Ⅲ22.王族は出国し、
「いってらっしゃいませ」
そう、大勢の声が一律に揃えられた。
王族専用の豪奢な馬車が馬に繋がれ、更には大勢の騎馬兵が周囲をぐるりと守り囲む。王宮から出てすぐに配置されていたその馬車へ乗り込む女性に誰もが心から無事を願いつつ、深々とした礼で頭を垂らした。晴天に恵まれ、彼女の旅路を祝福するように風も穏やかだった。
気を付けて、と。彼女を見送る為に多忙の合間を縫って訪れた夫から頬に口づけを受ける。補佐である宰相も優雅な礼と共に、彼女へ無事を祈った。
自分の留守中も頼みましたよと威厳のある声で城の人間達を鼓舞する女王は、大勢の見送りを前に慣れた微笑みで全てに返す。今回はあくまで遠征と買い物のみ。戦争に行くわけでもなければ、女王もまた余裕が微笑みからも滲み出た。
女王からの鼓舞に姿勢を正し言葉を揃える秘書官や文官、上層部貴族、そして使用人達も意識を高く維持した。女王が居らずとも王族が城には残る。そして自分達の最大最低限の役目は女王が守るこの城と国を守り抜くことだ。
女王ローザ・ロイヤル・アイビーの遠征。
フリージア王国の外交と同盟国親睦の為、大陸最大規模のオークションに参加する女王は今日出国する。自国を夫である王配に任せ、騎士団長率いる大勢の護衛騎士と共に新たな経路でミスミ王国へ向かう。
御者の代わりに自ら馬車の扉を開き女王を待つ摂政のヴェストも、静かに王配アルバートと宰相ジルベールと順々に視線を交わした。今日までに綿密な下準備を重ねた彼らは、今更交わす言葉も必要ない。視線だけで互いに女王を支えるべく任と信頼を伝え合う。
「兄様、気をつけてねっ。絶対に無理しちゃ駄目よ!」
「ああ、わかっている。お前も、ちゃんと父上と共に国を支えてくれ」
頼りにしているぞ、と。最後に両手を広げ飛びつく勢いで抱き着く妹に、ステイルもまた両腕でしっかりと受け止めた。最後にふわりとウェーブがかった金髪の小さな頭を三度繰り返し撫でる。
兄からの優しい挨拶に、ティアラもにこっと満面の笑みで応えた。「ジルベール宰相と一緒にがんばるわ」と続ければ直後にはステイルから怪訝とも呼べる表情で眉間を狭められる。
あいつは良い、と口にせずとも表情で告げるステイルはそのままの眼差しをジルベールへと向けた。兄妹の仲睦まじい見送りの光景を微笑ましく眺めていたジルベールも、会話は聞こえずとも二人がどんな会話をしたのかがステイルの眼差しで容易に想像できた。機嫌の悪そうな視線に、わざとにっこりと笑みを向けて見せれば、直後にはフン!とステイルの鼻先がジルベールからそっぽを向いた。
摂政補佐として務めていたステイルもまたヴェストと同様、ジルベールとは今更会話するまでもない。どうせ自分が何を言おうともジルベールなら誰よりも完璧にティアラも父親も国も支えるものだと知っている。たった一秒足らずの視線衝突で「ご安心を?」「当たり前だ」の会話は成立できた。
相変わらずのステイルにジルベールは心の中でおやおやと笑ったが、ティアラは「もう!兄様ったら」と片方の頬を膨らませた。
兄を抱き締める腕をお仕置き代わりにぎゅっと締める力を強める。思わず肺を圧迫されるステイルだが、それでも抱き締めた腕を突き離そうとは思わない。
視線を外したまま今度は最前列にはいない、むしろ後列に近い使用人達の列へと目をむけた。専属従者として使用人の中では前列に数えられるそこに、自分の友人がぴしりと姿勢を正してこちらを見つめていた。今回遠征に出かける王族と共に身の回りを世話する侍女達も同行側の為、専属従者でありながら見送る立場のフィリップは優先的に前へと立つことを許された。
ずっと凝視していた先のステイルに、僅かに肩を揺らすフィリップは思わず口の中を噛んだ。
あくまでただの遠征で、ひと月もしない内に帰ってくるとわかっているのにあまりにも盛大な見送りの所為か感情が煽られる。うっかり空気のまま泣きそうになるのを堪えるフィリップに、ステイルは思わず笑った。
相変わらずだなと思いながら、口の動きだけで「行ってくる」と伝え軽く手を振った。王族の見送りが初めてのフィリップには無理もないことも理解する。しかしステイルにとっては大して珍しくもない見送りである。
「兄様っ、あとね……」
「……。ああ、わかっている」
任せておけ、と妹からの耳打ちにまた頭を撫でて返すステイルはまた柔らかく笑んだ。
そしてゆっくりと二人揃って抱き合う腕を緩め合う。互いの健闘と無事が祈りながら見つめ合い、距離を取った。
そろそろローザが馬車へと乗り込む頃合いだと図るステイルが軽く振り向けば、ちょうど別方向から歩み寄ってくる人物が目に入った。先ほどまで自分達と同じ見送られる側として佇んでいた人物は、ステイルとティアラの間に割って入ることを躊躇いながらも歩み寄る。
金色の髪を揺らし、兄妹水入らずへ申し訳なさに顔を強張らせる青年はステイルからの視線に小さく礼をした。
フリージア王国の民としての都合上、今回フリージア王国の馬車に同乗することになったセドリックの登場にティアラの肩が大きく上下した。
ステイルも口元だけで笑むと、最後にティアラの頭をもう一度だけ撫でてから身を引いた。「じゃあ良い子にしているんだぞ」と言葉を掛け、ローザとは別の馬車へと向かう。
どうせセドリックが用事があるのは同行する自分ではないことは最初からわかっている。暫く会えないのだから、これくらいの気は利かせてやるかとセドリックに思う。
まだ彼を嫌っているらしい妹犯人には悪いとも思ったが、拒むにしろ話を聞くにしろそれを決めるのは自分ではなくティアラだと考える。
突然ステイルが気を利かせたかのように去っていくことに、思わずティアラは「にっ兄様?!」と声をひっくり返した。
まさかステイルにも自分の気持ちがバレているのかとも危惧したが、実際はティアラではなくセドリックの気持ちを汲んだだけである。
あわあわと突然の接近に目を合わせられず泳がし続けるティアラに、セドリックは「邪魔をしてすまない」と最初に謝った。ステイルとティアラとの関係はもう疑ってはいないセドリックだが、大事な兄妹の別れを邪魔したことは間違いないと思う。二人が話を終えるまで控えるつもりだったセドリックだが、その前にステイルに気付かれてしまった。
兄であるステイルには躊躇いなく抱き着けたティアラが、今は両手を胸に肩を狭め唇をぎゅっと結んでしまう。しかし同時に、……安堵もする。
「ちゃんとお前には挨拶をしておきたかった。……ステイル王子達の邪魔はしない。俺なりに力になれるようにも務めるつもりだ。だから、……」
「当然ですっ!そうじゃなかったら私が兄様とレオン王子にお願いして断ってます!」
ぷんすか!と、ティアラは声色を落とすセドリックに細い眉を吊り上げる。
挨拶に来てくれたのは嬉しかった分、結局はそういう的外れな内容かと少しがっかりしてしまうのを隠して頬を膨らます。このまま何もなく去っていかれたらきっと後でちくちくと寂しさに突かれたが、折角の挨拶も当たり前の宣言だ。
自分が付いていけないと知った時、セドリックが代わりに加わってくれればと思ったというのにまるでそれを反対しているように言われてしまった。彼がちゃんと強いことも、一番目にしているのは自分の筈なのに!と思えばいじけたくなってしまう。
ちゃんとセドリックが戦力なのはわかっていると、遠回しに言葉にするティアラに、それだけはしっかりとセドリックも伝わった。「そうか」と目に見えてほっと息を吐き出した後、今日初めてティアラの前で笑みを浮かべる。
「感謝する。お前の信頼にも必ず応えてみせる。……だから、安心してフリージアで良き日を過ごして欲しい」
ぴくんっ!とティアラの身体が微弱に跳ねる。
さっきも少し言葉を詰まらせた彼が、もしかしてそれを言おうとしてくれたのかしらと気付く。大きく瞬きを繰り返し、しっかりと燃える瞳と目を合わせればまるで炙られるように自然と顔が火照った。
更には、まるで反響するようにセドリックまで顔がじんわりと赤らんだ。突然自分と目を合わせてくれたティアラの愛らしさに、この一瞬も間違いなく一生分の記憶に刻む。生まれてから常に絶対的な記憶能力を持っているセドリックだが、この真新しいティアラとの一瞬一瞬が貴重希少で仕方がない。自分からの言葉に、こうして怒りではない感情を向けてくれただけでも舞い上がりそうだった。
ティアラが今回の遠征に同行できないことがどれほど残念でならないかも、自分なりに理解している。
遠い地で大事な兄姉が無事かどうかと生きる心地がしない日々を送る苦しさも知っている。だからこそ、少しでもティアラに安心できる材料があれば伝えたかった。自分の力が大したものではないとも、今回の面々の中でも最もティアラから信頼がないとも理解していると思うからこそ、歯痒さを抑えながらそれを言葉にした。
セドリックなりの優しさと思いやりに、ティアラは小さく下唇を噛むと口の中を飲み込んだ。
せっかく優しい言葉をくれようとした相手に思わず厳しい言い方をしてしまったことを反省しつつ、自分からもちゃんと言葉にしなきゃと思う。伝えられなかったらそれこそ彼に次会うまでずっとモヤモヤしてしまうのは自分だ。
「それでは失礼した」と礼をし、今にも背中を向けようとするセドリックに「あのっ」と声を上げた。なんでそう自分だけ言ったらあっさり帰っちゃうの!と文句を言いたくもなったが、そこは抑える。
「~っ……お気遣い、ありがとうございます。セドリック王弟も、お身体に気を付けて下さいね。ぶ……無事を、……願って、ます……」
ぷしゅぅ~……と、途中からは口を動かしても殆ど消え入った声だった。