Ⅲ91.侵攻侍女は巡り、
「ッ何やってんだ早くこっちに!!」
ガラガラと音を立てて崩れていく。危ない、走れと周囲が声を上げる中、必死に音の源へと手を伸ばした。
火の固まりが落ちては範囲を広げていくのに、一番炎に近い青年はその場を動かない。虚ろな眼差しで遠く自分へ差し伸ばされた手を見つめている。…………見つめる、だけだ。
早く!とまた叫ぶ。髪質の硬そうな茶髪を振り乱し、必死の形相で叫ぶ彼に青年は答えない。
殆ど力なく握る鞭を手に、今にも炎の下敷きになってしまいそうになりながら棒立つ。彼が自ら残っていることに、同じように逃げ走った彼らも安全圏で立ち止まってからようやく気付く。口々に名を呼び、そして続けて次に炎に近い位置にいる彼を呼ぶ。炎の間近で立ち止まり鞭を持つ青年に、唯一その手を伸ばそうとする仲間を按じた。
茶髪の男性だけじゃない、その傍らにはもう一人少女が寄り添うように並んでいた。自分の手を引いてくれていた彼が走り出そうとしてすぐに足を止めてしまったから、彼女もまた共に気付き振りかえっていた。
足元の女性の死体には目もくれず、自分を優しく取り囲む猛獣達の頭を撫でながら彼らを見送る青年に。
「ラルクッ!!!」
どういうつもりだと。早くこっちに逃げろと何度も何度もアレスが叫ぶ。
火の回りが激しすぎて自分の手にも及ばない。既にボロボロの彼は、火を消すどころか自分の身体も思うように動いてくれない。
主人公も必死に呼びかける中、ラルクはその場から動かない。鞭を鳴らしたその瞬間から、猛獣達もまた彼の意志に従うように恐怖の象徴である筈の炎から逃げようとしなかった。
…………これは、ゲーム終盤の……?そうだ、アレスルートの……。……………………嗚呼。これで、ハッピーエンドルートなんて今も思えない。
ラルクは、動かない。やっとラスボスのもとから自由になれたのに、自分の意志でそこに止まっている。炎の熱気に背中をジリジリと焼かれながら、細くて白い身体を赤くする。痛い筈なのに、熱い筈なのに、まるで何も感じない人形のように佇んだ。
目を見開くアレス達へ、彼から告げられる。静かな声で、誰のものでもない自分として決めた終幕を。
ふざけるな、早くこっちに来いとアレスが声を荒げる中、炎の煽りだけがまた悪化し強まった。
アレスに寄り添う主人公も口を両手で覆い、苦しげな表情で息を飲む。
「そんな、助けてくれたのにっ……」
細い声を溢す彼女は、指先を震わせながら涙を滲ませた。そう、彼女達を助けてくれたのは彼だ。
ラスボスの特殊能力と猛獣で一度は仲間達が手中に収められた。最後に大事な存在であるアレスまで仲間達の手で押さえつけられて、…………アレス達を解放して欲しいならこのままナイフに貫かれろと言われ目を閉じた主人公を助けてくれた。
奇跡的に正気を取り戻した彼が助けてくれなければ、それこそ最悪の悲劇は免れなかった。
そんなラルクが、今は燃えさかるサーカスと終幕を共にしようとしている。
自分が最後まで愛し続けた猛獣達と共に。背後の炎に照らされる彼の静かな笑みも逆光でうっすらとしか見えない。薄紫の髪が風圧で広がり乱れ、そして熱を帯びて頭皮まで焼いていく。
アレスが無理矢理にでも引っ張り込もうと駆け出せば、途端に鞭が鳴らされる。猛獣達が一斉に吠え、アレスを威嚇した。あまりの音圧と響きにアレスも駆けだした足が背後へ仰け反った。
ラルク!とまた必死に喉を張り上げても、彼の心にまでは届かない。
「僕らは償うべきだ」
届くには、遅すぎた。
猛獣達の頭や鼻を順番になで下ろしながら、静かな微笑する彼の瞳は濡れていた。はっきりとした口調に反して、その声は絶望一色だ。
今までたった一つの免罪符を胸に、自分がどれだけのことを犯してきたかを覚えている。炎に煽られ、またガラリと看板が炭になりながら酷い音を立てて落ちていく。仲間達が償う方法は別にあると叫んでも、彼は動じない。その仲間達にも、……もう仲間など呼べないことを犯してきた。嗚呼…………わかる。今の私にも、すごく。
ゲームでは、ただただ切ないだけだったのに、今は胸が刺すように痛い。炎の向こうに行くことも、救いのように思えてしまう。
そして彼には引き留められる存在ももういない。長い年月を掛けた拠り所も失った。ラスボス一人の為に彼は全てを踏み躙ってきた。
だからこそ今も、猛獣達と運命を共にしようとしている。自分が鞭を振るう数に比例して、その牙や爪に傷付け奪われた犠牲者に償う為に。
自分と同じように、自分に操られた猛獣達もまた共に生きてはいけないと思っている。今、自分に差し出してくれる手も見つめるだけでもう伸ばせない。
鞭を握ったその手が、おろしたまま震え続けている中で、こっちに来いと叫ぶアレス達を見つめる彼は今にも炎に包まれそうだった。
「もう、生きられないっ……」
敵になっていた時には聞けなかった、揺れる水面のような危うい声が溢された。
微笑した中性的な顔がゆがみ、女性のように鮮やかに塗りたくられた化粧は剥げ、滲み零れた涙に混じり落ちた。
煌びやかな世界で女王に跪いていた彼が、涙の粒と共にただの青年に戻っていく。もう一つの呪いが解けていくように……ゲームでは見れなかった、あどけない青年の素顔だ。
歯を食い縛ったアレスがもう一度足に力を込めて駆け出そうと前のめりになれば、主人公が止めるより先に背後から仲間が捕まえた。
力尽くで押さえ、アレスだけでも巻き込まれないようにと背後に下げていく。離せ、俺なら平気だと叫び暴れながらとうとう二人がかりで取り押さえられた。
主人公も助けに行こうと走れば、別の仲間に腕を掴まれ止められた。ラルクが我に返るまでずっと猛獣の爪の下にいた背は血に汚れていた。
それでも構わず進もうとする彼女に、アレスを押さえる仲間から残酷な言葉が告げられる。
「終わらせてやれ」と。
ここで彼を引き留めても、そこに本当の意味での救いはないのだと告げられた彼女はアレスの怒号を聞きながらその場に膝から崩れ落ちた。
命をいくつも奪い、傷つけ、数え切れない人生を犠牲にしてきた彼は、どちらにしても罪を償うならば道は一つしかない。
自分の命一つでは購いきれない罪を、せめて今自分の意志で終わらせてあげるしかなかった。
自ら足を止めてしまう主人公に、ラルクは柔らかな眼差しを向ける。頬が炙られ赤く溶かしながら、信じられないくらいに安らかな声を始めて彼女に掛ける。
「アレスを頼む。……君が支えてくれ」
ラルクの言葉に、彼女は静かに頷いた。
目から大粒の涙を溢しながら険しい表情で、本当の彼へと応じる。今までは敵としてしか話したことのなかった彼の、アレスを自分も助けてくれた命の恩人の願いを叶えると決意する。
もうここに辿り着くまでに、彼女の決意も心もアレスにあるのだから。
強い眼差しで頷いてくれる彼女に、ラルクも頬を緩ませた。化粧で染まった涙を伝わせながら、そこで鞭をまた鳴らす。パシンと、その音と同時に猛獣達が一斉に踵を返した。
炎の海へと身体を向け、ラルクもまた最後にたった一人だけに笑んでから同じように背を向けた。
まるでそこが終着駅のように、ゆっくりとした足取りで炎の中心へと進んでいく。
やめろ、行くな、どけ、火を消すんだ、俺が、と。何度も何度もアレスが声を荒げ暴れる中で、ラルクと猛獣達が炎に少しずつ迎えられていく。足下が見えなくなり、影しか見えなくなり、…………炎に全てが覆い隠された時。とうとう最後の瓦礫が大きく崩れだした。
最期のラルクの言葉が小さく聞こえた気がした瞬間に、アレスの喉を裂く叫びが続けて張り上がる。
「会えて良かった」
「ッいやだ!!!!!!」
ガラガラと、叫びを打ち消すように炎を纏った瓦礫が雪崩落ちていった。
仲間に引き止められたままもう足にも力が入らないアレスが、炎へ向けて慟哭する。仲間からの拘束が解けてももう膝をついたまま動けない。大口を開けた隙間へと涙が伝い流れていた。
膝をつき、ただ嘆きを音で叫ぶことしかできないアレスに主人公が手を伸ばす。ボロボロのアレスと同じように、もう立つことすらできない彼女は地面に手と膝で四つ足になりながら必死にその手を届かせた。
嘆き地面を叩き背中を小さくさせるアレスへと、力を振り絞る。
指先が掠れ、次に触れ、そして手の平まで彼の肩に届いた。「アレス」と目の前で誰よりも苦しみ傷付き苦しんできたであろう彼を呼ぶ。土に汚れ、小石に削られ、草木に切られた身体で倒れ込むように彼を抱き締めた。
唯一の救いである彼女の腕に、アレスも爪を立てるように強く抱き締め返す。
「あああああああああああああああっ!!」と言葉にもできない嘆きが、燃え盛るテントに響き続けた。
…………。
………
……場面が、…………変わった。
「…………いや、良いんだ」
さっきまでの赤と黒の景色じゃない、青々とした柔らかな草原だ。
まるで別世界のように暖かで静かな場所で、アレスが主人公と並んで腰を下ろしている。……そうだ。全てが解決して、サーカス団も再構築が決まった後だ。
他のルートでは何事も無かったように振る舞っていたアレスが、このルートだけは自分の内心を主人公にだけ打ち明ける。
あの時に自分なら助けられたかもしれないのに動けなかったと、正直に罪悪感を吐露した彼女にアレスも穏やかな笑みだった。曲げた片膝に手を掛けながら、遠い草原の向こうへ想いを馳せる。
むしろあの炎に自分はだけならともかく、愛した彼女まで巻き込まれることがなくて良かった。あの時止めようとしたのは自分のエゴで、きっとあれが唯一の救いだったんだと吐露をする。
「あの時、ほんの一瞬でもあいつは本当の意味で自由になれたんだ」
それでもう、充分だと。哀しげな眼差しで、それでも毒気を落ちたように力の抜けた笑みは彼女の為にではなく、彼の本心だ。
優しく風がそよぐ中、そっと膝に掛けていないようの手が彼女の肩へと伸ばされる。今にも触れそうなほど近い彼女をそのまま自身へと引き寄せる。今はただ喪失感よりも、ずっと自分を支えてくれた彼女への想いが強いのだろう。
長い暗闇の中で、唯一そこから飛び出すきっかけを与えてくれた彼女に。敵である筈のラルクを助けたいと、その望みに誰よりも真摯に向き合ってくれた彼女に。肩に触れた手で、そのまま髪を撫で顔をそっと近付けた。
「お前のお陰だ。ティペット」
逞しい両腕で細い彼女をそっと抱き締め、優しく唇が重ねられた。とても幸せそうで、優しくて、…………それでもやっぱり、哀しい。
……駄目。
こんな終わり方認めない。
お願い、引き留めて。ラルクだって、アレスだって誰もこんな最期が欲しいわけじゃない。
絶対に止めないと。彼が、引き返せない場所へ行く前に。今度こそ、今回こそ、…………現実でこそ、どうかラルクもアレスもティペ──
…………
……
「で、あっちは楽器。覗くのは良いけど絶対触るなよ。壊したら新品で弁償させるぞ」
次々と荷車や各テントを案内されながら、やっと終わりが見えて来たところでプライドはふらりと一瞬揺らいだ足元をすぐに立て直し、遠い目から瞬きを繰り返した。
大所帯になっている大テントから、裏の各テントや荷車も案内された中で下働きや演目持ちの演者まで紹介と挨拶も繰り返し、サーカス団内での役職や立場の違いも理解した。
演者であるアレスと対等もしくはそれ以上の目線で話す演目持ちだけがサーカスの柱ではないとプライドは静かに理解する。ぼんやりと頭が呆けた感覚に、まだ片手で押さえた。さっきまでアレスの説明を聞いていただけなのに、何故か急に苦しくなるような違和感に遅れて胸を押さえる。一度に覚えることが多過ぎて疲れてしまったのだろうかと考える。
サーカス団員の栄養管理も食事と共にこなす料理担当や病気や過労に精神的ストレス睡眠不足などの処方や何より事故での怪我を治療する担当医。なるべく大きくそして人目につくように宣伝用の張り紙や演目によって背景を作る美術担当、客への期待感を増幅させる演出の楽器を演奏する演奏担当や照明担当。
プライドの前世のように機械一つで全て解決しないこの世界では、全てに専門職がいてやっと客に金を貰って見せる舞台が完成する。
そしてそれ以外の団員の衣装洗濯や掃除、買い出しに器材修理そして宣伝回り等雑務全般を受け持つのが下働きの仕事だ。状況に応じて専門職の補助にも回る彼らは最も責任は軽く、そして仕事は多く忙しい。
流石大規模サーカス団、と。プライドは何度も思いながらも紹介される団員に注視したが、今のところ新たな発見には気付けない。
アレスに指で示された荷車へ目を向けながら、ついさっき紹介された音響担当の演奏家を思い出す。最近は習慣程度にしか演奏練習をしていなかったという彼らは、今日必死に互いの足並みを確認するように音合わせを行っていた。
演奏家だというのに練習を欠かしたのかしらとプライドも一度は首を捻ったが、少なくとも彼らが使っていた楽器が古いながらもしっかりと手入れが行き届いていたのを見れば、楽器への愛着自体はしっかりあったのだろうと考える。
「……いかがですか。他に目ぼしい団員は引っ掛かりましたか」
「いいえ。……ごめんなさい、今のところ誰も……」
アレスの背後で足並みを合わせ並ぶステイルからの潜ませた声に、プライドは首を横に振る。