Ⅲ40.越境侍女は相対する。
─ ほんっっっっっとにこの子は。
プライドは心の中で唸りながら、結んだ唇に力を込める。
にっこりと意識的に口角に力は込めるが、本当ならセドリックの耳を引っ張るくらいはしても良かった。
ゆっくりと落ち着いた足取りで前に進み出ながら、自分の方に振り返り茹った顔のセドリックへも目を向ける。
彼がエルドに敵意を向ける気持ちはわかる。兄を大事に想いそしてレオンとも親しい彼がそれを水に流すのは難しく、相いれないことも理解する。自分だって彼らのことは未だに許せない。当時は様々な要素が重なり憎みもした相手だ。全く根に持っていないと言えば嘘になる。
彼らの犯した事件に少なからず関わった当事者として、今でも思い出せば腹立たしくも思う。こうして目の前で今もふんぞり返っている姿を見れば、更生しているか判断も難しい。
しかし今優先すべきは過去の恨みではなく、現実でこれから救うべき民だ。彼らの現状がどうであろうとも、ちゃんとアネモネ王国からの罰を受けて今はここにいる。それを胸にプライドは音もなく息を吸い上げ、セドリックとステイルの位置から一歩背後で両足を止める。
過去に憎んだほど非道な王子だった青年を、正面から彼の目には映らない紫色の瞳で見据える。
「改めましてご挨拶致します。フィリップ様の侍女ジャンヌと申します」
なんだこいつは。と、エルドは思う。
憮然とした表情で見返しながら、一向にエルドはジャンヌへ返事をしなかった。
ジャンヌがこの場の空気を制してからずっと、表情に出さずとも身体の内側は動悸が鳴りやまない。しかも心地の良いものではない、まるで悪夢で目を覚ました後のような気味の悪さだ。蛇に睨まれた蛙の気分にも近い。自分でも何故こんな女如きでここまで落ち着かないのかわからない。
ちらりと、本当に一瞬だけ盗み見るように弟を見れば彼は顔色にも出ていた。自分と似たようなものを感じたのか、口を閉じたまま僅かに背中が反っていると気付く。
王族として社交界に出たこともある自分と弟は、それなりに眼前で関わってはいけないような人種や異様な気配や空気を醸す人間にも会ったことはある。それと同じようなものを感じているのだろうかと考える。どちらにせよ不気味だった。
そしてホーマーもまた、何故自分がここまで逃げ腰になりかけているのかわからない。
エルドを見ても全く動じているように見えず、そして他の仲間もまたジャンヌを前に出張って来たことへの戸惑いはあるがそれ以上はなにもない。
嫌な感じがする女だと、ホーマーは変わらずカラムへ槍を構えたまま注意は完全に彼女へ向いていた。その隙に武器を降ろしたカラムに槍を掴み返されていることにも未だ気付かない。
何故彼女の発言に主人である商人達すら押し黙ったのかはわからない。しかし、堂々と胸を張り毅然とした態度とたった数歩歩くだけでも伝わる所作の美しさはエルド達の目にも侍女というよりまるで令嬢のように映った。
更にはその背後に騎士まで続けば、上流階級の令嬢か王族だとエルドとホーマーは過る。〝ダリオ〟が彼女を交渉の場に置いたのもこの異様な空気感を持つからだろうかと軽く想像した。
「差し出がましい申し出申し訳ありません。ですが、せっかくダリオ様にお許しを頂きましたことですし……そのダリオ様も少々熱が入り過ぎておられるようでしたので」
申し訳ありません!!!とセドリックは喉の手前まで本当に出かかった。
もうジャンヌはいない背後へ振り返った体勢のまま、パシン!と片手で口を覆いそれでも唇を強く結ぶ。今振り返れば、ジャンヌ相手にあまりにも自分の態度は不自然過ぎると自覚する。
必死に過去の愚かな記憶を押しのけようと脳内で戦うが、今の状況を恥じれば恥じるほど鮮明過ぎる頭の中の映像にこの場で頭を抱えたい。必死に深呼吸を繰り返しながら、誰かに頭を叩いて欲しいと思う。今目の前の現状に意識を保ち続けるだけで必死だった。
あんなに完璧な第一王子であるレオンへ過去に蛮行を行った彼らはあまりに許しがたいが、……自分もまた過去に犯した蛮行はあるのだと。そう考えれば燃えるような羞恥と共に、彼らへ怒りを抱く権利が自分にあるかと少しだけ思考の別部分は平静になってきた。
うっかり調子に乗っていた、とも少し思う。上手く果物屋からサーカスの場所まで案内してもらうことができ、その後もプライドの予知らしき動きや続いた情報群を得られたことに知らず知らず前のめりになり過ぎていたと。ステイルを置いて自分が途中で交渉の場にズカズカと踏み入ったのも今は申し訳なくなってきた。そしてよりによってプライドを前に出させてしまった。
「宜しいでしょうか、フィリップ様?」
「~~……ん、はい」
軽やかなプライドの声が砲弾のように重くぶつかりながら、ステイルはこの上なく固く握った拳で咳払いをする振りをしながら口元をぐっと押さえつけた。
商人の主人らしく「良いだろう」の一言すらまだ絞り出せず、頷きと一音で結局いつもの敬語で止まる。なんとか無表情を維持しつつ顔色だけは隠しきれなかった。それを見たアーサーには、それ以上にステイルが無理して表情を保っているのが手に取るようにわかった。
主人であるステイルの許可を得て、プライドも笑顔のままほっと胸を撫で降ろす。
もしここでステイルに止めに入られてしまえば、侍女の立場である自分には抵抗しようがない。あくまで侍女、私は侍女、と。何度も頭の中で反復した。
ステイルが許可を降ろしたことで、彼女が会話に入ることが正式に請けいられたことにエルドも静かに口の中を飲み込んだ。彼女もまた厄介な相手なのだろうと考えながら、先ずはやはりステイルやセドリックへ行ったのと同じように値踏みから始める。
未だ気味の悪い動機は収まらないが、こんなどこにでもいそうなでかいだけの女相手に商人だけでなく自分まで動じているなど思われたくない。何より、偉そうな態度と大人しくなる商人の顔色をみればそれだけで突くには充分な要素は炙り出せた。
「……。侍女の分際で随分と偉そうだな。侍女は名ばかりでどちらかの側室か?そっちの騎士のか」
「いいえ?長年フィリップ様の侍女として全身全霊で務めているだけです。その関係でダリオ様ともお話させて頂くことが多くて。こちらの騎士様もフィリップ様の計らいです」
見え透いた勘繰りも受け流し、フフッと笑って最後にアーサーを手で示す。
うんうんと必要以上に大きく頭を縦に振るアーサーと、あくまで侍女として振舞うジャンヌに、エルドは椅子に掛けた状態のまま少し前かがみに自分の膝で頬杖を突いた。
腰は低い、しかし妙なしたたかさは若干に鼻につく。容姿は特別良くも悪くもない。美しいか醜いかの二択であればぎりぎり後者だと考える。
肌には張りもなく、頬のそばかすで素朴な印象が強い。ぼったく開かれた目の色も、一本の背中の後ろで三つ編みにされた長い茶髪と同じ色。珍しくもなく、こうやって顔を何度見ても印象に残らない。人生で数十は見たことのあるような顔だ。
この胸騒ぎも、妙な既視感とそれに反した生意気さからだろうかとエルは考える。こんな地味でパッとしない女をどうして商人が目にかけるのか、それほど頭が切れるのかどこぞの家の令嬢の奉公なのかと思考を回しながらも、無意識に今度はその身体つきにも目がいった。
背の高さの方が気になっていたが、首から下をよく見ると羽織っている上着でわかりにくかっただけで注視すればこの上なく女性らしい身体つきがわかる。特に女性らしさを強調している一点が目にとまれば、やっぱり身体で主人達を手籠めにしているんじゃないかと下品たことを考える。頬杖をついたまま表情には出さずとも、身体を覆うマントを一枚脱いだ姿を想像すれば彼女が侍女としてどういう〝仕事〟を実はしているのか、想像から確信にも近くな
ダンッッ!!!!!
……二度目の、大音にそこでエルドの思考は止まった。
頬杖をついていた顎が微弱に浮き、目が見開かれる。さっきの発砲音に似た手の音とはまた違ったが、代わりに今度は地鳴りのような振動が実際に身へ響いた。
思わず全員肩が上がったが、今回も攻撃ではない。単なる足踏み音だ。そしてその震源地も今回はエルも目を向ける必要はなかった。最初から視界に入っていた。
じっと目を向けていた侍女の、その背後にいた騎士だ。
腰にある剣の柄を握ったまま抜くには至らなかったが、その代わりに力の限りその場を踏み鳴らしていた。
床ではなく、テントを張った地面だった為に大きな被害にはならず音も最小限で済んだが、代わりに踏み鳴らした靴の下は砕け、足の形にへこみ地割れといって良いほどにぼろりと亀裂まで広がっていた。
一番至近距離にいたプライドも、背後からの衝撃には驚きうっかり身構えてしまった。見れば、俯き気味になったアーサーからは遅れるようにじわりと覇気まで感じられる。まさか出張り過ぎちゃったかしらとプライドも脈拍が早くなる。そっと彼の顔を覗き込もうと首を傾ければ、顔を確認するより前に「すみません」と地の底に響くような低い声が放たれた。アーサーが怒るなど一体何がとプライドだけでなくステイルやカラムも思考を巡らせば
「フィリップ様の侍女さんに〝そォいう〟目、向けねぇで貰えますか……?」
ギランと、先ほどとは比べものにならない鋭い殺気が突き抜けるかのようだった。
これにはエルも心臓が飛び跳ねた。表情に出さずに隠し通している筈だったのに何故と、心の中だけで疑問が浮かぶが口では言えるわけもない。それほど自分がわかりやすく一点へ視線を向けていたのかと思えば、流石に認めるにも恥はある。バレていたことに眉は寄せながらも口は結んだまま沈黙で返した。
セドリック達も、そして当の視線を浴びていたプライドすらも実際その視線に気付かなかった。わかりやすい視線を向けるなど、身分関係なく嫌悪行為であることは変わりない。
アーサーが刺す眼光を横目で確認するステイルは、彼の言葉を精査するまでもなくすぐに理解した。自身もエルドへと向ける眼光が絶対零度まで研ぎ澄まされていく。
ステイルも、そしてカラムもセドリックもまたエルドの視線にはいくら注視しても気付かなかった。しかし、アーサーの目には嫌でもエルドのプライドを見る目に、取り繕いの下にあるやましさが透けて仕方がなかった。
アーサーも〝そういう〟話題の場に全く縁がなかったわけではない。実家の小料理屋でも店が多忙な時は皿を下げる時や客前に出る時もあれば、客の会話でそういうのを耳にすることも、時には絡まれ話題に巻き込まれることもある。騎士団内でも酒が入れば話題に少なからず沸く。アーサー自身は苦手でなるべく避けているが、それでも遭遇する数があれば嫌でも目に入る。口では興味ないと言いながらの表情も、興味を傾けながら酒で誤魔化す取り繕いも。
別にアーサーも、そういう取り繕いの表情自体まで苦手というほどではない。男ならまぁそんなもんだよなと程度は理解もあれば、少なくとも自分が今まで目にしてきたものは取り繕いの中ではどれも可愛いものである。口には出さず軽く見逃していられたが今この場で
プライドに向けられたことが、腑煮え繰り返る。
「アーサー…隊長?」
きょときょとと瞬きを繰り返すプライドは、取り敢えず自分のせいではなく自分の為にエルドへ怒ってくれてらしいことに一度は安堵する。しかしこれはこれでまたまずい。
不穏が増加した。まさかアーサーまで怒り出す状況になるとは思わなかった。
まだ交渉を進ませる前からの四面楚歌っぷりに、ちょこっとだけ懐かしくなりセドリックのことも今度は心配になる。今顔を向ければ更に一人悶えている気がしてならない。
……彼も攻略対象だったら俺様キャラかしら。
ゲームの攻略対象者でもないエルドに、こっそりとゲーム脳が活性化させられながらプライドは二秒だけぐっと眉間に力を込めた。