Ⅲ109.専属従者は緊張し、
「兄様とお姉様、今頃どうしておられるでしょうか」
ふぅ、と。溜息を吐きながらティアラは両手で頬を挟みテーブルに肘を突く。
王配である父親から休息時間を与えられたティアラだが、大好きな姉兄が遠征中の今は自室に戻っていなかった。同じ王居とはいえ回廊を介した自分達の住む宮殿よりも、遥かに父親の仕事場にこの上なく近いそこは、今やティアラにはもう一つの癒し場所だった。
頰杖を突くティアラの前にカップが置かれる。砂糖を入れる前から溢れる紅茶の甘い香りに、それだけでも癒された。「ありがとうございますっ」と声を跳ねさせながら、紅茶を淹れてくれた相手に陽だまりのような笑顔を向ける。
「フィリップは、こちらのお仕事には慣れましたか?」
「!はい、ええ。あっ……お、お陰様、で何不自由なく……」
どきりと肩が上下するフィリップは、ぎこちない笑みでそれに返した。
第一王子の専属従者として雇われた彼だが、今は主人が留守の為に別の業務に追われていた。そして、今の主な仕事がこのティアラにとっても癒しの場所である宰相執務実での補佐だ。
補佐といってもジルベールの預かる書類仕事に携わるわけではない。部屋の掃除や茶汲み程度。もともとは侍女が済ませていた業務である。
ジルベール自身も、常に宰相の執務室にいるわけではない。むしろ日によっては自身が補佐する王配の傍にいることの方が多い。その間はジルベールの執務室で留守と清潔維持を守ることを任されている彼にとって、ティアラの訪問は貴重なありがたい業務であると同時に、充分な刺激でもあった。
従者に就任してからステイルを通しプライドやティアラとも休息時間には相対することが増えていたフィリップだが、今だに美女二人には慣れない。しかも今は、わざわざティアラの訪問に合わせたジルベールも部屋に戻ってきている。
仕事机でアルバートに提出する前の書類を精査中のジルベールの視線がまた痛い。書類ではなくひと息吐くように自分とティアラを眺めている彼に見られるのが、今のフィリップには凄まじく落ち着かない。ジルベールには自分の本来の姿が見えてしまっているのだから。
ティアラの目には美青年従者に見えている自分だが、ジルベールの目には天使のような第二王女に微笑みかけられているのは凡庸な冴えない男だ。そう思えば思うほど、フィリップは見られるだけで全身が強張った。
事実はそうでなくとも、ジルベールの目に映る自分とティアラを嫌でも想像してしまう。美女であるティアラからの微笑みにも熱が上がれば、本当の姿では冴えない自分が彼女の隣に立っているのを見られるのもいたたまれず恥ずかしい。
ぺこりぺこりと一回一回を丁寧に低頭しつつ、ジルベールと目も合わせられない。そして、そんなフィリップの心境を理解するジルベールも少なからず眉が下がった。そもそもは通信兵の映像を通してステイル達の顔をちゃんと見たかったから今日も〝お言葉に甘えた〟だけだったが、自分の前に立つのは少し落ち着いたように見えるフィリップが今度はティアラに対しても緊張する様子に申し訳なくなった。
ステイルがあそこまで自分を叱り付けたのも今ならば納得できる。軽く首の位置を傾けながら、満面の笑みのティアラとその笑顔に汗を滲ませるフィリップのぎこちない笑みを見比べた。フィリップの態度に不思議そうに目を水晶のようにするティアラを見ると、普段はここまで彼女相手にも緊張しないのだろうかと考える。
彼にとってティアラを含める王族、そして城で堂々と振舞う為の一種の安心材料と自信の一端が偽りの容姿と理解する。
これは今からでも自分の特殊能力を解かせて安心させてあげるべきかとも考えるが、一時しのぎをしても意味がない。今後のことも考えれば、今から少しずつ自分の視線に慣れてもらおうと思う。
間違いなく、フィリップの特殊能力に頼るのは今回が最後にはならないとジルベールは確信している。ステイルの従者である彼にその度躊躇われ死にそうな顔をされるくらいならば、今のうちに慣れさせる方が良い。今は彼の環境も落ち着いているからこそ特に。
「このお茶とっても美味しいですっ。流石兄様の専属従者さんですねっ」
「お、おおお褒め頂き光栄です……。まだ、ティアラ様の専属侍女には遠く及びませんが……」
そんなことありませんよっ。と朗らかに笑い返すティアラに、やはりフィリップの笑みは強張る。
ティアラにはちゃんと特殊能力の姿が見えていると頭ではわかっているのに、それでも気を遣ってくれているのだと思って仕方がない。庶民の自分が居れた茶を飲んでいる王女様という感覚がどうしようもなく拭えない。
特殊能力時と比べると別人のように初々しさが強いフィリップに、せめて彼が自然体に近付ける補助だけでもとジルベールもカップに手を伸ばす。ステイルの舌にも合うようにと練習中のフィリップの紅茶を一口味わい、確かめる。
「また腕を上げられましたね。紅茶の葉もティアラ様の好みに合わせてくださったのでしょうか」
「!申し訳ありません。ジルベール宰相殿下のお好みではありませんでしたでしょうか……?」
いえいえ、そんなことは。と、ジルベールはゆるやかに手を横に振る。
「そうなのですかっ?」とティアラが自分のことを考えてくれたことに嬉しそうに笑いかける中、フィリップは選別を間違えたかと焦り出した。今までもジルベールからの提案で紅茶の練習台になってもらっていたフィリップだが、相手がジルベールだった為男性好みの銘柄ばかりを淹れていた。しかし今回ジルベールの部屋に遊びにきたティアラに、宰相と第二王女どちらの好みを優先すべきかと考えれば答えはすぐだった。
前の雇い先でも奥様が好まれた珈琲は風味もまろやかなものをと記憶していたこともあり、紅茶もなるべく甘い香りの葉を選んでしまった。しかし、こうして指摘されると男性には甘い香りは好まれない場合もあったと気付く。むしろ、ティアラ用とジルベール用に別々の銘柄を用意すべきだったとも今省みた。
前の屋敷では夫人が従者の腕を自慢する為に同じ珈琲を客人に出していたが、今この場にいるのは宰相と王女である。
「紅茶はどのような香りも好みます。ティアラ様も、確か紅茶は等しく好まれておられたと記憶しておりますが」
「はいっ!甘い香りも好きですけどどちらも大好きです。兄様もお姉様もですから、兄様が帰って来たら紅茶はフィリップのお勧めを選んであげてくださいねっ」
その方が兄様も喜ぶと思いますっ。と、自分よりもいずれ帰ってくる兄の舌をティアラも優先する。
フィリップが兄の昔の関係者であることは教えてもらったティアラだが、あくまで新人従者の〝フィリップ〟として関わろうと決めている。優秀な特殊能力と、そして従者としてもちゃんと実力も伴って珈琲の腕も良い。今は兄を喜ばせる為に紅茶まで練習中のフィリップを応援したい。欲を言えば、いつかは彼の本当の姿を気兼ねなく見せてもらえたらと密かな目標を抱く。
ティアラの言葉にフィリップも深々と頭を下げた。第二王女からの気遣いに「そんな畏れ多い」と言葉では言うが、心の中では妙に冷静になる。お勧めも何も、そういえばステイルには未だに紅茶の銘柄どころか珈琲か紅茶かどちらをと言われた数も少ないと気付く。自分自身、本人に断らず自分の判断で珈琲を勝手に淹れた時もある。
そこまで省みたところで、気付けばステイルに対してだけは遠慮という名の気遣いが薄れていたことに、フィリップは頭を下げたまま口元が引き攣った。
ステイルが文句を全く言わなかったことが大きいが、自分もステイルに対しては少し肩の力が抜けてしまったことを自覚する。従者として仕事はきっちりやれていたつもりだが、もう少し改まるべきかもなぁと心の中で反省をする。
「ステイル様は元々決まった銘柄ばかりを嗜まれた御方ですが。フィリップ殿がいらっしゃってからその日の味を楽しんでいるようで、私も嬉しい限りです」
「!私もそう思っていましたっ!兄様、フィリップが来てからお茶の時間楽しそうですっ!!」
本当です!!とぎゅっと手に拳を握ってジルべールの話に便乗するティアラに、フィリップは二度驚かされた。
ちょっと待て、ステイルあいつお気に入りってどれだよ、と。素の自分が思考の中で最初にぼやく。
紅茶の銘柄を聞いても「任せる」の一言を返されてから、きっとステイルに拘りはないのだと思っていた。紅茶派だと知れたのもジルベールから教えてもらったからだ。
自分の気配りが足りないと反省したばかりのフィリップだが、むしろステイルから意図的にそうなるように動かされていた可能性も鑑みる。
子どもの頃はただ大人びて頭の良いというだけのステイルだが、今ではアムレット曰く国一番の天才だ。少しでも自分が〝従者〟としてだけでなく〝フィリップ〟として振舞えるように、ステイルも知らないところで気を遣ってくれていたんだなと思えば、無意識に小さく鼻を啜った。
子どもの頃から紅茶は飲みなれているステイルだが、決まった銘柄を飲むようになったのも単純に専属侍女へ逐一指定するのを省く為だ。
休息時間は自分の好みよりもプライドと同じ紅茶を飲みたいからティアラと共にロッテとマリーの紅茶をご馳走になっているほどに拘りというほどの拘りはない。そして、フィリップが好き勝手に淹れてくれる紅茶はステイルにとって充分楽しみの一つになっていた。
それを、ジルベールもティアラも業務の合間ごとに紅茶を嗜むステイルの様子から早々に察している。
ステイルの話題を投げたことで少なからずフィリップの肩から強張りが抜けていったのを確認したジルベールは、そこでゆるやかに次なる話題へ変えていく。いつまでも目上の相手に構い倒されるのも気疲れすることもジルベールは理解している。
「ラジヤの。……ケルメシアナサーカスは無事早々に見つかったとのことで幸いでした。ちょうど公演の為に滞在していたことも行幸でしたね。流石はプライド様、日ごろの行いの賜物です」
「私もほっとしました。ミスミ王国への経由って、我が国以外にもたくさんラジヤを利用する人がいらっしゃったのですね」
言葉を区切りつつ、良い知らせの方を強調して投げかけるジルベールに、ティアラも大きく頷いた。




