Ⅲ32.越境侍女は踏み出す。
「ほら見えてきたろさっさと用事済ませて帰してくれ」
溜息混じりにも投げやりにも聞こえる声でそう告げた案内人のおじさんは、たった十数メートルで大分疲れた様子だった。
「だから近付きたくなかったんだ」「三倍じゃ安かった」と何度も何度も呟いていて、多分セドリックじゃないと覚えてきれない数だ。最初から危険性をわかっていたおじさんだけど、……たぶん想像したのともまた違った疲労だろうなとわかる。大きなテントを指差した手がそのまま力なく落ちた。本当はもう帰りたいのだろうけれど、一人で帰れば帰りにまたさっきの貧困街の面々に標的にされることがわかっているから留まってくれている状態だ。
ハリソン副隊長にその場を任せて先を行けば、本当にすぐサーカスのテントは見えてきた。最初は頂点部分の三角くらいしか見えなかったけれど、歩けばすぐだ。
前世でも本格的なサーカスなんて見たことがなかったけれど、間近で見るとテントという感じがしない。普通の民家よりも遥かに大きいドーム級の規模で、建物そのものにも見えてくる。
首が疲れそうなほど見上げながら、確かにこんな大きなものを建てればテントだろうが設営作業だけでもかなりの期間が必要になるなと思う。市場からは近くても坂があるし、川からは離れていて民家も見当たらない。住む上では不便な場所だから長年空き地だと案内人のおじさんが説明してくれた。確かにこんな広々とした場所はおいそれと代わりの場所が見つかるわけもない。
途中まではアラン隊長がなぎ倒してくれるほど大勢の貧困街の人達に塞がれていた道だけれど、この辺は逆に人の気配が殆どない。待ち構えて隠れているかと少し警戒したけれど、全くだ。それどころかサーカスのテント自体も静けきっていた。
てっきり練習中のサーカス団員の姿や動物の檻とか見れるかしらと想像したけれど、それも今はテント内に収納されているのか何もいない。もともと旅での大移動で使用したのだろう馬車すら見られない。裏手に回り込めば別だろうか。
閑散としたサーカステントはそれはそれで少し薄気味悪さまで感じられた。
「誰もいませんね……」
「そりゃあこんな治安の悪さじゃ奴らだって外においそれと出しっぱなしにしねぇだろうさ。それより大丈夫なのか?置いてきた兄さんは」
私と同じように首が痛くなるほど見上げるステイルへ、おじさんが早口気味に捲し立てる。
そのまま怖々とした様子で来た道を振り返るのを見ると、まだハリソン副隊長を心配してくれているらしい。確かにあの人数相手に一人は普通に時間の問題と思うだろう。
最初はハリソン副隊長が圧倒している場面を見たとはいえ、アラン隊長みたいに私達と一緒にその場を移動するのではなく一人その場にとどまるのでは全然違う。象だって大群の蟻に襲われたら負ける。しかもハリソン副隊長は特殊能力を使わずに戦ってくれている筈だ。
おじさんも、その場から早々に逃げたいから取り合えず私達についてきてくれただけなのだろう。……まぁ、でも。
「絶ッ対大丈夫です。不意打ち百されようと全員に掴みかかられようと無事ですあの人は」
誰よりも早いアーサーからの絶対的な自信発言に、思わず笑ってしまう。
見れば、私だけでなくステイルや近衛騎士全員の口が笑っていた。つまりはそれだけハリソン副隊長をアーサーが信頼しているということなのだろうけれど。あまりにも気持ちの良すぎる断言だった。流石は八番隊隊長副隊長。
ハリソン副隊長の実力は文字通り身に染みているのだろうなぁと思う。昔からハリソン副隊長のことを「怖い」と言っていたアーサーだもの。
私もあの戦闘からして心配はしていない。ハリソン副隊長の大勢との戦闘での強さは実績でならよく知っている。特殊能力を使えないくらいで一般人に近い相手に負けるとは思えない。
レオンは興味深そうに笑むくらいだけれど、セドリックに至ってはうんうんと腕を組んで深々と頷いて同意を示していた。彼も彼でハリソン副隊長の強さはよく知っている。
アーサーの強い言葉に、案内人のおじさんも「そ、そうか……」と少し肩を狭めながら眉を寄せてアーサーを見た。納得したと言うよりも、ハリソン副隊長を突き放すアーサーが酷くて容赦ない人に見えたかもしれない。
実際は敵に容赦ないのはハリソン副隊長の方なのだけれども。
「すみませんどなたかいらっしゃいますか……?」
誰も姿を見せないテントに一歩ずつ歩み寄り、声を掛ける。
自分でも少し細い声になってしまった呼びかけは、当然返事はなかった。お留守なのかしらとも一瞬思ったけれど、サーカスというくらいだし大所帯だと考えられる。誰もいない方が不自然だ。
テントの入り口前で足を止め、もう一度声を張り直そうかなと息を吸い上げる。すると今度は私は「す」を言う前にアラン隊長が「すみませーん!」と響く声で呼びかけてくれた。
ずっと静かだったせいもあって、突然の背後からの大声に私まで身体ごと心臓が飛び跳ねた。
反射的に身構え首をぐるりと振り返れば、アーサーも目を丸くしてアラン隊長に目を向けていた。苦笑いするエリック副隊長と今にも注意しそうなほど眉を吊り上げるカラム隊長の視線を受けながらアラン隊長は「わりぃわりぃ」と頭を掻いて笑っていた。
レオンとセドリックも、これにはびっくりしたらしく二人とも胸を押さえていた。珍しく揃った動きだ。ヴァル一人は首ごと傾けて片方の耳を手の平で押さえて顔を顰めていた。
「アラン。突然大声を出すな。向こうにも迷惑だろう」
「いやでもこれくらいの方が聞こえやすいだろ?」
やっぱりカラム隊長から注意を受けたアラン隊長は、そう言いながらテントを指差した。確かに、私の声じゃテントの中央まで届くかもわからない。
アーサーからも「俺も一回呼びかけてみて良いっすか?」と追撃が提案されれば、お願いをする前にそこで初めてテントの向こうから「なんだー?」と気の抜けた声が返された。
おぉ!と、期待通り人が居てくれたこととやっぱりアラン隊長くらいの声量じゃないといけなかったんだと思いながら私は姿勢を伸ばす。本当に良かった。
わりと声の主も入り口付近にいたわけではないらしく、気配こそ近付いてくるのはわかったけれどドタドタとした足音はせず、大股歩き程度の速度で音も近づいてきた。
ステイルが腕で私に下がるように促し、アーサーも守るように前に出てくれる。途中、入り口が開く直前にガシャァン!と激しい音がした途端、今度は近衛騎士全員が私達の前で揃って出た。
けれど何も攻撃はなく、向こうから「ああクソ」と悪態だけが聞こえて来たから、バケツか何かを引っかけ倒しただけらしい。テントの内側からカーテンを開くように手をかけ姿を現した男性が、背中を丸めながらこちらを上目に睨んだ。足元には何かドックフードのようなものが転がっている。
「なんだ?開演日なら決まってねぇ。その時になったら街中に触れ回るから帰ってくれ」
「お忙しいところ申し訳ありません。実は僕らこちらのサーカスの噂を聞きつけて訪れたのですが……」
怪訝な顔でこちらを睨む男性に、ステイルが代表として交渉を初めてくれる。
あくまで私達はサーカスの噂を聞きつけた一般人。どうにかしてサーカスの内部事情を探るか、もしくは見学で団員や団長に一人でも多く会えれば良い。開園日が近々だったらそれが一番だったけれど、わからないならば仕方がない。とにかく攻略対象者を一人でも見つけて思い出せれば、そしてゲームへの確証をー……と、思ったのだけれども。
「団長さんはいらっしゃいませんか?こちらとしても芸を見せろと要求するつもりは毛頭ありませんし、無償でなど図々しいことも言いません」
「いねぇ。また日を改めてくれ」
いた。
「団長もいねぇし団員逃げてそれどころじゃねぇんだよこっちは」
グシャリと、髪質の固そうな茶髪を掻きあげながら鋭い黄の眼光でこちらを睨む青年に。
着古しヨレたシャツに、短い短パンからは鍛え抜かれた長い足が伸びている。首には痛そうな古傷痕と、右腕から右手の平まで巻かれた布はそのまま端が三十センチ近く垂れていた。パッと見、二十歳前後だろうか。筋肉質で身長も高身のアーサーに近い。
サーカスのチラシも張り紙も見ていない。間違いない初対面の彼に、ものすごく覚えがある。
間違いない、第四作目の攻略対象者だ。
まさかこんなすぐに会えるとまで思っていなかった。平均年齢が比較高めな第四作目だけど彼の今の見かけ年齢を考えると、第二作目と同じゲーム回避の二、三年前といったところだろうか。……作品ごとの時間軸がどうなっているのかはわからないけれど。
せめて見学だけでも、と。ステイルが時間を稼いでくれている中、目の前の彼にぐるぐると記憶が廻る。大筋しか記憶がなかった第四作目の扉が開き、彼の設定が蘇る。瞬きの余裕もなくごろんと丸くなった目が彼に縫い留められる。
〝アレス〟と。
その名前が浮かんだ途端、ぐわりと彼の姿が最初に頭に浮かぶ。血を吐くような声で嘆き叫び、手を伸ばす彼の姿だ。
彼のルートも全てが思い出せたわけじゃない、おおまかな流れだけ。それでも、間違いなく彼に振り分けられた運命の一端が生々しく脳皮に触れる。ドクドクと自分の心臓が脈打つのを感じてしまう。ああそうだ、だからこの作品は暗いんだ。
一瞬視界がひっくり返りそうな感覚を覚え、自分の両手首を握り口の中を噛む。
ステイルとのやりとりに、顔を顰め歯を剥く彼を見ながら頭の中には全く別の表情をする彼が浮かびだす。ルートで明らかにされる過去。それを思い出した途端、噛み切りそうなほど力をいれていた口がぽかりと開き、そして舌が勝手に動き出した。
「……団長の〝代わり〟はいますか?」
『ッ冗談だろ?!冗談だって言ってくれよ!なあ!!!』
気付けば震える声になった。
脈絡なく二人の会話に口を出す私に、アレスが眉をひそめて私へ目を向ける。ステイルが丸い目で振り返ってくれる中、血流に急き立てられるまま口が動いた。居る筈だと、まるでもう確信に近く心臓が急ぐ。
私の言葉に訝しむ眼差しからうっすらと敵意を尖らせた彼が、今もうゲームの設定に向けて片足を掴まれているのだと気付いた。でもまだ、まだ間に合う。きっと、彼の口振りからならきっとまだ救いはある。
つい出てしまった不躾な問いに、間違ったとは思うのに。
きっと彼の返事は拒絶だろう。今の彼に団長の代わりなんて言えば怒らせるに決まっている。断られる決裂すると知りながら、それでも昂揚感に背を押されてしまった。
ああ良かった間に合ったまだ間に合うと。そう思えば、耳の奥が熱を持って薄く細い耳鳴りが鳴った。止めたい、止めないといけない。彼が、彼らが失う前に。
彼から、彼の向こうへと。ひたすらに視線が離れない。テントの向こうにいるのかと、そう思えば指先が酷く震えた。こんなに近くに、もう近づけた。今なら少なくとも一人、もしくは二人、幸運なら思い出せない全員も救えるかもしれない。
「その、先に」
─貴方の、ラスボスが。