Ⅲ24.宰相は鑑みる。
「申し訳ありませんね、第一王子専属従者である貴方にまで手伝わせてしまい」
いえとんでもありません、と。
私からの労いになだらかな声で返す彼は、両肩を微弱に上げながらも笑みは比較柔らかい。当初よりも大分私には慣れてくれたものだと思う。
宰相執務室。そこで簡単な書類整理と掃除を彼に任せていた。ティアラ様が王配であるアルバートの手伝いをなさっている間、私も私で宰相としての職務がある。
ローザ様がプライド様方と共に出国されてから早三日。そろそろ予定通りであれば明日の到着時刻にも見通しが立った頃合いだろうかと、時計を見上げながら思考する。
出国の前後は国の要不在である為の準備と対応に忙しなかったが、三日も経てば殆ど日常と変わらぬ程度に馴染む。これも入念な準備を怠らなかった成果だろう。忙しなさの反動で少しばかり部屋の掃除を必要とした中、私が清掃作業を指名したのが彼だった。
フィリップ・エフロン。
レオン王子に似た整った顔立ちと今は深緑の瞳とオレンジ髪に、茶縁眼鏡をかけたこの青年はステイル様と同年であれば故郷も同じ……そして希少な特殊能力を携えた従者だ。
本来であれば執務室の清掃や片付け程度、侍女や城の従者に任せるなり重要書類の整備として文官や秘書官を呼び出して任せることもできたが、今回は手空きの彼に依頼をすることにした。主のいない宮殿の管理業務に従事していた彼に悪いとは思ったが、私個人の興味もあった。ただでさえステイル様のみならず、最上層部も引き入れることを認め望んだ才能の持ち主であるだけでももともと彼に興味はあったが、その能力を知った今は更にそれは強まっていた。
当時、ステイル様に呼び出され彼の特殊能力の披露と検証を行った時のことを昨日のことのように鮮明に思い出す。
『姿を変える……とは少々違った特殊能力なのですが』
書類を文字列順に並べ直す彼を視界に入れながら、当時の頬を指先で掻く動作が蘇る。
姿を変える特殊能力。それ自体も希少なものではあるが、私自身も数度目にしたことがある能力だ。前宰相であるニコラス宰相がそうだった。
自分と、そして触れた相手の姿形を変える能力。上層部でもなければ知られていなかった能力だが、しかしあの方の存在一つがどれほどの牽制になっただろうか。たった一人でも、偽物に紛れ込める特殊能力者がいる以上城内での安易な反乱行為の抑制にもなる。お若い頃には敵対勢力や国外にも潜入するなど隠密のような行為も行い、情報収集にも努めたという話だ。そうでなくとも、何か有事の際には、王族の身代わりとも成り得る。
国中の多くに顔や身体特徴が知られる王族、その補佐としてはこの上なく望まれる特殊能力の一つだ。……恐らくは、ステイル様よりも。
少なくとも当時、その有能性をローザ様やヴェスト摂政、アルバートもよく熟知していた。使用用途に目処がつかない瞬間移動とどちらを選ぶかなど明白だ。
そしてフィリップ殿の特殊能力は、あのニコラス宰相よりも有能性のある面のある特殊能力だ。
実際に説明を受けながら特殊能力を目にすれば、彼は己とそして触れた相手の姿を変えることができる。いや、変え〝映す〟ことができると言った方が正確だろうか。衣服や声まで変えることはできないのは前宰相と同じ。
『あくまでそう〝見せる〟だけなので、触れてわかるような変化はできません。できても鼻を高くとか目を大きくする、ある程度のヒゲなど顔つき程度です』
端的に言えば醜い顔を美しく変えることはできるが、低身長を高身長に、そしてふくよかな身体を細身にすることはできない。触れることで齟齬が生じるような変化は不可能。
ニコラス宰相は身体付きの変化もできていたことを考えれば、この面ではあの方の方が優れていたと言える。完全な別人になれた前宰相と異なり、フィリップ殿は同身長体型のみ。そして髪の色は変えられてもその長さは変えられない。プライド様は王女として髪も切りにくい立場にあり特に女性の中では背の目立つ御方の為、そこは少々惜しい点ではあった。
プライド様ご本人から「男の人の振りをするのは……」と突飛過ぎる御意見も頂いたが、少々無理があると全員の総意だった。
できることならば確かに隠密中は女性であることを隠せるに越したことはない。しかし、あの御方はご自身の女性特有の身体つきについての御自覚が聊か足りない。フィリップ殿の特殊能力では身長を縮められないのと同様に胸囲を減らすこともできないのだから。布を巻くなり鎧を着込むなりすればある程度体型も誤魔化せるだろうが、男性側の方が高身長の女性に扮した方がまだバレにくいだろう。……どちらにせよ声を発しなければだが。
ここまでの条件を並べると、フィリップ殿の特殊能力の方が聊か劣っているようにも思える。しかし、彼の場合恐ろしいのは可能人数、そして特殊能力が姿を〝変える〟ではなく〝変え映す〟故の特性だ。
先ず、前宰相が最盛期でも特殊能力使用人数に制限があったのに対し、彼は一度に己を含め少なくとも十名は施すことが可能だった。
彼自身とプライド様、ティアラ様、ステイル様そして近衛騎士二名に専属侍女二名近衛兵と私。当時部屋にいた全員に特殊能力を施してみて貰ったが、本人の負担もなければ誰かしらが解けることもなかった。
彼自身、極一部の相手以外に試したことがなかったらしく可能人数がわからないとのことで実際に試してみたが……まさか、一人残らず同時に維持できるとは思わなかった。私自身も同じ理由で最高人数を確認したことはないが、特殊能力を振う人数で負担を感じない種である可能性が高い。
お蔭で、プライド様のみならずその周囲の相手も共に隠密させることも可能になった。
そしてもう一つ、彼の特殊能力の特性。
自身の特殊能力を受けている者同士は本来の姿で視認することが可能だということだ。
透明の特殊能力者が、共にその者の特殊能力者により姿を透明化している者同士姿を認識できるのと同じだ。
施された本人は鏡を見ても変えられた自身の姿しか認識されない。しかしフィリップ殿が施して姿を変えた者同士は、フィリップ殿の〝見せる〟影響を受けない。
髪色瞳の色黒子の位置、何であってもだ。それが紫色の瞳そのまま紫に上塗るでも問題ない。フィリップ殿の特殊能力を受けていれば、お互いが視認し合える。
つまり、プライド様が姿を変えたとしてもフィリップ殿が事前に施していれば他の者も姿を実質変えずともプライド様の御姿を認識できる。他の者には別人の女性に見えても、己にだけはプライド様だとわかる。
見慣れぬ顔の護衛対象を探すのと、よく見知った顔の護衛対象を守るのとでは効率も違う。大勢の人波の中で紛れることもなくなる。別人同士になった互いが紛れ混乱することも、本物であることを示す印や合図合言葉も必要ない。
流石にフィリップ殿の特殊能力の機密性も鑑みて極一部の者にしか特殊能力を振舞うことはできないが、使い方によっては戦況を変えるほどの力になるだろう。可能人数もそして別人となる分の自由度も素晴らしい。
……そんな彼が、今日の今日までただの従者であったことが信じられない。
彼にとっては、今まで身内以外に特殊能力を明かしたこともなかったらしい。そんな彼が、ステイル様の為に今までの生き方をひっくり返し我々のみならず騎士団や異国の王族にも明かすことを受け入れたのは大変な覚悟だっただろう。
旧友であったステイル様への申し訳なさと、自身の特殊能力を隠してきたのだから仕方ないとは思う。しかし、本当に彼の特殊能力が知られていればほぼ間違いなく彼が第一王子だっただろう。
ステイル様の特殊能力も幼い頃から優秀であったことは間違いないが、フィリップ殿のような希少性の方が重視される。ニコラス宰相の影響も鑑みれば、今この場にいる彼が第一王子の衣服を身に纏っていた未来も同然あり得た話だ。
たった一つのボタンの掛け違いで彼の人生も、ステイル様の人生も大きく別れ、……それはプライド様や我々の人生にも大きく影響しただろう。希少性や優劣はともかく、ステイル様の御力がなければ叶わなかったことは数えきれない。ステイル様の頭脳もさることながら、瞬間移動という特殊能力を以てしたからこそ間に合った事態は多い。
私が把握している件だけでも、奪還戦で塔から落ちたプライド様とアーサー殿の救出を始めに、防衛戦やハナズオとの同盟締結。いや、あの方がいなければプライド様が防衛戦に参じることをローザ様が許されたかもわからない。ステイル様の瞬間移動という緊急撤退方法があったからこそ、ローザ様も戦場へプライド様が参入されることを許されたのだから。今回もそうだ。
幼い頃ですら、騎士団奇襲事件でプライド様の命の元多くの物資転送を騎士団へ協力されたと当時上層部でも話題になった。そして、……私も。あの、一分一秒を惜しんだマリアとアーサー殿の邂逅はステイル様が居られなければ間違いなく手遅れで終わっていた。
彼一人の特殊能力が露見していただけで、我々の人生に影響が大きすぎる。
そう考えれば、彼には失礼だが本当に養子となられたのがステイル様で良かったと思わざるを得ない。あの御方の代わりなど存在しない。
「申し訳ありません、ジルべール宰相様。こちらの書類の束は棚のどちらに置かせて頂ければ宜しいでしょうか」
「!ああ、そこの机に置いておいてください。……そろそろ、一息入れましょうか」
順調に本棚の整理を進めてくれた彼に、紅茶でも珈琲でも味見しましょうと告げれば少し和らいだ笑みを返された。
ならば紅茶を試飲頂けませんでしょうかと、最近少しずつ腕を磨いていると先ほども語っていた彼の提案を快諾する。
以前の職場でも書類整備よりもそういった身の回りのことの方が多かった為、彼もこちらの方が気楽だろう。書類整理も動きは悪くなかったが、本棚の隙間埃を掃除する方が遥かに手早く鳴れていた。
「宜しければ二杯。貴方も、自身で味わう方が勉強にもなるでしょう。この部屋ならば気を咎める相手もいませんし」
ありがとうございます、と。嬉しそうな声が深々とした礼と共に私へ向けられた。
従者という立場上、腕を磨く時間や場所が与えられないわけではないが、私の監視下であれば労働内での練習もできる。ステイル様が飲まれるような高級茶葉や城の茶器は、練習の為でも安易に自分の為に使用することは憚れる。まだ上等とは言い難い腕で紅茶葉を消費することに遠慮があるという彼にはこれくらいがちょうど良いだろう。
ステイル様との橋渡しを担った影響か、彼は城の中でも私には比較肩の力を抜いて会話をしてくれる。この後は、もう少し彼の不安や不満はないかについても探りをいれてみようか。
宰相という立場で彼にできることは、できる限りしたいと思う。単純にステイル様にとって大事な従者であることもそうだが、……私自身が心の底でどうしても彼が養子に選ばれなくて良かったと失礼極まりない安堵を覚えてしまう贖罪もある。そして、これからの彼への大いなる期待も。
『僕も、是非その策の詳細に加えて下さい』
今も、フィリップ殿により侍女に扮したプライド様と共にラジヤへ向かわれているステイル様を思い出す。
ローザ様から今回の隠密遠征を提示された後だった。
専属従者の特殊能力を提示し、それをプライド様のみならず今回の件に協力する他国の王族にもその能力を明かし使用したいと進み出られた。もともとステイル様やヴェスト摂政がそうであるように、本人の意思さえあれば特殊能力に開示義務も秘匿義務もない。
あるのは私のような国と国の諍いを生み出すような特殊能力者にくらいだ。フィリップ殿もまた、ニコラス宰相と同じく見目の若さは見せかけられても実質的な身体の衰えは変えられない。少なくとも永久の命と勘違いされるような特殊能力ではない分安心だろう。
しかしそれでもフィリップ殿の希少性を鑑みての確認も含めた提言に、ローザ様とアルバートそしてヴェスト摂政も了承された。
明かす相手もまた、他国の王族とはいえフリージア王国に信用の固いあのお二方だったこともあるだろう。配達人に至れば契約もある。
今のところステイル様が瞬間移動で現れた兆しはないことから判断しても、フィリップ殿の特殊能力を受けているのは姿を変えているプライド様。そして御姿を視認できているのは出国前にフィリップ殿に施されたステイル様と第一王女近衛騎士の五名のみ。
我が国の騎士団とレオン王子、セドリック王弟には内密に共有されてはいるが、ラジヤの敷地に入るまでは近衛騎士達にはいつも以上に気を張り詰めて貰わねばならない。今回最も忙しいのはやはり彼らだろうか。
ラジヤに入国後、ローザ様はヴェスト殿と共に騎士団長率いる騎士隊が宿で厳重に守る予定だが、その後に本格的な隠密捜査が始まれば。
「……ステイル様がお見えになるまでは、今後も暫く私の部屋掃除をお願いします。その方が、ステイル様も貴方も幾分やりやすいでしょうから」
扉へと向かう彼の背中へとそう告げれば、くるりと正面まで向き直った彼は目を丸くした。
それから三拍ほど飲み込む時間を得てから「……なるほど」と承諾の言葉と礼を続けられた。
到着まで残りわずか、いつステイル様が彼の力を求めて訪れるかわからない。
王族と騎士であることを隠し、各国代表も訪れているかもしれない地で自由に動き回るその為に。