている。
「まぁまぁマシにはなったかもな。貧困街のせいで簡単に狩れなくなったからか、奴隷狩りもでかい組織が幅利かせるのも見なくなった。俺がガキの頃は一人になったら奴隷狩りに遭うってんで親の職場にまで毎回毎回連れ歩かされたもんだぜ」
奴隷になりたくないと言いながら、奴隷の存在は認知している彼らはやはりどこか歪んでいると感じながら、酒の味が最初より不味くなっていることだけを自覚した。
ひと思いに口をつけたグラスだけ一気に傾け飲み干してから、セドリックは水を注文した。酒自体はまだまだ飲めるが、頭を冷やすに今は無味が欲しかった。セドリックからの注文に店主は顔色を心配しながらも水差しを手に取る。
「飲んだら帰れよ。最近また物騒になってきたから気を付けろ。酔っぱらったのも店出たらバレねぇようにな」
バレたら間違いなく貧困街に財布を狙われる。そう断言する店主から手を伸ばし水を受け取りながら、セドリックはまだ表情筋に力が入ったままだった。
プライドとの約束を守っているのならば貧困街に襲われることはない。しかし、奴隷狩りが横行しているにも関わらず警戒するのが奴隷狩りではなく貧困街だということに、改めて彼らには大して脅威ではないのだと思う。奴隷狩りが黙認されていると同時に、その標的が下級層に位置する民の今は自分のような観光客や彼らのような一般の民は滅多に狙われない。
同じ人間であるというのに、はっきりと彼らの中では貧民層は〝別の存在〟で奴隷狩りの脅威も〝別世界〟として区分されているような感覚が気持ち悪い。
少なくともアーサーから語られた数十年前には共有した脅威の世界だったようにも思えるのに、それをこの街に住み続けている人間は自覚もないのだから。
「……人狩りが、怖くはないのか」
「いや怖ぇよ。だからこうして必死に稼いでるんだろ。敵にだって回したくねぇ、昨夜だって人狩りに喧嘩売った馬鹿がそのまま商品だって噂で持ちきりだ」
「?それは違法ではないのか」
思わずの零した疑問に、思ってもみない返しをされセドリックは目を丸くする。
てっきり区分されていると思っていたのに、そんな理由でも奴隷堕ちさせられるのかと驚く。聞き返すセドリックに、店主はまた新たなグラスへ酒を注ぎ並べながら首をはっきりと横に振った。
奴隷を自分と切り離していることは確かだが、しかし全く無関係と思うほどこの街で呑気に生きてはいない。
苦笑にも見える苦い口と笑う目のまま、店主は「こんな属州じゃな」と吐き捨てた。
ラジヤ帝国、そして属州。何年も遥か昔に国としての形も誇りも失い、本国とされるラジヤからも遠く離れ管理もずさんなこの土地で奴隷に関わる法律など存在はしても曖昧だ。
法律ではあくまで奴隷に値するのは奴隷が生んだ子ども、もしくは正式な手続きで金や取引と引き換えに売買された人間や刑罰で落とされた罪人。だが、それを知るのはあくまで売る側の書いた商品説明だけだ。
「衛兵だって朝から酒飲んでまともに仕事しねぇ、腐った行政と腐った街だ。奴隷が命欲しさに嘘を吐いても誰も気に留めねぇ。「俺は奴隷じゃない拐われたんだ仕事もあるし帰りを待ってる家族もいる助けてくれ」って。……金目のもの取られて奴隷の焼き印されたら無実の証拠はどこにある?」
ぞわり、と。
冷めきった単色の店主の眼差しに、セドリックは全身の血の気が引いていくのを感じた。酒を口に含んでもいないのに喉がゴクリと生々しく鳴る。
奴隷市場をレオン達に任せ、昨日も今日も自分はまだ一度も赴いていない。しかしそれでも店主の言葉を聞けば嫌でも嘆き命を乞う民の声が本当に聞いたかのように想像できてしまう。自国も一度はそこに落とされかけた立場だ。昨日見た光景は、あれでもまだこの世界の明るい部分であったのだと思い知る。
ならばその喧嘩したという無実の男も助けなければ、と一度は腰を上げかけたセドリックだが、エリック達が止めるより前に店主から「やめとけやめとけ」と言い捨てられた。
この街では馬車に人が轢かれる程度の事件だ。そんなことでいちいち首をつっこんでいたら命がいくらあっても足りない。喧嘩の腹いせに違法に奴隷を作っていくような連中に自分から喧嘩を売るなど馬鹿げている。
「俺も野次馬には行ったが、喧嘩売った奴も今回はその奴隷狩り連中に結構な借金してた馬鹿だ。うちも一度踏み倒された覚えがあるツラだった。金も用意できねぇ奴隷にもなれたくねぇ死にたくねぇって、酔いに任せて酒場で暴れ回っての返り討ちだ。遅かれ早かれ奴隷行きだ」
今回は。その言葉にセドリックはもうグラスに手をつける気がなくなった。
こんな土地に住んでいたら麻痺するのも当然だと理解する。つい三年前までは自国から出たことすらなかった自分だが、書物で読んだ以外本当に己は何も知らなかったのだと思い知らされる。目の前の店主だって話す分は人当たりの良いそして協力的な人間だが、やはり自分と常識や良心の基準が異なっている。
アーサーが語っていた数十年前のこの地の状況と比較し、やはり大きな変化は良くも悪くも貧困街だけだとセドリックは確信する。
本当に、彼らの意識や常識が時代の流れと共に変わったわけではない。ただ、貧困街が無から生じただけだ。
カウンターに一度腰を下ろし直したまま口を閉じ視線をグラスに落とし続けるセドリックに、そこでエリックがそっと「ダリオ様」と声をかけた。店主に聞き込みも終えた今、これで今日の予定が終わったわけではない。酒場での団長の情報収集はあくまでたった一端だ。
「…………邪魔をしたな。残りは良い、好きにしてくれ」




