Ⅲ242.来襲侍女は聞かれ、
沈黙に、啜り泣く音が不規則に溢れている。……私の音だ。
ひっく、ひぐっ……とそう溢しながら、自分以外の音もさっきより際立った。
鼻を啜る音、閉じた窓の向こうの風の音、それに廊下で薄くざわめく騎士の音。そんな中で一番の無音なのは隣に並ぶヴァルだ。
本音が漏れてしまってからすぐに、反対側の肩から腕を回し込むように引きよせられた。彼の肩を、私の頭が借りている。
扉の向こうにいる温度感知の騎士にはどう見えているだろうか。ただ隣に並んでいるようにしか見えないだろうか、……泣いていることはバレていないだろうか。自分でも思考と上手く結びついていないまま涙だけが零れてしまう中、そんなことまで隅で考えてしまう。
触れる右肩が、温かい。
泣いている顔が情けなくて、顔を両手で覆いながらもうっすらと彼の心臓の音が右耳から聞こえてきて不思議と落ち着いた。彼が引きよせたまま置く腕も、痛くなくて安心する。ああなんで私は泣いているのだろうと、ぼんやりと考えながらも嗚咽する。
音を漏らさないようにするので必死で、立っているのもやっとだった。
恥ずかしいのに、もっと泣いていたい。糸が切れてしまったのだと自覚する。彼と話したら気が緩んで、……また一人になるのが怖くなってしまった。
あんなにティアラと一緒にいたのに、ステイル達だって一緒にいてくれたのに、たった一夜をこんなにも耐えきれなくなった自分が情けない。
何分、何十分泣き続けたのかもわからない。指の隙間から何度も何度も涙が零れて落ちて、小さな水たまりのようになっていた。
泣きすぎて喉が痛くなるくらい渇いてきて、足に力が入らなくなって窓のある壁に寄り掛かったら途端に肩に掛けられたヴァルの腕が鈍く重みを増していった。上からずるずる押し込められるように膝が曲がり、寝衣のまま壁に背中をつけてしゃがみ込んでしまう。
こんな深夜に、引き留めて、急に泣き出して、何も言わないなんて迷惑だ。
子どもじゃないんだからと、いっそ嫌味の一つは言って欲しくなる。迷惑そうにしてくれれば、今度こそ「帰って良いです」と言えた気がするのに。
喉を鳴らし、腫れた目を擦らないようにぎゅっと瞼で絞る。嗚咽を我慢しようとすればするほどに、咳のように肺の奥からまたせり上がる。もう濡れた両手が意味を成さなくて、しゃがんだ膝を抱えてそこに目を押しつけた。
今度は肩がえぐずく度に揺れてしまう。小さくなるとなんだか余計に胸が苦しくて、自分が泣いているのだと思い知らされる。どう言って泣いてしまった理由をごまかそうかを頭のどこかで考えているけどまとまらない。
肩が揺れると、当然私の肩に腕を回している彼の腕も一緒に揺れて、そのせいだろうか暫くすると初めて「チッ」と短い舌打ちが鳴らされた。
「見られてなけりゃあ……」
忌々しそうに低い声で呟いた。
私に向けての舌打ちではないのかと思いながら、どういう意味かもわからない。温度感知の騎士のことだろうかと、見ている存在が他に思いつかない。
散々泣いた後のお陰か、少しだけ気になってきてしゃくり上げた喉でヴァルの方に視線を上げれば思っていたよりもずっと近くに彼の横顔があった。私にではなく、扉の方に凶悪な顔を顰めて向けている。やっぱり、扉の向こうにでも嫌いな騎士に見張られているのは良い気分がしないらしい。
そう思っていると、ヒクッと首の角度が変わったからか甲高い音が喉から漏れた。眉を上げたヴァルが、今私の視線に気がついたように鋭い眼光を向けてくる。「アァ?」と声を漏らし、直後にはハッと鼻で笑われた。まだ涙が止まっていないのに、反対の手を伸ばして目元を親指で拭われる。ひっぐ、とまた涙が零れて彼の手を濡らしてしまったら、最後に軽く鼻先を摘まれた。
「赤ぇ」
「……っ……そ、れッは仕っ方ないで、しょう゛……」
馬鹿にするように笑われて、腹が立って顔中の筋肉に力を込める。
ぺしりと、手を上げて鼻を摘まむ褐色の腕を叩く。言い返したくてもしゃくり上げた喉で声を抑えようとすると上手く喋れない。
こんなに泣いたのだから鼻が赤いくらい当たり前だと言ってやりたいのに、その一言すら変にひっくり返る。
叩いたらすぐに放してくれたけど、隷属の契約がなかったら引っ張るくらいされたかもしれない。きっと彼にとって私の顔は赤鼻のトナカイみたいに見えているのだろう。
睨み返してやった後はまた身体の正面に顔を向けて、私まで無意味に扉を睨む。怒った所為で気が紛れたからか少し涙は治まったけれど、ひっくひっくと喉のしゃくり上げる音がやっぱり恥ずかしい。
ゴソリと、ヴァルの方がまた少し動き出した。何かと思って顔を向ければ、自由な方の腕を後方の窓へと伸ばしていた。まだ鍵を掛けていなかった窓は、ヴァルの片腕であっさりと開かれてしまう。カタカタと時々鳴っていた窓は開かれた途端、部屋の空気が入れ替わっていくのが間近でわかった。
さっきヴァルを見つけた時はそんなのに気付く余裕もなかったけれど、窓のすぐ傍だからか風がはっきりと感じられる。外の冷えた空気が部屋に入って少し寒いけれど、……同時に顔も、頭も、ついでに鼻もすっと冷えていく。
彼なりに気を遣ってくれたのだろうか。
自分の心臓の音も気にならなくなったことに今気付く。
胸にまで冷たい空気がスゥッと入って呼吸まで深く通っている気がする。一度鼻を啜ってから、自分の手の平で顔を包むように両頬に触れれば、じわっとカイロのように熱かった。
絶対目も腫れてしまっていると思えば、そもそも化粧もしていない上に泣き火照らした顔を彼にずっと向けていたのかと今更になって羞恥が沸く。パタパタと自分の手でも煽いで顔を冷ませば「余裕戻ったみてぇじゃねぇか」と肩に乗せられたままの腕で揺らされる。
目を向けたら、意図せず返事代わりのようなタイミングでまたヒクッとしゃくりあげた。びゅうびゅうと吹く風に頬を撫でられ髪が乱される。
「…………で?」
「……なんですか」
ぶすっと、顔をまた抱えた膝にくっつけながら彼からの促しを一度しらばっくれる。言いたいことはわかっている。こんな、話し始めてすぐに泣き出されたらその理由を求めないわけがない。
医務室テントに避難した時も、その後にノアから救出された後も、客間でも自分からは尋ねてこなかったヴァルだけれど、今日一日に何かあったかは知っている一人だ。彼の肩を枕のように頭を落ち着け直しながら突っぱねる私は、きっとセフェクよりも今は大人げないだろう。
私自身、何故急に込み上げてしまったのか言葉で上手く説明できない。
最初からこうなるとわかっていて、うっかり現れた彼を前に糸が切れた。ずっと、思い出すだけで怖くて、またあの奪還戦みたいな場所に戻っていたらと考えると震えてしまって、目を閉じるのも開けるのもそんな小さな動作すら勇気が要るくらいで。
身体の大きなヴァルの心音と、温度で今は一人じゃないと感じるからか落ち着いて考えられるだけで、……多分まだ一人になったらぶり返すのだろう。
今夜だけで済むのか、明日も、明後日も、城に帰っても続くのか終わるのかも自分ではわからない。
こんなことになるのなら、ティアラの言う通り母上でなくても誰かに傍にいて貰えれば彼を付き合わせることもなかった。だけど、……怖がっているなんてやっぱりバレたくない。せめて、この潜入が終わるまで。
ティペットを探すと言い出した時も心配してくれた彼らが、もしこんなに私が情けなく怯えていると知ったら。……幻滅……はしないと思う。ステイルなんて、昔から私のこういうところをわかってくれているし、アーサーだって受け入れてくれる。
近衛騎士の人達だって、レオンも、セドリックもそんなことはない。嫌がったり引いたりなんてしないと今はわかってる。そして……その百倍、きっと心配してくれる。
ティアラが言った通りだ。第一王女の私がいつまでも民数人を探す為に危ない場所に居続けなくても良い。私が「怖い」と、今この地にいるだけで、思い出すだけで眠れなくなってしまうのならば今すぐにフリージアに帰るべきだと思う。きっと皆もそう言ってくれる。思い上がりじゃなくて、本当に皆それくらい私を大事にして優先してくれている。
だから、知られたくなかった。
大きく息を吸い上げ、吐き出す。顔ごと真っ暗な天井を見上げ、彼と目を合わせるのをわざと後回しにする。
「……いきなり泣きついちゃったのは謝ります。今日は色々あったので弱気になってしまって……」
「ちげぇ」
深呼吸混じりに言えば、一言で断じられてしまった。
謝罪を求めてないというのは彼らしいけれど、あまり根掘り葉掘りされると困ってしまう。折角お陰で気持ちが少し落ち着いたのに、またここでぶり返しくない。唇を尖らせてから彼に顔を向ければ、すぐに焦げ茶色の眼光と目が合った。
部屋の空気が入れ替わった所為で、そういえばロッテとマリーが用意してくれた香水の香りも薄くなってしまった気がする。
何も香らない部屋の中で、自分の髪が風に流され鼻にかかった時に香った香油で思い出す。ベッドで包まっていた時はあんなに縋るくらいの落ち着く香りだったのに、今はそれすらも気にしなくなっていた。何も香らなくても、何が聞こえても聞こえなくても、目を開いていても閉じていてもこんな暗闇で何も気にならない。
私から瞬きをせずに目を見つめ合わせたまま、空いている方の彼の腕だけが伸びる。空気を入れ換えてくれたのと同じ動作で上へと上げられ、そのまま開きぱなしになったままの窓をコンコンとまた手の甲で叩いて見せた。
そういえば、彼は何故こんな深夜に訪れたのかそれもまだ聞いていなかった。何か私が言い忘れたことでもあっただろうかと思いながら、一度瞬きを思い出した瞬間。
「逃げるか?」
風の音が、一際大きく響いてカーテンを舞い上がらせた。
彼の低い声と、月明かりを帯びた眼光に男性の色香が纏って見えた。一瞬も目も離さないまま、潜ませた声で言われたそれは冗談でも軽口でも試してるわけでもないと私は知っている。
彼が訪ねてくれた本意を理解した途端、頭がほんの数秒だけ空っぽになった。あんなに色々同時に他のことばかり考えていたのに、風と一緒に抜けてしまった。ぽっかりと口を開けたまま見つめていた彼から、無意識に気付けば窓の向こうに視線が動いた。
夜で、月明かり以外殆ど見えない。ぽつぽつ見える小さな光も、それが近いのか遠いのかも掴めない暗闇で怖いとも感じるのに、……ずっと遠くにまで続いているんだと今は思える。もし今、飛び降りて、何も考えずに街の外まで飛びだしたら明け方までにどこまで行けるだろう。
そう想像するだけで、暗い闇の中で朝焼けを見つけたような気がして胸がぽっと灯った。「ハハッ……」って、音に出てしまう。
しゃくりあげていた喉が、治まっていたのはいつの間にだろう。朝は、もうすぐ近くまで来ていた。
「どうする」
「ん。……まだ」
今度は迷いなく言えて、窓の向こうに身体を向きながらまた彼の肩に寄り掛かる。彼は、……それを聞く為に会いに来てくれたのだとちょっとだけ自惚れてみる。尋ねてくれるのが、嬉しい。
私からの断りに、彼から返事はなかった。
舌打ちの一つもなく、ただ視線だけはまだ私に向けられているのだと顔を向けなくてもわかった。




