そして満喫する。
「こんな高級品ばかり良いんですか?ケーキまで……今日はマリーさんの御誕生日祝いでお呼びしたのに」
「いえ、自宅にお邪魔するのですから当然の礼儀です。是非、今度会った時に感想をお聞かせ願えれば充分です」
私一人では食べれないので。そう断りながら、マリーは丁寧な動作で手袋と帽子を脱いだ。
もう長らく自分の誕生日にケーキを買って食べるという習慣から離れているマリーは、そこまでホールケーキに思い入れはない。食べたければカフェに行かずとも、仲の良い侍女や料理人が作ってくれる時もある。
特に侍女ならばロッテも菓子はシンプルなものであれば贔屓の店に負けず劣らずの腕前になったと思う。昨日も、仕事の後にロッテが焼いてくれたケーキは素朴ながらとても美味しかった。
しかし、ネルからしては誕生日の主役に自分用ではないケーキを買わせてしまったという申し訳なさが強い。しかも自分はマリーを部屋へ招待することばかり考えて、本当に贈り物以外の何も用意できていなかった。
せめて待ち合わせ場所のカフェでケーキか、もしくはカップケーキくらい昨晩焼いておけばよかったと後悔する。
しかも今の今までマリーを立ち放しにしていたことに気付き、慌ててネルはテーブルの椅子を引いてみせた。
「本当に何も用意してなくてごめんなさい!あの、ちょっとこちらで休んでいて下さい。いま私ちょっと何かお菓子を」
「いえ、お構いなく。ネルさんは菓子よりもずっと素敵なものをお持ちではないですか。朝食を抜いておられるのでしたら私もお付き合いしますが、私はネルさんの作品が見たいです」
出だしを完全に挫かれたネルに、マリーは思わず笑い声混じりになる。彼女が自分へと何重にも気を遣ってくれているのが手に取るようにわかってしまう。
菓子やお茶が飲みたければ、待ち合わせ場所だけに留まらず最初からマリー自身がカフェの中でのお茶を提案していた。ネルからすぐに家へ案内できるとは言われたが、先にお茶でもと言えば済む話だ。そうしなかったのは、マリー自身が今日のメインが待ち遠しくて仕方がなかったからである。
勧められた椅子もやんわり断り、直立不動のまま居間から移動する姿勢を示す。
マリーからの優雅な笑みに、ネルの姿勢がピンと伸びる。流石は王族の専属侍女と目の前の女性とプライドの傍に控えていた侍女が重なった。しかも自分の作品を「ずっと素敵」と言われれば、未だ身内以外に褒められ慣れていないネルは頬がじんわりと紅潮した。
「そ……そうですか?」と少し口の端が緩んでしまいながら、頬を両指で挟む。それではお言葉に甘えて……と、まるで自分はマリーの侍女になったような感覚で居間から再び廊下へと出た。一階の奥の部屋へと案内すれば、兄やハリソンを荷運びで招いた時よりも肌がひりつき心臓が煩くなる。
居間での一息も惜しみ、本命である部屋に辿り着く。扉を開けば、午前の陽の光が部屋いっぱいに満ちたそこはマリーにはこの上ない宝の山だった。
広々とした部屋は、四方の全てが刺繍と手製のドレスや装飾でまるで展示室だった。女性らしさの固まりの空間でありながら、女性の部屋という印象は低い。本当にここがネルさんのお部屋ですかと、マリーは思わず確認した後も空いた口が閉じられなかった。
プライドであれば二度見三度見してしまうほどに驚愕を露わにした表情のマリーは、暫く扉の前から動けなかった。一目で部屋の全貌を最も確認できる位置から離れられず、プライドの衣裳部屋と規模こそ異なるが美しさと芸術的価値は同位とすら思う。
国を出る前の作品から、フリージア王国に帰ってきてから保管した品、そして新たに作り上げた品と、今まさに製作途中のドレスと刺繍に設計図。嵩張る品は全てアネモネ王国の第一王子に引き取られ、選りすぐった品だけが飾られる部屋はマリーの判断通り展示室と言う言葉が最適だった。城下で初めての刺繍友達であるマリーを歓迎する為にそれ以外の全てを置いて部屋を整頓しきったネルの努力の賜物でもある。
棒立ちのネルに、ちょっとやり過ぎたかしらと部屋中の刺繍作品達を前に思う。背中を少し丸め、ネルの横顔を覗き込めば瞬き一つしない綺麗な瞳が光っているように見えた。
「…………あちらのレース、もっと近くで見せて頂いても宜しいですか」
「!もちろん!」
どうぞ入って入って!と、マリーが興味を持ってくれたことに思わず言葉が砕けてしまいながらネルはそっとその背に手を添え前へと進ませた。
マリーが両手に持っていた荷物と手袋帽子も抱えるように受け取り、彼女を更に前へと促す。是非手でも触れて下さいと遠慮は不要を告げれば、マリーはレースから一瞬も目も離せないまま外出用の手袋とは違う薄い白手袋をポケットから取り出した。言われるまでもなく手の油など安易につけたくない。
煌びやかなドレスも、専門技術師でないと作れないと一目でわかる帽子や手袋などの服飾品も、日の当たらない位置を選んだ壁に広げて吊るされた刺繍もどれもが美しい。しかし、いまマリーが最も目を引かれたのは一枚のレースだった。
遠目でも細やかな白の技巧が凝らされたそれを近くで見れば、間近でなければわからない域で何重にも折り重ねられた芸術だった。手袋越しの指の腹では触れても拾いきれないほどの糸の網目に目が飽きることがない。これを自分の手で作った人間が今すぐそこにいるということも改めて思えば衝撃である。
多くの作品がところ狭しと飾られたこの部屋で、一番にそのレースを選んだマリーにネルも流石だとこっそり思う。単純にマリーが自分ではなかなか携わらない部類であることもそうだが、彼女の目が本物である証拠だ。
「そちら、プライド様のドレスに使う予定のものです。今回は刺繍の中でもレースが主役になるドレスの予定なので凝らしたものを作りたくて」
「!どうりで……!間違いなくお喜びになられるでしょう」
お互い主人がプライドだからと知っているからこそできる会話だ。そして何より、刺繍一つで説明せずとも良さが通じる会話がお互いに胸を二度連続で弾ませた。
ならばこの一帯はと、レースから一歩引いたマリーは改めて注視していた全貌を眺める。レースだけではない、ドレスに使用する刺繍部分やデザイン画にはドレスの全貌に三重はある書き込みの追記もある。
あくまで本業は刺繍職人であるネルは、刺繍部分を繕えば残りは王宮御用達のドレス職人が仕上げてくれる。しかし、自分の刺繍がドレスのどの部分専用の部位なのかの説明はしつこいくらい細かに書き込んでいた。ドレス職人にドレス職人の構想と拘りがあるように、刺繍職人にも刺繍職人のこだわりがある。
様々な専門職人の技術全てが統合された結晶こそが王族の式典正装になる。プライドだけではない、レース以外の刺繍デザイン画は第一王子と第二王女の分も並べられていた。基盤デザインは三つとも共有しつつ個々に意匠を加えている。プライドの元へ最初にデザイン画を提出された時にマリーも目を通したものだ。しかし今はそれにデザイン画だけではない実際の刺繍に起こしたからこそわかる繊細な縫い入れがわかった。
デザイン画と、まだ部品でしかない刺繍やレースだけでマリーの目には式典で誰よりも輝くプライドが目に浮かぶようだった。
まだ部屋の一角だけで細部まで観察を繰り返し、最後に深呼吸をしながらマリーは自分の胸に手を当て落ち着けた。それからゆっくりと意識的に首ごと動かし、次の展示へと目を向ける。意図的に視線を変えなければ何時間でもこのままプライドの一角だけで時間を使う自信があった。
プライドの華やかな刺繍と異なり、男性向けの色合いをした重厚な布でできた衣服が並べられている。まだ一枚の布地だけでデザインらしいデザインは縫い込まれていないが、こちらは服もまるごと彼女が作るのだろうかと考える。
マリーにとっては、こちらの方が見慣れた種の作品だ。服とは別に、縫い付ける予定の刺繍のデザイン画と全体図を見れば、彼女は男性服を作る才能もあるのだなと理解した。
「あ、あの……もし良かったら一つずつ説明とか……?お渡しする品もその方が選びやすいと思いますし」
「是非」
こちらは発注済の品だからお渡しできませんけど。と、言葉を続けきる前にマリーがうっかり前のめった。
こうして神の手とも呼べる作品の数々を製作過程も含めて見れるだけでなく、その製作者本人から解説を受けられるなどそれこそ刺繍を愛する者としては最高の待遇である。うっかり見開いた目が輝くどころがギラついたマリーに、ネルも小刻みに肩が揺れた。消え入りそうな声で改めて言いかけた言葉を続ければ「勿論です」と呼吸をもう一度落ち着けながらの言葉が返って来た。
プライド達の一角から壁伝いに続き、どんな作品かというだけではなくどこに拘ったか、モデルは何かどのような技巧を凝らしたかと解説を続ければ時間はあっというまに溶けていく。
壁を一周すれば今度は部屋内部の品々へと説明が移り、一区切りついた時には時計の針は昼をとっくに過ぎていた。
「本当に宜しいのですか?このような素晴らしい品々のどれか一つを頂けるなんて……購入させて頂けるだけでも充分過ぎますが」
「いえ!確かに大事な作品ばかりです。けど、マリーさんは特別な友人ですから」
フフッ、と口元を片手で隠すネルは照れくさそうに笑った。
在庫整理を終えた今、手元にあるのは安易に売れない品々ばかり。一つ一つ大事に売りたいか、もしくは売ることもできないほどの品だ。
しかしだからこそ大事な友人になったマリーには贈りたいと思えた。
ネルの言葉に、一度瞼を上げたマリーはすぐに緩ませる。ありがとうございますと言葉に込めながら、改めて友人と思っているのは自分だけではないのだと再認識した。
「……でしたら、こちらのストールを頂いても宜しいでしょうか」
そして、殆ど迷いなく手袋の指でなぞり触れた。
ネルから作品一つ一つを解説してもらった中、どれも素晴らしい出来だと判断した上でマリーはそのストールに一目で決めていた。金銭を払っても惜しく無い。
しかし、ネルはその選択に小首を傾げてしまう。ドレスやコートなどの衣服や衣装以外にも、服飾品であればさまざまな品が並べられている。その中で、ストールは正直小物に部類する品だ。
やはりここまで言っても、無料で貰うとなると遠慮してしまうのだろうかも考えながらネルは言葉を選ぶ。
「勿論ですけど、……ドレスやこちらのボレロもマリーさんに合わせてここで調整できますよ?」
むしろ、その為に部屋まで来てもらった部分が大きいのが本音だ。
ストールなどの身に付けるだけの品と違い、身体の大きさに合わせる服はそのまま渡しても必ず着れるとは限らない。
是非そちらの方をと暗に勧めるネルに、しかしマリーは迷わない。触れるだけでなく両手に取り、美しい刺繍がいくつも施されたストールはそれだけでも宝石が縫い込められたかのようだった。そして
「命よりも大事なブローチがありますので。出掛ける際一つくらいは身に付けて歩ければと思っていたので」
衣服では一度付ければ穴を開ける為、別の衣服に付け替えにくくなる。
しかし二度は着ないようなドレスを身に付ける機会も今はなければ、様々な衣服と共にブローチを身に付けたい。スカーフに付ければそれごと様々な衣服にも合わせられる。手に取ったスカーフはデザインも質も通年で身につけられる。何より、第一王女から賜ったブローチを付けるのにこれ以上のスカーフはないとマリーは思う。
昔は身につけるのも勿体無く、大事にケースに保管し続けていたマリーだが一個も身に付けないのもと思うようになってきた。ロッテもジャックも、自分と同じく一度も使ったことがないことを知れば余計にだ。
ストールを手に、今日一番の柔らかな眼差しを写したマリーにネルも「それでしたら」と受け入れた。そんな目で慈しんでくれるのなら、この品も幸せだと思う。
無事ストールを貰い受け、礼を尽くして感謝を伝えたマリーは一度テーブルに置かれた自分の鞄にそれを丁寧に仕舞った。そして、鞄を閉じる前にネルへと振り返る。
「ところでネルさん。この後まだお時間は大丈夫ですか?」
「え、ええ。……どこか行きたいところでも?」
それとも食事をご一緒に?と尋ねられ首を横に振る。
むしろこのまま部屋でと。仕舞ったストールと入れ替わりにマリーが鞄から取り出したのは裁縫道具一式だ。自身の使い慣れた道具箱を手に、マリーは今日もう一つネルとしたいことがあった。
「宜しければ一緒に刺繍をできたらと。お恥ずかしながら殆ど独学ですので、宮廷御用達職人に手解き頂けたら幸いです」
喜んで‼︎と今度はネルが目を輝かせ前のめる。
自分愛用の裁縫道具をテーブルへ急ぎ並べ、椅子をもう一脚持ってきますねと今日一番の早足で居間を往復する。マリーが手伝いますと名乗り出る間もなかった。
「マリーさん独学って……確か以前、騎士団の紋章は自信があると仰ってましたよね……?」
「ええ、騎士の団服と同程度の刺繍や被服は質も本職に負けないと自負しております」
「独学で⁈」
子どもの頃から兄の団服を目にしていた自分さえ、未だにあの質の高い刺繍や出来を再現できる自信はない。
レース刺繍には経験もあまりないマリーだが、反対に丈夫さと重厚さと高貴を併せ持った団服ならば数も観察も重ね、自信がある。レースとはまた異なる畑で高等技術である。動きやすさ重視だからといって大雑把な刺繍やあしらいではない。むしろ紳士服よりも遥かに様々な技巧と刺繍が凝らされた上等な衣服だ。
是非マリーさんの腕も見せてくださいと希望すれば、それではネルさんはレースをと希望を返す二人は椅子二つ隣り合わせに並び合う。
「あの、……こんなこと言って失礼だったらごめんなさい。マリーさん、本当に何故こちらの道ではなく侍女に……?」
「家が少々厳しくて。ですが今はとても満足しております。こうして良い友人もできましたし」
絶対自分よりも才能があるんじゃないかと思う侍女を上目に覗くネルに、マリーは最後に笑んだ。
道が違えれば同業者になっていたのかもしれないと思うと同時に、
『ネルさんのお店でお手伝いさせて頂くのも老後の楽しみに良いかもしれません』
本当にいつか。侍女ができないほど年老いた後は、そんな人生も良いかもしれないと小さな展望を今は内にだけ秘めた。
刺繍好きとして互いに充実した時間は、家主が学校から帰宅するまで続いた。
ファーナム姉弟からも嬉しいケーキと紅茶の手土産の感謝と、……女好きのお向かいの新たな標的にされる前にと美人の侍女を夕食前に避難を促すのはそれから半刻もしないうちのことだった。
互いに手紙の交換を最後に、次の刺繍会も必ずと約束を交わした。
Ⅱ529-2