Ⅲ119.侵攻侍女は寝起き、
「おはようございます」
気持ちの良いほどに晴れ渡った空の元、顔色の良い者は少ない。
晴れた、良かった、と。悪天候の下で幕を挙げなければならなくて済んだことに胸を撫でおろす者もいれば、いっそ大嵐で延期になれば良いのにと今から空に祈る者もいる。それほどまでに今日という日を迎えることが彼らには憂鬱だった。
おはよう良い朝だな!と両手を広げて呼びかけるのは騒動の根源である団長である。
早朝には慣れている団員だが、今日が本番だという事実は準備期間が少なければ少ないほどに高揚感は減退する。たった一日でひと月以上ぶりの公演など、この上なく重い息が零れる。舞台に華々しく上がる演者よりも、あくまで縁の下の力持ちである下働き達の方が気も楽だった。自分達はまだ、下準備通りに動けば良いだけなのだから互いが互いをフォローし合える。そしてまた、舞台の上で演者がどれだけ孤独な戦場にいるのかも理解している。
おはようございます、と。だからこそまた下働き達は積極的に演者や幹部に声をかける。
彼らの顔色を窺いながら、少しでも気持ちが上がればと客に使わないで済む分の明るい声と笑顔を意識した。
カンカンカン、ドンドンドン、パッパラパーと、朝が早い幹部が下働き達の中でも演奏家達が起床時間を告げれば、順々に個人テントから演者も這い出してくる。うるせぇ……と溢しながらも、この起床の合図だけはいくらうるさくしようと下働き達も怒られはしない。
「おはよーございます!あーそういやマイキーさん!!本番の朝って何するんですか??」
「着易く呼ぶなド新人!!演者なんだから大テントの予行練習まで各自練習に決まってんだろ!衣装の頃合いになったら下働き連中が呼びに来る!」
演者すらも頭が重い中、熟練の演者も猛者も押しのけ大声を張るのはアランだ。
新入りとはいえ演目持ちとデビューが決まった彼だが、団長と共に下働き用の就寝テントにいた為起床時間も彼らと一緒だった。むしろそれよりも早い。
団員達より一足先に起こしたカラムに団長の護衛を任せ、就寝テントの前で鍛錬に励んでいた彼は既に頭だけでなく身体も完全に覚醒した後だった。
昨日も早朝からテントの前で鍛錬をしていたアランに団員達も呆れるか関心するかだったが、今朝は全員が引いていた。昨日の猛練習と今日はデビュー戦だというのにも関わらずケロッとした顔で演目練習ですらない筋力鍛錬をして汗を流しているアランに正気を一部は疑う。
普通に体力を温存するか、あっても演目の練習するくらいだ。何故わざわざ体力だけをすり減らすのか意味が分からない。
既に汗を掻いているアランに、どうせなら空中ブランコで汗を掛けと幹部の一人は人差し指で訓練所を差した。
「アラン。私は、顔を洗ってくる。その間任せられるか」
「おう。……けど、お前が寝起き悪いの珍しいな。まだ寝惚けてんのか?」
「眠くはない。…………頭が少々騒がしいだけだ……」
ハァ、と。一息吐くカラムはいつもより乱れた前髪を繰り返し整えながら眉間の皺を寄せる。目の下にクマはないが、眉間は深い。
早起きのアランに起こされたお陰で他の団員よりも目は覚めたカラムだが、一時間経った今も鈍く頭が砂嵐の中のようにまとまらなかった。頭痛というほどではないが、顔を洗っていい加減に覚醒させたい。
昨晩アランと共に団長の護衛の為に下働きテントで寝たまでは良かったが、就寝時間からが本当の闘いだった。大所帯で寝ることも、固い地面や床で寝ることも、喧騒の中で寝ることも、騎士として野営も野宿も慣れているカラムだが、昨日はそれとは全く違う状況で寝不足だった。
何故なら、護衛対象である団長がなかなか寝付いてくれなかったのだから。
あくまで護衛の立場である以上、共に就寝といっても護衛対象より先に寝るわけにはいかない。だからこそ団長が寝るまでは起きていたカラムとアランだが、他の下働き達が寝付いても一番長く起きていたのが団長だった。そして話し相手をさせられたのがカラムだ。
『アンジェリカは良い子だろう?昔から一目を引く才能があってなぁ、いや確かに気難しいところもあるがそこも彼女の魅力なのだよ。明日の演目も結局は仕上げてくれただろう?そういう子なんだ、昔から嫌だ嫌だと言いながら最後には頑張ってくれて本当に良い子でなぁ、でも惚れるなよ?あの子に振られてサーカスを出ていった男が昔から後を絶たない。さしずめ女神の伝承そのもののように見る者全てを虜にするあれは魔性とも呼べるかもしれない。いやだが本当に良い子だとは思うだろう?』
最初こそアンジェリカとの演目練習の成果と経過を聞かれただけのカラムだが、途中からは永遠と団長からのアンジェリカ祭りだった。
結成一日目にして問題続きと解散の危機にも及んだカラムへ気を遣っての団長なりのフォローだが、同じような文言を繰り返されたのが余計にいけなかった。
もともと潜入先とはいえ、上司になる団長の話を正直に真正面から受け止め聞き切ろうとカラムも努めた。その結果、団長が寝付くまでアンジェリカの誉め言葉と無駄と呼べるほどの彼女単独の情報が就寝前だったカラムの頭に今も停滞していた。
大事なプライド関連の任務や、今日の段取りも含めて考えるべきことが多いのに、目が覚めた後もずっと昨夜の団長のアンジェリカ語りが頭にぐるぐるめぐる。まるで忘れられない歌のようにアンジェリカ情報ばかりが浮かび続けていた。
任務に必要な情報であればいくら頭に廻ってくれても良かったが、アンジェリカ単体の情報で埋められたところで記憶力の良いカラムにはただただ思考の障害でしかない。
今も口を開けば勝手にアンジェリカ情報が零れそうなほど、カラムは頭の中が煩かった。不眠だけであれば良かったが、要らない情報暗記は流石に脳への負担も大きい。
ぐらんっと一瞬だけ頭が重く首ごと傾いたが、眩暈ではなかった。単純に頭が重い。アランに団長の護衛を任せ、手早く頭を切り替えるべく水場へ向かう。
その背中へ一人手を振りながら、アランも半分笑ってしまう。団長のアンジェリカ談義中、自分も何度かカラムの肩代わりをしようとしたが「今団長は私に話している」と必ず断られた。真面目なのもあると思うが、きっと自分に気を遣ってくれたのだろうと考える。
「んじゃ、ラルク来る前に俺らも訓練所行きますか。朝食ってどうします?」
「私は動かないから団員に譲ろう!アランが腹が空いたなら食堂に急いだ方が」
「俺は昨日食いましたし平気ですよ!取り合えずじゃあ訓練所行きましょうか。今日終わったらまた飲み会したいですね」
良いことを言うなぁ!と、アランの言葉に団長はバシバシと背中を叩きながら大満足に笑う。
昨日の夕食時に余ったパンや肉もあるが、やはりそれも早い者勝ちである。開演日限定で振舞われる一日の栄養の源だが、食糧難のサーカス団ではやはり自然配布はされない。相当懐が潤っていない限りは夕食だけの一日一食が基本の中、他の団員も空腹を感じる者から足を急がせる。
今日は昨夜に満腹で食べた為、あまり必死でない者が殆どだがそれでも食べれる時に食べようと食堂テントに向かう者は多かった。
バタバタと大勢の足音が聞こえる中、周囲から少し遅れて個人テントからまた一人が顔を出す。
「おはようございます……」
欠伸しそうな口を意識的に結び、直後に飲み込んだ。
人前に出る為に髪だけでもと毛先までしっかり解くので時間が掛かったプライドは、そっと開いたテントから顔をきょろきょろ出した。テント内には鏡もなかった為、今自分の顔がむくんでいるかもわからず自信もない。
こっそりルームメイトの騎士二名にも「問題ありません」「変わらずお美しいです」と言われたが、社交辞令と優しさと思ってしまい今も顔を少しでも小さく見せようと長い髪を垂らしたままだ。
自分のテントの周囲に誰もいないことを確認してから敢えてゆっくりテントの入り口を全開にして外に出る。自分のゆっくりとしたその動作の間に、高速の足の騎士と透明化した騎士が出て行けるように配慮する。
テントの前に立ってもきょろきょろと見回しながら歩き出す。顔を洗うべきか、こういうテント生活では水も贅沢かしらと加減が判断つかないままにステイル達のテントへ向かう。いつもは専属侍女やステイル達が迎えてくれる朝に、パッと見は一人の風景で出歩くのは新鮮だとぼんやり思う。
昨夜確認したステイル達の就寝する男テント区域に辿り着けば、既に食堂テントか訓練所へ出払った後は閑散としていた。しかし自分が向かう個人テントから微かに気配がすると、プライドは一度息を整えて呼びかける。
「おはようフィリップ、アーサー。起きてる??」
まさか騎士のアーサーと自分よりしっかりしているステイルが寝坊とは思わない。
しかし自分を迎えにくることもなくテントの中にいる彼らに疑問を覚えながら細々とした声で呼びかければ、期待以上に反応は早かった。
「はい!!」と、聞き馴染みにあるアーサーの元気な声にそれだけでプライドはほっと胸を撫でおろす。更に二秒遅れて「ジャンヌ来たぞ!」とアーサーの呼びかけが続いた為、やはりステイルもいるのだと確認できた。
テントを開けても良いかしらと閉じられた入り口へ指先を添えながら尋ねれば、返事よりも先にアーサーが勢いよく内側からテントを開いた。
おはようございます!!と礼儀正しく頭を下げたアーサーだが、同時にあまりにも寝起き感のあるプライドの姿に肩が上下する。何故髪も結んでいないのかと思いつつ、口の中を噛んで先に彼女を招き入れた。




