〈書籍10巻本日発売‼︎・感謝話〉貿易王子の夢見で。
この度、ラス為書籍10巻が発売致しました。
感謝を込めて、書き下ろさせて頂きます。
時間軸は第二部あたりです。
……ここは、何処だろう。
世界の白を集約させたような空間。ここまで白くて、無に近い感覚は初めてかもしれない。航海中に見た陽の光より白いのに眩しくない。
一体さっきまで何をしていたのだろうと思うのに、どうしてもわからない。
白の世界。気付けば見渡す限り白に広がった地に、僕は立っていた。光がない、ただただ白に塗り潰された世界を眺めながら、……何故だろう。初めて来たような気がしない。全く憶えがないのに、酷く既視感が頭に過る。こんな場所、アネモネ王国にも隣国のフリージア王国にも思い当たる場所なんてないのに。
覚えも無い場所で、助けを呼ぶ前に不思議と周囲を見回してしまう。自分でも誰を探しているのかわからない。何故、こんなところにいるのかもわからないのに。不安はなくそれなのに、急き立てられる。
記憶は、思考は正常かかと、自分で自分を尋ねてみる。名前はレオン・アドニス・コロナリア。アネモネ王国の第
「なにしてるの」
思わず息を飲み、背後に振り返る。
独り言のような小さな声に呼びかけられてみれば、いつの間にか僕以外にも人がいたことのだと今気付く。背後の気配にも気付かないなんてどれだけ呆けてしまっていたのだろう。それとも、この子どもに気配がなかったのか。
小さな、子どもが一人。僕のすぐ後ろにぽつんと立っていた。
振り返った一瞬は視界に入らなかったくらい小さな子どもが僕を見上げる。知っている気がするのに、どうしてだろうまるで頭に靄がかかったように思い出せない。
ひとまずは目の前の子と言葉を交わそうと、片膝をついて視線を合わせる。アネモネでも視察で巡る際に子どもと言葉を交わすことはあった。
セフェクやケメトのお陰もあって、今では大分子どもに慣れたなと自分で思う。「こんにちは」と挨拶しても返事をせずにただ上目にただ見つめ返されても、今は別段驚かない。二人なんて、仲良くなろうとした当初は目も合わせてくれなかった。
この子は目を合わせてくれるだけ、僕と会話をしようとは思ってくれているのかなと思う。今のケメトと近いくらいだろうか。そんなことを考えながら、次に投げかける言葉を考え、笑いかける。
「……君は、なにをしているんだい?ここはどこか知っているかな」
「無礼者」
バシンッ、と。……言葉と共に僕へと振り上げられた小さな手の平を片手で受け止めながらも、僕は改めて子どもを見つめ返す。
まさか、尋ねてすぐに手をあげられるとは思わなかった。しかも、第一王子の僕の方が「無礼者」扱いだ。
僕に手を掴まれて振り払おうと抵抗するけれど、やっぱり子どもの力だ。こんな真っ白の世界で、迷子か、それとも誘拐でもされたのかなと考えながら一人首を捻る。できれば他に事情を把握できる大人もいればと思ったけれど、今この瞬間だけは僕とこの子だけで良かったと少し思う。
我がアネモネ王国でも当然、王族への不敬は重罪だ。子どもでも、親子共々重罰を課せられる場合はある。
けれどまだ小さな子どもだし、僕のことを知らないのだろう。今も僕に手を掴まれる中、ひたすら全身を使って暴れるように手を振り払おうとする子どもは、全く反省の様子もない上に危機感もない。
こんな意味のわからない場所で、知らない大人に腕を掴まれたらもっと怯えても良い筈だけれど。僕を無礼者呼ばわりするわりには、結構胆力はある方かもしれない。セフェクやケメトだって、知らない男に手を掴まれたら怯えるだろう。……いや、セフェクは反撃をするかな。
なら、この子は特殊能力者ではないだろうか。もし特殊能力者ならそろそろ反撃されても良い頃だ。
今も僕に手を放すようにと声を荒げる子どもに、放すのは良いけれどこのまま逃げられたら困るなと思う。
遮蔽物もない場所だし探すのは苦労しなさそうだけど、逆に阻むものがないから体力の限り逃げ回られたら追いかけるのも苦労しそうだ。足で負けはしないと思うけれど、子どもの体力は侮れない。
まずはきちんと会話してもらうべく、なるべく落ち着かせた声でもう一度呼びかける。
「何故手をあげようとしたんだい?なにか悪いことでも言ってしまったかな」
「ッ第一王女であるこの私に!!質問に質問で答えたからよ!このッ……無礼者!!」
瞬間。
彼女から発せられた言葉で、急激に頭の靄が晴れていく。さっきまでただ〝子ども〟としか認識できなかった〝少女〟に自分の目が見開かれてくのを自覚する。
何故、今まで気付かなかったのだろうと、目の前の少女の存在よりもそっちの方に混乱しかけるほど、彼女はそのものだった。
深紅の揺らめく長い髪と、フリージア王国でも珍しい紫色の瞳。幼い頃からの整った顔立ちと凜とした眼差しは、フリージアの城でも何度も目にしたことのある幼少時のプライドそのものだった。
愛らしいドレスだって、僕には見慣れているけれど庶民とは思えない上等な衣服だ。社交界……いや、王族に相応しい服装をしていることにすら思考が届かなかった。
驚きのあまり掴む手から力が抜けてしまった途端、すかさず振りほどかれた。そして彼女も逃げるよりも先にもう一度僕に手を振るう。
パシンッ!!と、……子どもながらになかなか強い力で今度こそ頬を叩かれた。
フーッフーッと猫のように息を荒くする少女に、殴られたことよりも逃げなかったことに頭の妙に冷静な部分が関心してしまう。
態度は明らかに違うのに、こういうところはプライドだなぁと頬を押さえながら思う。彼女からすれば、反撃とはいえ腕を掴んできた大人を相手に逃げるよりも立ち向かったのだから。……いや、むしろそこで身の安全よりも私情に走ったのは子どもらしい思考とも言えるかもしれない。
ヒリつく頬のまま、改めて彼女を見る。つり上げた紫色の眼光で僕を睨む少女は、もうどこからどう見てもプライドだ。
子ども相手というのもあるけれど、何よりプライドだと思うと怒る気が全く湧かなくて片膝のまま力まで抜けてしまう。
「怒らせたのは謝るよ」と言いながら、もう一度彼女が怒っていた理由を思い返す。そういえば、先に僕に何をしているのか尋ねたのは彼女の方だった。それで僕が答えないから怒ったらしい。
第一王女という意識はあるし、無礼者と思ったのも……まぁ、それでも殴るのはやり過ぎだけど。
「……僕が、何をしているかだったかな。ごめん、僕もわからないんだ。気が付いたらここにいて、だから今は状況を把握しようとしているところかな」
笑んでなるべく冷静に返しつつ、……これは特殊能力者の見せる幻か、それとも夢の中かなと考える。僕一人ならまだしも、まさか小さなプライドに出会うなんてどう考えても現実ではあり得ない。せめてこのプライドが、中身も僕の知っているプライドならまた状況も違う可能性もでてくるけれど、この子は僕のことを覚えているどころか、僕が王族だということにも気付いていない。……いや、気づいた上でこの態度なのかな。
「だから、君に尋ねたんだ。教えてくれるととても助かりるんだけど」
「教えて欲しいなら先ず態度から改めなさい。偉そうに。私は第一王女プライド・ロイヤル・アイビーよ?まずは平伏なさい」
うん。プライドだけど、プライドじゃない。
片膝をつく僕に、大きく見せようとしてか胸を突き出すように仰け反り顎を突き出しながら僕より低い背で見下ろそうとする彼女は、一段と低めた声で言い切った。
流石にいくら子どもの言葉でも、王族である僕がここで平伏までは付き合えない。本人は僕が平伏するのを待つように腕を組むけれど、ひとまずは言葉ぐらいは整えるべきかなと考える。
僕にとってはプライドで、同じ王族の女の子だけど、確かに初対面の女性を前に少し馴れ馴れしかったとも思う。社交界でもこの年の王女に僕も礼儀は通す。
同じように今目の前のプライドにも、僕は片膝をついたまま胸に手を当てて礼をした。
「挨拶が遅くなり、申し訳ありませんでした。僕の名はレオン・アドニス・コロナリア。貴方の国、フリージア王国とは古い関係でもある隣国アネモネ王国の第一王子です」
自分で言いながら懐かしくなってしまう名乗りに、言い切ってからも口の中が擽ったくなる。
同盟、とこの年のプライドに話すのが難しく、敢えて伏せて説明する。「あねもね……」と呟くプライドは瞬きを繰り返し、最後に首を捻った。この反応だと、聞いたことはある程度だろうか。また小さいし、まだ知らなくてもおかしくはない。
同じ王族とわかったからか、さっきまでの勢いは少し凪いだプライドを見つめながら、改めて彼女がプライドなのかと感慨に耽ってしまう。
少し前の僕だったら、もっと驚いていたか信じられなかっただろう。ステイル王子からプライドの幼少期については聞いたけれど、なるほどこういうことかと納得してしまう。確かに〝あの〟プライドと通じる部分はある。……けれど、比べてしまえば随分こっちは可愛いものだというのが僕の感想だ。
どうせ夢でも幻でも、現実じゃないのだからこれが本当に昔のプライドそのものとは限らない。それでもこの程度ならずっと、まだ改善の余地はあったかなと思う。
「……!ッあんな小国!!我がフリージア王国がいなかったらとっくに侵略されてたわよ!感謝はないの?!」
まぁ、この子が女王となると不安になる気持ちはよくわかる。
パッと思い出したように目を開いた途端、子どもながらに嘲笑と共にプライドから放たれる言葉に、僕も今だけは苦笑になってしまう。ああ子どもが言いそうだなぁと思う。きっと今その言葉を言うために一生懸命アネモネ王国の知識を思い出したのだろう。
僕はアネモネ王国の人間で、彼女と同じ王族で、そして今は年も遥かに上で、これが夢が幻で、しかも彼女が未来に素晴らしい王女になるとわかっているから笑っていられるけれど、もしこの少女が現実で第一王女で自分が庶民や家臣だったら頭を抱えるだろう。
相手が王族だとわかっても態度を改めず、むしろ自分の方が上だと見下す為に言葉を選ぶ。小国であるのは事実だけど、昔からフリージアの貿易大半を占めていた我が国にその言葉はなかなかに挑戦的だ。
「そうですね、感謝します。フリージア王国とこうして和平関係であれて、本当に良かったと思います」
「何よ!女みたいな顔して!!私が母上に言えばいつだってアネモネ王国を侵略することもできるのよ?」
…………。なんだろう、今ちょっとだけグサッときた。
アネモネの侵略なんて子どもの出まかせよりも、その前に言われたひと言が。
他の誰に言われても気にならない筈なのに、この子がプライドだと思うと少なからず傷ついてしまう。そういえば、現実ではないとはいえこのプライドには初対面から全く好かれてないなと改めて思う。これでも人に、特に女性相手には昔から好意的にしてもらうことが多かったけれど、このプライドは初めから僕を好きじゃ無さそうだ。
女みたいな顔、と……母上似の自覚はあるもののそんな言い方する人はいなかった。
もしかしてプライドにも初対面ではそう思われたのかなと、少しでも過ぎると現実でもないこの世界で落ち込みたくなる。その場合、プライドは本当に最初から僕は好みじゃなかったということになる。もう結ばれることもない相手ではあるけれど、子どもの正直な感想がこんな形で刺さるとは思わなかった。
「……君は、……貴女は。女みたいな顔の男性はお嫌いですか?」
「嫌い。私だって大人になれば母上みたいになるんだから!男なら父上みたいになりなさいよ。男のくせに女みたいな顔なんて格好悪い!」
アルバート王配かぁ……。
「嫌い」の言葉がザクザクと胸に刺さりながら、気づけば溜息が溢れてしまう。本人の言うとおりプライドはローザ女王のように美しくなるけれど、まさか彼女の理想はアルバート王配なのだろうか。女の子は理想が父親になるのはよくあることだと聞いたことはあるけれど。僕も男兄弟しかいなかったし、実際のところはわからない。
つん!と顔を僕から背け胸を張る彼女は、まだ自分が上の立場のようだ。それでも、さっきと比べて返事をくれるようになっただけ、少しは心を開いてくれてるのかなと思う。まさかセフェクとケメトとの関わりがこんなところで生きてくるとは思わなかった。
「お父君を慕っておられるのですね。……他にお好きなものはありますか?」
「なんで選ばれし第一王女の私がそんなことアンタに答えてやらないといけないの?」
「僕も選ばれし第一王子です。……なので、同じ王族としてプライド様の見解をお聞きしたいと考えました」
こういう時も怯まないで返せるようになった。
ムッ、と唇を一度尖らせたプライドは、一度目を逸らす。まだ幼いけれど、プライドぐらいの王女ならもうこの年には年上の王子にも会ったことはあるだろう。同じ立場、だけど自分の方が大国であるプライドはきっと年上の相手にも強く出られたことはないかもしれないと、ぼんやり考える。
なんだろう、話を重ねているからか目の前の彼女が本当に現実のように感じられてくる。
「……。父親と、母上。それだけ」
「妹君や弟君は?」
「要らない」
辿々しい答えも束の間に、続けた僕の問いに今度はあまりに間髪入れずの冷たい声だった。
ただ、迷わなかっただけじゃない。はっきりとした拒絶の意思が込められている。
年齢が正しくは読めないから、ティアラやステイル王子の存在を探ってみたけれど、おそらくはまだ出会う前なのだろう。そういえばステイル王子もプライドの過去を当時に初めて知ったようだった。
なら、このプライドは僕が思ったよりも更に幼い。背の高さや凛とした佇まいから少し大人に見えたのかもしれない。確か、ティアラが存在を公表されたのは六歳。当時までプライドも秘匿されていたと聞いた。なら、この少女はその当時よりも幼いと考えるべきだろう。
「……それは、何故でしょうか」
「私だけで充分だから」
返事をしてくれたに反し、突き放すような声色だ。それ以上詳しくは話したく無さそうに顔を背ける。
セフェクも、当時はヴァルを取られたくなくてケメトと一緒に僕に嫉妬してくれたことがある。だけど彼女が敵視するのは外部の人間で、ケメトとヴァルという自分にとって家族である存在は大事に思っている。
比べてプライドは、家族でさえも増えるのは拒んでいる。この少女が妹や義弟を大事に迎え入れるとなれば、確かに信じられない変化だ。
だけど、まだ子どもだ。そういう変化もきっとあるだろう。……あってくれたんだ。
「お言葉ですが、貴女のことを慕ってくれる人が増えるかもしれませんよ。貴女の愛する人も増え」
「うるさい子が増えるだけよ」
説くようにかけた言葉が、最後まで言い切る前にピシャリと遮られた。厳しい鋭さは変わらない。もともとの凛とした眼差しが吊り上げられ、大人の彼女よりもその目は際立っているとふと、思う。
子どもながらの可愛らしい顔立ちに、大人の眼光が異彩を放っていた。……笑えば、きっと可愛いのに。
「喚いて、泣いて、欲しがって。あんなのが増えたら私だけを見てくれなくなるじゃない」
……それは、誰のことを差しているのだろう。
幼い顔をこれ以上なく歪める少女は、大人びた顔つきのせいで余計に険しく見える。紫色の大きな目が見開かれ、そして眉間とともに狭められる。
そういう知り合いがいても、この年なら驚かない。歳の近い令嬢にだって、第一王女なら社交界にも招かれて会う機会は多いだろう。だけど、彼女の語り口は誰かを思い出しているというよりも、……もっと、身近なものを思い出しているように見えた。苦々しく下を俯きながら彼女は何故〝増えたら〟と言ったのだろうと考える。
誰よりも喚いて、泣いて、欲しがっているのは、誰なのか。
「大体、知らない子にどう思われても嬉しくないわ」
「?そうかな。人に想われることは嬉しいよ」
「馴れ馴れしく話さないで。アネモネを潰されたいの?」
……今度は、頬を叩かれなかっただけ良かったかな。
目の前の寂しそうな少女に、しかもプライドだと思うとつい口調が気が抜けてしまう。ギラリと大きく目を見開き僕を睨むプライドは、最後の声の低め方だけは少しぞわりと肌が反応した。やっぱり、プライドだなぁとどこか口が笑ってしまう。
申し訳ありませんと、きちんと謝ればフンと鼻息を荒くしながら彼女は顔をまた逸らす。
「……嬉しくないわよ。貴方だって私に好かれても本当は嬉しくもないくせに」
「そんなことはありませんよ」
「フリージアの第一王女だからでしょ」
こんなこと、婚約解消の時だって言われなかった。
どこまでも僕を突き放す彼女は、これでもきっと王族の僕相手にいくらか抑えてる部分もあるだろう。それでも「自分はわかってる」「大人と同じ」だと示すように話すところは、やっぱり少しセフェクに似てると思ってしまう。……寂しがり屋なところも。
声で上塗られないように首をゆっくり横に振り、違うと言葉以外で示す。むしろ、この少女のプライドに好きだと言われたらきっと僕は顔が緩むくらいには嬉しいだろう。
確かに、彼女にとって僕は初対面の王子だ。お互いに知ってる情報が少ない以上、そう判断するのは大人でもあり得ることだ。僕だって、……女性からの好意に増長した上で引いてしまったこともある。第一王子としての僕を望む、彼女達に。
「プライド」
気安く呼ばないで、と。鋭くまた返された。それでも構わず、今は続けさせてもらう。目の前の少女にはそのままの言葉で伝えたい。
腕を組み顔を背ける彼女はどこか〝あの〟プライドにも似ていたけれど、ずっと可愛らしくてそして少女らしい。
身体は正面に、横顔を僕に向ける彼女がその両目に映してくれるまで待った。そしてちらりと横目から僕に向けてくれたその顔に、心からの言葉を告げる。
「僕は、愛してるよ」
会ってから、一番大きく見開かれる瞬間を見た。
紫色の瞳が僕を映し、しかめていたばかりの表情筋がにわかに伸びる。子どもらしくなった表情に、僕まで釣られるように顔が緩む。
今度はもう言葉遣いも怒られなかった。それよりも疑うように、次第にまた彼女の顔が強張っていく。
「だから僕は君にそう言われたら嬉しい。君がただの庶民になってもこの気持ちは変わらない」
「……嘘」
「君のその強さも、寂しがりなところも、全てを愛してる。たとえ君が喚いても、泣いても、欲しがっても。……そんな君も、心の底から愛しく思うよ」
今度は、言葉が返されない。唇を結んだ彼女は沈黙のまま、今度は目を逸らした。顎を引きながらじわじわと肌が紅潮する姿がまた愛らしい。やっぱりまだ子どもで、……女の子なんだなと思う。
僕の知るプライドに一番近い表情になる彼女に、本当にこの時に出会えたら良かったのにと思う。そうなれば、もっとたくさん彼女に愛してると伝えられたのに。
唇まで噛み始めた彼女は、ぎゅっとドレスの裾を握り肩まで強張った。顔色も気付かれてないつもりなのか、眉を吊り上げながら僕を見返すけれど、さっきまでとも違う少女の愛らしい表情だ。
彼女へ顔を近づけても手はあげられない。僅かに首を引いたけれど、顔の顰め方も子供らしい表情だ。
まるで威嚇する猫のような少女に、叩かれても構わないと思いながら僕は最初に手で触れ、長い髪を掻き上げそして
頬に、口付けを。
「〜〜っっっ?!!!」
あの時と同じ箇所へ重ねるように唇で触れれば、彼女はその手を僕にではなくその頬を押さえた。
軽く触れる程度の口付けで、まだ子どものプライドなら気にしないと思ったけれど、違ったらしい。夢ならこれくらい良いかと思ってしまったけれど、やっぱりそういうところは淑女だ。
水晶のように丸くした目を僕に向けながら、驚くぐらい顔が真っ赤に染まりだす。仰け反ったと思えば、そこでぼすん!と音を立てて腰が砕けたように床に崩れてしまった。
プライドにしてはあまりに恥ずかしい崩れ方がまた可愛くて、思わず「ふはっ」と笑ってしまう。あまり笑い続けると揶揄ったと思われそうでなるべくすぐに治めたけれど、それでも速やかにプライドの眉は釣り上がっていった。今にもまた手が上がりそうな彼女に「ごめん」と笑ったことをまず謝る。
「おまじないだよ。……君が、大勢に愛される人になるように」
特殊能力者の国であるフリージアの王女じゃ、このプライドにはおまじないもあまり喜ばれないかなと思ったけれど、否定はなかった。……そこは、僕の知るプライドやティアラと一緒だ。あの二人もそういうの好きだから。
塗ったように顔を熱らせたプライドは、ぷるぷると身体を微弱に震わせる。だけど怒ったというよりもその顔は、……なんて。そういうことに気づけるようになったのも彼女のお陰だ。
愛しさのままに深紅の髪を反対の耳へも掻き上げ、熱の帯びた頬に触れる。つやつやとした彼女の頬は僕が知る触り心地よりもさらに柔らかく、つい指でも摘みたくなる。
目を見開いたまま唇を震わせ頬を押さえたまま固まる彼女は、暫く待っても無言だ。……可愛いな。何か、文句を言う言葉を探してるのかな。きっとまだたくさんの言葉は知らない。
「もし、……このおまじないが叶ったら、僕と婚約してくれるかい?」
「っっ!無礼者!!」
ふはっ、ははっと思わず笑ってしまう。あまりにも可愛い反応で。
真っ赤な顔で、最初とは違うどこか情けない表情で眉だけ吊り上げる彼女は、手を今度はあげようとしない。続けて「死刑よ」「アンタの国なんて」と言葉を放つ彼女は声の張りも抑揚が激しい。動揺してくれてるのかなと思いながらお腹を抱えて笑い続けてしまうと……そこで、彼女の姿が薄れ出した。
ふわりと、白の背景に溶け込むように薄れていく彼女は、自分でもわかったようにぱちりと瞬きをする。頬を押さえた自分の手のひらを降ろし、確かめた。……なんだろう、この光景もどこか覚えがあるような。
きっとこれがお別れなんだろうと、不思議とわかる。
「待ってるよ」
さようならの代わりに彼女へ笑いかける。
「え」と一音を溢すプライドは眉を上げ、僕を見る。消えかけるその髪をもう一度、もう二度三度と繰り返し撫で下ろし、消えるその瞬間まで触れ続ける。最後に彼女が押さえるのをやめたその頬へ僕の手のひらで覆い、その熱を確かめた。
顔の力の抜けたその表情が、僕のよく知る彼女と同じくらい柔らかい。
「君が愛される未来で、待ってる」
僕の言葉に、彼女は一度目を大きく見開きまた眉を寄せた。
薄く、薄く、白に溶けていく彼女は頬を膨らませ、それから何かを言った。もう顔もいくらか白に消えていた彼女は口もよく見えなくて。
「〜〜っ────────────!!!」
その声も、上手く聞こえなかった。
ただ怒ったような眉の釣り上がりに、何か宣戦布告の類かなと考える。最後には白く溶けきるまでその眼差しから一度も逸らすこともなく、鏡のような紫の水晶に僕を映し続けてくれた。
頬を熱らせ緩みきった顔で笑う、僕がそこにいた。
……
…
「……オン様、レオン様、到着致しました」
ぼんやりと呆けてしまっていた僕に、馬車の外から護衛の騎士に声をかけられる。ノックを鳴らされ、扉が開かれたところでようやく我に帰った。駄目だな。せっかくの大事な日なのに、ついまた考えこんでしまった。
昨夜見た夢のことなんて。
夢を見た気はするのに、どんな夢かが思い出せない。そんなこと今までも珍しくないのに今回は妙に気になった。
忘れたことが惜しい気がして、今朝起きた時も起床時間にも関わらず思い出す為だけにもう一度寝てしまおうかとまで考えた。
それだけとても続きが気になる夢だったのか、それとも良い夢だったのか、目覚めた直後の胸の高鳴りは今も名残が残っている。しかも、全く覚えていないわけではなくて、夢の中で誰かに言われた言葉がたった一つだけ覚えているのがまた気になった。相手の声も顔もわからないのに、言われた言葉だけがぽつんと置き手紙のように残ってる。
だけどこれ以上考えるのは駄目だな。馬車を降りたところで気持ちを切り替える。
今日は門の前には使用人達の出迎えだけで「ようこそいらっしゃいました」と掛けられた一礼に、僕も一言と手の動きで返す。そのまま一度、客間へと通された。
先に出されたお茶を飲みながら待てば、彼女が訪れるのもすぐだった。コンコン、とノックを鳴らされ扉が衛兵により開かれる。待ち遠しい彼女に会えるのだと、今朝以上に胸が高鳴っ
「いっいいいらっしゃいッ!れっれれレオン……〜っ」
「やぁ、プライド。……どうかしたのかい?」
ひと目でわかるほど顔を真っ赤にしたプライドは、笑顔も無理をしてるように強張っていた。しかも、声までひっくり返る彼女はどうみても普段通りとは程遠い。
まさか風邪かな、と思いながら尋ねれば「なんでも!」とその声は更に裏返っていた。肩まで上がってぎこちない動きで僕の前に掛ける。
着席した後もなかなか目が合わない彼女に、心配になってくる。扉前に立つ近衛兵のジャックも、プライドの分も紅茶を出す専属侍女のマリーさんとロッテさんも落ち着いた表情だし、近衛騎士のアランとエリックも苦笑はするけど僕と目が合った途端二人とも小首を傾げていた。
取り敢えず彼らの反応に、体調が悪いわけではなさそうだと思いながら僕も一人首を傾ける。どう見ても気のせいでは無さそうだけど。少なくともこのまま目が合わないのは寂しい。
「プライド。僕、何か悪いことしたかな?」
「!いっいいえ!!そんなことないわ!むっむしろっ……〜〜っ」
ブン!と風をきる勢いで首を振り、すかさず目を合わせてくれたプライドは紫色の目を大きく開き、同時に顔が更に熱っていった。
愛らしいけど、またそこで耐えられないようにぎこちない表情で目を逸らされた。自分でも制御ができないように顔を両手で覆うプライドは、そのまま背中まで丸めた。耳まで真っ赤な姿に、……なんだか僕まで釣られてしまう。恐らく、今鏡を見たら僕の顔色も少なからず同じ色だろう。真っ赤な顔で、恥ずかしそうに僕に目を向けてくれるプライドが、あまりに可愛くて愛おしくて。
まるで、彼女にこんな可愛い顔をさせているのが自分だと錯覚してしまう。
なんだろう。最近プライドにそんな反応されるようなことしたかな。前回の定期訪問はアネモネに来てくれたけれど、普通に城下を視察して楽しんだ。別れ際も普通だったし、最近はフリージアとの書状のやり取りと目立ったものはない。ヴァルが何か言ったかとも考えるけれど、最近でそんな言われて恥ずかしいことも話してない。
まさか今の僕の格好がおかしいのかと身嗜みを確かめるけれど、変なところは何もない。ただでさえプライドと会うから念入りに身嗜みは確認したし、顔に何か付いているはずもない。そんなことがあれば、護衛の騎士達も指摘してくれただろう。
「〜〜っ……本当、本当にごめんなさいレオン……。ちょっ、ちょっと変な夢を見ちゃって……まだ、ちょっと忘れられなくて後を引いてるだけなの……本当ごめんなさい……」
「!なんだ。体調が悪いわけじゃなくて良かったよ」
気にしないで、と。言葉を返しながら、心から安堵する。
夢なら僕に落ち度があったわけでもなさそうだ。僕も僕で今朝から夢が思い出せずに呆けてしまったこともあって、むしろ気持ちがわかる。淹れられた紅茶を一口味わいながら、肩が降りる間もプライドは「ごめんなさい本当に……」と謝る数が多かった。僕とプライドの間なのだし、それくらいで謝る必要とないのに。
「けど、気になるな。プライドにそんな顔をさせる夢がどんなのか」
「!!っいえ!ごめんなさい話すと忘れられなくなりそうで!この夢はちょっと……!その、……〜〜っ……いつまでもこの顔を向けることになったら困るから……!」
そんなこと言われたら余計知りたくなるんだけど。
「えっ」と一音まで口から溢れてしまった。本当に、一体どんな夢を見たのだろう。まさかそんな口にするのを憚れるような疾しい夢をプライドが見たのかとも考えにくいけれど。
ただ、言えない理由は少しわかる。夢はわりとすぐに忘れることも多いけれど、人に話すと覚えている場合もある。つまり誰にもプライドは夢の内容を話していないのかと、改めて専属侍女達に視線を向ければ一礼が返された。
そこまで彼女が忘れたい夢なら、無理して話させたくもない。けれどどうしても気になる僕は、ひとまず今日の予定を決める前に一つだけ質問を試みる。
「……悪い夢だったかどうかだけでも聞いて良いかな?」
「…………。……悪い、……こともしたけれど、良い夢だったと思うわ……」
はぁ……と、そこで溜息を吐くプライドは、どこかその音も普段より色がついて聞こえてしまう。
熱った顔から手を下ろし、眉を垂らした彼女もまたカップを取った。
「ごめんなさい」「すぐ忘れるから」と繰り返すプライドに、……なんだか忘れて欲しくない気がする。そんなに赤面するほどの夢なら、忘れた方が幸せに違いないのに。
こんな表情を見れるのも貴重だなと考えれば、悪くないものにも思えてきた。相変わらずまだ僕と目を合わせにくそうな彼女に、今日はこのままお茶をしようかなと考える。どうせ今日で忘れちゃうなら、今のうちにここで彼女を眺めたい。こんなに僕を前に照れてくれるプライドは本当に貴重だから。
「……今日は、このままお茶でも良いかな?その方が君も慣れるかもしれないし」
「〜っ……はい。……本当、本当にごめんなさいレオン……」
頰杖をつき、しおらしく赤面するプライドを眺める。むしろ僕に目を合わせられないなら、こうして愛らしい彼女をじっと眺められるのは贅沢かもしれない。
気にしないで。僕も君といられて嬉しいから、と。言葉を続けながら頬が自然と緩む。
彼女が気にしないで済むようにと話題を変えながら、またカップを取る。夢に影響されるのはお互い様だなと思いながら、ぼんやりと僕も昨日の夢の名残を思い出した。
『〜〜っ!絶対!振ってやるんだから!!!』
……怒った口調だった、と思う。
一体誰に言われたのか、何故言われたのかも思い出せない。今までそんなこと誰にも言われたことないから全く想像がつかない。
ただ、……目覚めた時になんだか嬉しかったなと思う。嫌な感じが全くしなかった。
この夢も、このまま話さないでいれば僕も遠からず忘れてしまうのかと思いながら、目の前のプライドに一人笑む。
僕とまだ目を合わせられない彼女は気付かないまま、会話を続けてくれた。恥ずかしそうに、けれど時折はにかみながら。
堪らなく贅沢な時を過ごしながら、気づけばもう夢は気にならない。
それよりも、ただ目の前の現実が愛おしかった。




