Ⅲ39.越境侍女は聞くに耐えない。
「金を持ってるとは思ったが、まさかここまでだったとはな……。一体どんな汚いことをすればそこまで稼げるんだ?」
「お前らの知ることではない」
十秒間静まり返った後、取り直すように口を開いたエルドに、セドリックの声は冷ややかだった。
スリを行った青年にすら向けなかったその眼差しは侮蔑を孕んでいた。あまりにも態度が違うセドリックに、プライドの顔は引き攣り、冷たい汗が流れる。
レオンと彼らの関係を説明した時からそうだったが、あまりにも彼らの存在はセドリックにとって地雷同然だったのだと思い知る。過去の所業があまりにも相容れない。
プライドだけではない、懐から大金をセドリックが放り投げた時からステイルも目を見張っていた。交渉上、支払いをするのも仕方ないとは考えていたが、まさかセドリックが進んで払うとは思わなかった。頼めば建て替え程度は期待できるとは考えたが、自分から投げかけるまで動いたのは想定外。いつもは自分やプライドに遠慮し控えることが多かったセドリックだが、本来は名目上この場で最も立場の高い王弟だと思い出す。
明かに敵意を露わにする金持ち商人にエルドは直視せず、咥えたばかりの筈の葉巻を摘んで落とし足で踏みつけながら、中身の零れた革袋へ視線を落とした。
安易にすぐ手を伸ばそうとはせず、余裕を見せる。自分とそしてホーマーは過去にはこの程度の金も見慣れていた。他の仲間三人が未だ瞼も無くし顎も外れていることを、視線も向けずに理解する。まさかこの場で支払われるとは思ってもいなかった。
値切られるか後払いを望まれると思っていた所為で意表を突かれたが、まだ自分達は対等な交渉台の上だ。
さっきまで殆ど気にしていなかったその商人を、目は合わせず視界に入れる。
凡庸な顔に無駄に長い白髪はそれだけで幸が薄そうで、商人らしい服を着ていなければ金を持っているようには到底見えなかった。金色の瞳はそれなりの血筋かもと感じられたがそれだけだ。きっとどこかの貴族の血統なのだろうと見当づける。
フィリップと名乗った商人も気弱そうな見かけに反して図々しかったが、こちらの商人も見かけに反してだいそれていると考える。
人は見かけによらないなど定説だが、今は特にそれをエルドは思う。二人揃って容姿が恵まれなかった分を他で補ったのかと考えればそれなりに好感も持てたが、やはりフリージアと思えばそれだけで口の端がピリついた。
友好的に進めて自分の都合良く進めるのも手だが、どうしても拒否反応が前に出る。
「……こんなことならもっとふっかければ良かったな。今からでも値上げしようか?」
「つまらん冗談は要らん。さっさと確認したらどうだ」
小手調べに軽口を叩いてみれば、余計に火へ油を注ぐだけだった。
冷ややかだった声へ苛立ちに近い色が重なったことに、エルドも一度口の中を飲み込んだ。ホーマーへ視線で指示を出し、手を伸ばすには足りない距離のそれを零れた金貨と一緒に拾わせる。そのまま弟の手から受け取れば、ずしりとした重みが手の平に伝わった。
新品同様の煌びやかを放っていたことに、一瞬偽造品かとも思ったが目で細部まで確認し最後に噛めば本物だった。皮袋の中身に指を入れ軽く探ったが、嵩増しもされていない。
一通り確認してから口を絞り皮袋を持ち直したエルは、もう一度それをホーマーへと突き返した。枚数を確認するように命令したところで、セドリックは話を勧めるべく息を吸い上げる。
「手始めに、会わせて欲しい男がいる。今すぐ話をさせて貰おう」
「男?」
主導権を握るように要求を前に出すセドリックに、エルドは首を軽く傾けた。その口振りは特定の誰か差していると思う。
セドリックの要求にプライドも瞬きを繰り返した。ちらりと尋ねるようにステイルとカラムにもそれぞれ目を向けるが、二人もまたわからず微弱に首を横に振って応えた。
ここでの目的は、あくまでサーカスについて貧困街全体から情報を得ること。エルドとホーマーが貧困街所属なのも今知ったプライド達は、それ以外の人物など誰も知り得ない。
そういえばと、彼がここに来る前に衛兵だと思っていたホーマー達に話を聞かせて欲しい相手がいると頼んでいたことをプライドは思い出す。あの時はホーマーの正体に気付いてそれどころではなかったが、もともと彼の顔も知らなかったセドリックは、会話を引き延ばす為に彼と話していたわけではなかった。
眉を寄せるエルドにセドリックもその人物の名を口にしたが、ステイルやカラムだけでなく第四作目を知るプライドの記憶にも引っ掛からなかった。
聞いたことはある気はするが、それはゲームの記憶ではなく単に珍しくもない名前なだけだ。
しかし聞いたエルド達は息を飲む。まさか相手の方からその名を指定されるとは思わなかった。
「……どこから聞いた?そいつとどういう関係だ」
「お前の知るところではない。二度も言わせるな」
探る言葉に拒絶で返すセドリックは、もうエルドとの会話も求めない。
金を受け取り成立した以上、自分はさっさと用件を終えて主導権をステイルへ戻したかった。今こうして相手を視界に入れるのも不快なのはエルドだけではなくセドリックも同じだった。
目の前の男の正体を堂々と言える状況であれば、百は問い詰めたい言葉がこうして会話している今も頭に浮かび続ける。一生自分は目の前の二人を理解することはないだろうと思う。
しかし、それらしい理由すら明かそうとしないセドリックに、エルドの疑念は深くなる。
さっきまでのステイル達の話ではこの国での情報手段を殆ど持っていないように思えた。もともと入国すら掴めていなかった商人集団だ。
入国して浅いことも、街を聞き回ればいくらかは集められるでろうサーカスの情報を特定はせず〝全て〟と望んだところからも、何も知らない人間だと思っていた。しかし、もしこの偉そうな商人がその人物と何かしら関係を持っているならと。そう考えれば、安易に協力することも躊躇われた。
もし目当てがサーカスではなく彼一人だったのであれば、赤の他人ではなく関係者かもしれない。
サーカスについて知りたいと語る彼らが、わざわざよりにもよってその名を指名する理由が他に考えられない。
今はもう貧困街の懐に入った彼は形式上は自分達の〝身内〟になる。
彼らの事情も少しは把握しているが、知らない部分が大半だ。エルド自身が興味もない。しかし、もし目の前の男達から逃げて来たのなら、ここで差し出せば彼の身も危険に晒されるかもしれない。前に出したが最後、連れ攫われる可能性もある。
交渉の場でいくら威勢を張ろうと貧困街の中心であろうと、騎士が二人も五人もいる状況で彼一人を守れるとはエルドも思えない。正直、彼一人の為に貧困街を犠牲にもしたくない。エルド個人としては差し出せるものなら差し出して確実に大金を得た方が都合も良い。ただでさえ幹部と違い最近入ったばかりの新入りだ。個人的な情などなにもない。
しかし仲間を売るのは貧困街そのものへの裏切りと同義として掟で固く禁じられているのも嫌というほど知っている。貧困街の掟をもう自分は死んでも破れない。
たかが少し面倒をみてやっただけ、感謝こそされてもこの場で突き出して恨まれる覚えなどないとエルドは思う。
仲間と認めるほどの年月も重ねていなければ、彼はまだこの組織に特別な貢献もできていない。そんなガキの為に貧困街を危険に晒すのも、喉から手が出るほど欲しい大金を無碍にすることも馬鹿げている、非合理だと本心から思う。
だが、それでも今の状況で彼を売ることはできない。この場で彼の安全が保障されるまで、その居場所も商人達には教えるわけにはいかないと思考する。
チッ、と短く舌打ちを零し、手の動きで仲間の一人に指示を出す。
〝助けに行け〟の意味を示すその動きに、エルドの意図を理解した幹部の一人は急ぎこのテントから離れた場所へ仲間を避難させるべく動いた。しかし、妙な動きを見せる男にカラムも腰の剣を握りながら立ちふさがる。サインの内容はわからずとも、彼らの目と顔色はどう見てもセドリックの望み通りに指名された人物を連れてくる為の動きには見えなかった。
立ちふさがる騎士に、大柄な男は力尽くでも惜し通ろうとその肩をわし掴む。「退け!」と乱暴にそのまま押しのけようとしたが、掴んできたその腕をカラムが掴み返す方が一手早かった。
押しのけようとした男の太い腕が、彼を動かすどころかその位置から手を動かすこともできなくなる。握手よりも軽い手の握りで、まるで大岩を相手にでもしているようにびくともしない。
フリージアの騎士であることがバレている以上、カラムも特殊能力を隠す必要もなかった。
顔色を変えずに厳しい眼差しで睨み返してくる騎士に、怒鳴った男の方が血色を悪くする。
特殊能力者か、と。エルドもその様子だけで理解する。
アネモネ王国の隣国であるフリージア王国で、騎士団には多くの特殊能力者が在籍していることも知っている。新兵合同演習に毎年訪れる新兵の中にも複数名の特殊能力者がいたのも覚えている。騒然とする他の二人と違い、今更特殊能力を見たところで驚かない。それはホーマーもまた同じだった。
彼らの妖しい動きを察知しすぐに制止したカラムの手腕に流石だと関心しながらも、ステイルもまた冷たい眼差しで彼らを順に捉える。セドリックが何故その人物に会いたがっているのかはわからないが、どうやら今回の件に無関係ではなさそうだと理解する。セドリックの記憶能力はこの世界の誰にも勝っている。
敵意の眼差しがまた一つ増えたのを肌で感じ取ったエルドは、ハハッと軽く鼻で笑い飛ばした。そして話題を逸らすようにセドリックへと目を向ける。
「なるほど、随分と強気な理由がわかった。無敵の騎士様に守られて王族気取りか?」
「そういう貴様はどうだ。そこまで偉そうにできるというのならば、よほど恵まれた血筋なのだろうな?」
皮肉を混じらせるエルドに、セドリックもまたそれ以上の皮肉で返す。
更には「さっさと彼と話をさせろ」と本題へ容赦なく舵を戻すセドリックに、エルドも顔を顰めた。たかが商人風情が偉そうな口をと喉まで出かかる。
セドリックが自分の過去を知っているのかどうかはエルドも把握していない。しかし自分が王族だった頃であれば、目の前の商人も自分へ媚びへつらい遜ったに違いないと思えば余計に不快で仕方がなかった。
いつものセドリックならばもっと温厚なやり取りができたが、今回は相手が悪すぎた。口を結んでなりゆきを見守ったアーサーには、今もセドリックとエルドの間に火花が見えるようだった。
「その者が彼の元へ案内してくれるのならばそれでも構わない。俺一人でも彼に同行しよう」
「たかが商人風情が気安く俺の部下に近付くな。情報はやると言ったが、あいつらと関わることまで許してやった覚えはない」
「そうか、やはり彼はここにいるのだな。お前達の反応から見ても想定通りの人物で間違いなさそうだ」
勘違いでなくて良かった、と。言葉の含みから自己完結するセドリックにエルドはとうとう目を吊り上げた。
ギリッと歯を食い縛る音と共に、今度はホーマーも槍を構えた。剣ほどではないが、槍も今は心得を最低限持っている。こんな商人程度ならばひと突きで殺せると矢先をセドリックに向けたが、同時にチャキリと別方向からも音が立てられた。
不吉な音に目だけをギョロリと向ければ、カラムが男を掴むのと反対の手で銃を構えていた。素人に毛が生えた程度の槍と騎士の銃、勝敗は誰が見ても明らかだった。
もはや一触即発はエルドとセドリックだけの問題ではない。仲間の一人は腕を掴まれ、もう一人は銃を突きつけられ、残された仲間もそれぞれ腰や懐のナイフを手に取るべきかと指先を身体の側面から僅かに浮かせていた。
現首領であるエルドが一言交渉決裂を発せば、その瞬間に全面戦争だと覚悟する。幸い大金は、数え終えたホーマーが懐に仕舞っている。
しかし勝敗などとうに始める前から見えている。それを嫌でもよくわかっているエルドは歯噛みした。
間違っても正面戦闘はできない、勝てる可能性は暗殺か奇襲ぐらいだ。商人達から情報開示がない以上、先ずは彼に聞いてからでないと始まらない。
この商人達とどういう関係なのか、そして彼自身に狙われる覚えはあるかどうか、それを確認した上で本人から会っても良いと合意を得られれば良いだけの話だ。
ただの杞憂であれば良い、ただサーカスの情報の延長線上であれば申し分ない。仲間のたった一人で良いから彼に話を聞かせにいかせる為にも、まずはこの場を収めることを最優先に考える。しかし、どう見ても目の前の男からはこれ以上ない敵意しか感じない。
護衛である騎士にも戦闘の意思を確認された以上、その騎士を止められるのは彼らを率いている商人のどちらかしか
バチンッ!!!
「そこまでになさったらいかがですか〝ダリオ〟様?」
弾けた音が、空間に響いた。
一瞬騎士に本当に発砲されたかのように錯覚した貧困街側は肩を激しく上下した。しかしカラムの銃は引き金を引かれていなければ、むしろそのカラムも声のした方向を向いて表情を強張らせていた。弾けたその音は、発砲でもなければ攻撃ですらない。ただ両手を叩いただけの音だ。
しかし張り詰めた空気を割るには、充分な威力だった。
自分の仮名が呼ばれたセドリックも振り返り、そして音に驚かされた以上に顔色を変えた。先ほどまで毅然としていた顔から、一気に冷や汗が滲み出る。唇を結び、やっと我に返ったところで心臓をバクつかせる。よろりと思わず半歩、足が正直に彼女から後ずさった。
気を抜けばうっかり謝罪と共に頭を下げてしまいそうなセドリックは、大きく喉を鳴らし堪える。上体ごと振り返ったお陰でエルド達に顔を見られなかったのが幸いだった。明らかにその表情は〝侍女〟に向けてのものではなかった。
「御戯れも大概になさらないと、我が主人であるフィリップ様がお困りです。フィリップ様を困らせてしまわれると、私も困ってしまいます」
いつも話す時とは遠く離れたその言葉遣いが、セドリックには余計に怖かった。
無意識に姿勢が伸び、指の先までピンと張る。しまった、やってしまったと遅れて気付く。彼女の〝困ってしまいます〟の言葉は、間違いない自分へのお咎めだった。
ステイルだけでなく、彼女のことまで困らせてしまったのだとそう思えば現状を恥じるだけに留まらず、蔓で引かれるように過去の忌まわしい愚かだった記憶が蘇る。今口を開けば「申し訳ありません」と言ってしまいそうになる。
唇を結んだままじゅわりと顔が茹っていくセドリックに、彼女もまた彼が何を思い返しているのかは想像ついた。しかし今は同情する余地はない。
あくまで侍女としてにっこり笑んだまま、うっすらと血管を浮き立たせそうになる彼女の姿にステイルも必死に無表情を意識する。こうなる前に自分がもっと上手く立ち回るべきだったと後悔するがもう遅い。自分もまた無意識に、彼ら兄弟へ冷静ではなかったと自覚する。
「フィリップ様?お気づきでしょうか、カラム隊長が」
「ッカラム隊長もう結構です。構えを解いてください……!」
こういう場にこそ実力を発揮するジルベールが今だけは本気で恋しくなる。
セドリックと同じく彼女からの言葉遣いだけでも耐えられないステイルもまた、最後まで聞くこともできず声を張り上げた。しかも明るい声で言われるからちょっと怖い。
声を上げると同時に無表情が崩れてしまい、目をぐっと瞑り眉を寄せて意識的に表情筋を顔中央へと寄せ顔色を隠した。
ステイルからの命令を受け、男の手も武器も降ろしたカラムも苦い顔をしたくなるのを必死に隠した。自分の行動に間違いはなかったとは思うが、この場の打開に彼女を動かせてしまった事実は変わらなく不甲斐ない。
手の音で一回で、さっきまでの緊迫した空気があまりにも変わっていく感覚にエルドは口が力なく俄かに開いてしまう。
振り返ったまま固まるダリオの表情はわからず、侍女ごときに窘められたことに顔を顰めるフィリップはまだわかる。しかしもう一人の銀髪の騎士が目が零れそうなほど見開き彼女を凝視するのがエルドの目に引っ掛かった。たかが侍女風情が何故護衛の騎士から咎められず宣っているのかと疑問に浮かんだが、今はそんなことよりも……
「侍女〝風情〟が大事なご会談中に申し訳ありません。宜しければこの先は私もお話に交えさせて頂いても宜しいでしょうか?エルド様、……いえ」
その凛とした声と表情に、言いようもなく自身が冷水に浸らせられたような感覚になることの方が気になった。
「エルド?」
この場の誰よりも強い立場を持つ〝侍女〟ジャンヌが、とうとう一歩前に出る。
……まさか、新たな難航を招くことになるとは思いもせずに。