焦がれ、
「……ジャンヌ様は、とても大勢の方に想われておられていますから。祝勝会のダンスパーティーでなんて、本当に参加者全員が目を奪われてしまいました」
本音を言えばその前である彼女を奪還する為の戦を語りたかったが、彼女自身の傷もある当時をこんな時間に思い起こさせたくはなかった。
彼女に目を奪われ、彼女の無事を誰もが祝ったあのパーティーは何よりも彼女が想われている事実そのものだ。
エリックの告げたパーティーがどの祝勝会かはすぐ理解したプライドだが、返事はすぐには出なかった。プライドの沈黙に、彼女が眠ってくれたかそれとも自分に何か失言があったかと身じろぎ一つせず扉一枚先の気配をエリックは辿る。…………その時。
「!失礼致しますローランドが」
廊下から階段を昇ってくる気配を直接感じ、片膝から立ち上がった。
同じ騎士として姿勢を正すエリックはプライドに返事を受ける前に断りをいれ見張りの体勢に一度戻った。エリックとハリソンに気付いたローランドが一礼し、状況確認の為に歩み寄る。ただいま戻りました、ご報告はどちらにと、尋ねるローランドにアネモネ騎士が守る部屋を示し伝える。
エリックに感謝を告げ、速やかに隣部屋のノックを鳴らせばそこからはまたあっという間にアーサーの叫び声が続いた。
また大声を、と。エリックも苦笑いしながら隣部屋を見つめれば、プライドがまた隣部屋に行きたがるのではないかと考える。流石のアーサーも同室の中で誰かが寝ているのに大声を出してしまうほど無神経とは思えない。つまりは全員まだ起きていたという結論に達するのが当然だ。
唇を結び、プライドからの提案がないように願いながら成り行きを見守れば、ローランドと交代したアーサーが部屋から出てくるまで間違いなくプライドは無言のままだった。
休息部屋になった部屋へと向かう前に自分達へしっかり挨拶を行う彼へ自分からも返し、妙に覚束ない足取りの彼が部屋の向こうに消えるまで見送った。
殆ど音もなく静かに閉じられた扉を確認し、エリックは改めて自分が背中を向ける扉へ振り返る。少しの間の中で一言も発さなかったプライドはもう寝ているだろうかと半ば本気で思う。
しかしこのまま放っておくわけにもいかず、再び向き合い片膝をついた。彼女を起こしてしまうようなノックではなく、同じように囁き声で呼びかける。
「……アーサーが、いま仮眠に行きました。お呼びしましょうか?」
「!いえ、大丈夫です。アーサーも疲れているでしょうし」
思ったよりもすぐに返事がきたことに、エリックは静かに肩が跳ねた。
半ば寝ているかどうかの確認だったが、しっかり起きていた。アーサーが疲れている、ということはそれを気遣って敢えて彼女も沈黙を今回は貫いたのだろうかと考える。
プライドならこのままアーサーも交えて話したいと言ってもおかしくないとも思ったが、エリックの予想は大きく外れた。
そろそろ寝る頃かと鑑みながら「承知しました」とだけ告げるエリックに、彼女はクスクスと軽やかな笑い声を零し出す。
何故ここで笑い声を!?とエリックも大きく瞬きをして唇を結んだが、彼女からは笑い声以外は何もなかった。さっきまでは我慢していたかのように数秒で終わらない笑い声に、いっそプライドは扉の向こうで酒でも飲んでるのではなかとまで考え出す。彼女が酔った姿はまだ見たことがないエリックだが、寝惚けていなければそれしか考えられない。今の自分のやりとりに彼女が笑う点はどこにもない。
「………ど、どうかなさいましたか……?」
「ふふっ……ごめんなさい。なんかずっと、……エリック副隊長に言って貰えた言葉を思い返してて」
微睡んだ声はまるで夜そのもののようだと、姿も見えない彼女にエリックは思う。
まるで蜂蜜種のような甘い声がたった数分間の沈黙の間に熟成されていた。まだ何も恥ずかしいことを言われていない筈なのに、その言葉だけでエリックは自分の熱が上がっていく。蒸気しそうな頭で必死に、さっきの会話が何だったかと思いだす。
しかしプライドのまったりとした声に思考が難しい。どうして声だけで、こんなに心臓を危うくさせることができるのかとエリックは熱し過ぎる額を押さえながら嘆く。
いっそ話自体は聞いていただろうハリソンに恥を忍んで尋ねそうかと俯いた視線を上げようと思えば、先にプライドから答えが紡がれた。
「私、人に想ってもらえているって気付けるようになったのも本当に恥ずかしいくらい最近なんです。自分にそういう自信が持てるようになったのなんて、そのもっと後で。……なのに駄目ね。また〝こんな〟とか言っちゃった」
ふふふふっ、とまた笑う。くすぐるようなその声は、本当に耳元でささやかれるようなこそばゆさだった。
あまりのくすぐったさにエリックは耳を押さえたくなったが、それでは彼女の声が拾えないと理性でギリギリ拳を握り止める。何よりこんな愛らしい彼女の声を自分が聞ける機会など滅多にない。
絶対寝惚けていると、そう確信しながらエリックは緩んでしまいそうな顔に力を込めた。これで声だけでなく寝惚けた彼女が目の前にいたら、自分はこれほど冷静でいられなかった気さえする。
駄目ね、と言いながら笑い声を零す彼女はこの上なく幸せそうで、そして楽しそうだった。
トン、と軽く扉の内側から小さな振動がエリックに伝わった。プライドが頭を置き直したのだろうかと考え反射的に顔を上げる。ちょうど彼女の笑い声も収まった。
「ありがとうございます、エリック副隊長。……本当にみんな、すごく私を想ってくれて……幸せね」
とろけた彼女の声が耳奥から脳まで溶かしていくようだった。
ただお礼を言われただけなのに、それ以上の破壊力をエリックは全身に感じ取る。気付けば上げた顔がまた床へと下がり、片膝をついたまま深々と今度は意思をもって頭を下げた。まだ自分は大したことをやっていない筈なのに、まるで最大の誉れを受けたようだった。
彼女が扉の向こうで微笑んでいるのだろうと、微睡む彼女と重なり想えば想像だけで胸が苦しいほど締められた。苦痛ではなく、愛おしい。
「だから、私。…………きっと全部あげられちゃう気がするんです。こんな風に想い続けてくれた人達になら」
今度は息の音にもならなかった。
目だけを限界にまで見開いたまま、エリックは彼女の言おうとしている言葉の裏まで汲み取ってしまう。今の彼女の言葉が、どこの、どの話題に繋がっているか。それこそ、近衛とはいえ一介の騎士である自分が聞いてはいけない奥底なのは間違いないと理解する。
ぽやぽやと雲がかった月の光のように柔らかな声で語り続ける彼女には躊躇いがない。半分夢のような語り口で、そして幸せそうな声のまま。まるでこのまま天寿を全うしそうな穏やかさだった。
しかしこの上なく気持ちよさそうに語る彼女の語りは、止めてはいけないと想わせるほどに満ち足りていた。
「それくらい、もうこれ以上ないくらいみんなが大切で、大好き過ぎて。…………愛しくて。エリック副隊長にもハリソン副隊長にも勿論そうで。嗚呼レオンもこんな気持ちだったのかなぁ、って…………」
春にそよぐ風のように、降りそそぐ空の光のように温かく心地良く柔らかい。
その声で、今自分はとんでもない発言を聞いてしまったとエリックは顎に力を込める。片膝をついたまま、石像のように動けなくなった。拳をそれぞれぎゅっと握ったまま、バクつく心臓を押さえる為に動かす余裕すらない。沸騰し顔が熱過ぎてこのまま脳がおかしくなるかもしれない、自分がいまどんな表情をしてしまっているかを考えれば死んでしまうと本気で思う。
よりによってこの話の流れで当然のように自分の名前まで具体的にあげてくれてしまう彼女に、扉越しでも本気で顔が上げられない。
まるで自分の気持ちがあっさりバレてしまっているのかのような物言いに、必死に否定材料を頭が探す。違う、プライド様はそういう考えの御方ではない、そういう意図はないと自分の頭に言い聞かす。少しでも舌に意識を外すと「ご自身を大切にしてください!」と叫びたくなる。
隣に佇むハリソンが何故まだ二本脚で立てているのかがわからない。
そんなエリックの瀕死も知らずプライドは黙して聞いてくれるエリックに感謝しながら言葉を瞑ぐ。
「これを〝恋〟と呼べるものにできる気もするし、…………もう一生できない気もします。だって、これ以上の〝好き〟なんてもう無いと思うから」
行きどまりみたいに。そう一人言のように呟いた彼女がト、ト、と扉に音を立てる。
拳よりも軽く、ただ扉を押す程度の音に彼女が扉に手をペタペタと当てているのだと理解する。今彼女が扉越しにこちらを向いて、板一枚先で手を当てているのかと思えばこれは何か自分の理性を試す為の試練だろうかと思考が逃げる。自分が騎士で相手が王女じゃなかったら、ここで何もかも忘れて扉を開けてしまいたくなると心で叫ぶ。
彼女の語りがそれほどまでに物悲しく、そして愛しくなって堪らない。胸が張り裂けるとはこういう感覚かと思い知る。
庶民の自分にはできずとも、誰かこの彼女の壁を粉塵になるまで壊して欲しいと切に願う。
「もともとは政略婚の筈でしたし、……今はちゃんと選ばせて貰えた私は本当に恵まれたわ」
カラム隊長……!!!!!!!!!と、エリックは思考を誤魔化し八つ当たり半分に頭の中で叫ぶ。自分が唯一知る、彼女の婚約者候補だ。
今まで騎士団全体の一人として温かく見守り応援する気持ちだったエリックだが、今の今だけは初めてカラムに対して「本気でお願いします!」と叫びたくなる。残る二人が何者か知らない今、もうカラムに託すしかない。それくらいのことを考えないと、今この自分の理性がもたない。
もともと政略婚で王族の政治の為に婚約者も決められる予定だった彼女が、未だにその相手を持て余しているのだと確信する。
実の妹であるティアラは間違いなく恋愛の甘酸っぱさをこれ以上なく味わっているというのに、姉である彼女は本気で諦めている。むしろ悟っているような発言だ。
「だからね」とずっと変わらない彼女の声を聞きながらエリックは頭に熱が回ってふらついた。片膝から両膝をだらしなくついてしまいそうになる。立てていた膝を少し前のめりに扉に当て、物理的に両膝つかないようにと防御する。流石にそんなだらしない体勢を護衛中に許されない。しかし、その程度の抵抗など無に等しい。
「一生で一回だけでも、そう思える恋に……憧れます。たとえ、私一人だけのものでも良いの」
恋に、憧れる。羨ましい。
たった一人の婚姻相手が決まった時、その人と今までのどれとも違う未知の〝好き〟を育めたら。
叶わなくても良い。婚姻する相手がもし自分にそういう感情を求めず、ただ形式上の伴侶としての自分を求めても自分の想いが通じなくても本当の意味で心が結ばれるような運命でなくても、……それでも自分自身が特別な好きだと思えたら。
そのどちらもきっと、彼女にとっては羨ましくそして憧れなのだろうとエリックは静かに理解する。……もう、半分諦めてもいることも。
少なくともカラムならば彼女をそんな独りにしないとエリックは理解するが、しかし残り二人は正体もわからない。そして相手が誰であろうとも、選んだその一人が必ずしも彼女が焦がれるような感情を与えられるかはわからない。
そして、自分は彼女のその憧れを叶える手助けがなにもできない事実に、エリックの頭は少しだけ風通しが良く涼まった。王族として結婚を必要手続きと認識する大人の彼女と、恋に焦がれる少女の彼女が同時に混在しそこにいる。
気付けば、今まで黙し続けていたエリックの口がゆっくりと開いて行った。
「……………叶わない恋にすら、憧れるのですね」
「ふふっ……こんなこと言って、実際は辛くて後悔して泣いちゃうかもしれませんけど」
諦めのついている彼女は、今更そんなことで惑わない。
本来ならば恋は叶えたいと、成就すること前提で憧れる筈の恋を、彼女は破れた時の胸の痛みを引き換えにしても良いほど焦がれている。
自分で尋ねておきながら、エリックは彼女のその言葉に胸が熱くなった。ぎゅっと俯いたままに瞼をきつく閉じればうっすらとだけ目尻が濡れた。どこまでも軽やかに穏やかに語る彼女は、きっと悲観しているわけではない。ただ、両目を開けて夢を見ているだけだと知る。
エリックがちゃんと聞いてくれていたことが嬉しく、プライドは笑いをまた零す。その音を聞きながら、エリックは音にならないように静かに深く息を吸い上げ、吐き出した。肩が上下するほどに呼吸を回し、扉一枚向こうの彼女へ笑いかけた。
「それほど悪いものでもありませんよ」
「そうかしら。………ううん。エリック副隊長が仰るのなら、きっとそうなのでしょうね」
「はい、きっと」
彼女に釣られるように、同じ穏やかな小波のような声でエリックも返す。その言葉に躊躇いはなかった。
はは………と、自分も肩の力が抜けた笑い声が漏れた。彼女のくすぐるような声に、きっと笑ってくれていることの方を今は考える。潜めた声だけを頭に置いて、彼女のこの明るさが眠りに落ちるまで続けば良いと望んだ。
既に隣の部屋からは先ほどまでの盛り上がりも感じない。
部屋の灯りも消され、話し声も本当に耳を澄ませて微かにじゃないと聞こえない程度だ。結果として彼女との夜を自分一人が堪能してしまっていることが贅沢にすらエリックには思えた。
小波のような穏やかさが、そのまま引き潮へと姿を変える。彼女の愛する人が、選んだ人がどうか彼女を泣かせない人であってほしいと強く願う。……願うことしか自分にはできないのだと思い知る。
彼女に恋を覚えさせることができる人数は限られている。
「いっそ私もオリウィエルの特殊能力にかかることができたら良かったかしら……?恋をしたことがあるかも、それに本気の恋も知れるでしょう?」
「それは、ちょっと……。ジャンヌさんの身も心も我々はお守りしたいので……」
苦笑気味に肩を竦め、眉を垂らす。
悪戯っぽく話すプライドは、先ほどの微睡み感は薄れたが同時に物悲しさも消えていた。自分でも浅はかな軽口だと自覚するプライドも「そうね」と笑って返した。
楽しくなって、今度は自分が隣に笑い声が聞こえないように口を両手で覆う。それでも、ふふっと音が漏れた。
いつもの明るい、冗談めいた言葉も話すプライドの笑い声にエリックも微笑む。そろそろ眠って頂こうかと、勇気を出して話の切り上げを自分が決めてみる。
「……自分は、ジャンヌさんの初恋は是非本物を味わって頂きたいです」
「!そっ……そうです、ね……」
さっきまでのなだらかさから打って変わり、プライドの声が詰まったのをエリックは聞き逃さなかった。




