Ⅲ84.越境侍女は吐露し、
「羨ましいです。……私は、まだ憧れるばかりでしたから」
…………それ、俺が聞いていいやつなのか……?!
プライドの呟きを確かに拾いながら、エリックは熱い頬に静かに冷たい汗を流した。
彼女がステイル達の泊まる部屋への入室を断られてから気落ちしているのは火を見るより明らかだった。自分も彼女の格好が気に掛かり止めに入ったこともあり、肩を落として「おやすみなさい……」と力の入らない笑みで扉の向こうへ戻った彼女が気に掛かったのも事実だ。
しかもその後にも扉に寄りかかる音や気配も拾えば余計気に掛からないわけがない。
彼女が宿泊先ではなかなか寝付けないこともあると、今までの経験でエリックも知っている。だからこそ彼女の気を紛わそうと話しかけ、こんな自分でも少しでも彼女の気を晴らす為にも話し相手に慣れればと思った。
本来ならばアーサーや、もしくは婚約者候補なのだろうカラムに任せられればプライドにとっても良かったと思うが今この場にいるのは自分とハリソンだけだ。
ハリソンにそういった気遣いが期待できない今、実行できのは自分だけである。
『そういえば、先ほど頂いたご確認、なの、ですがっ……』
その為なら、彼女の気を紛わすことができるならこの上なく恥ずかしくても避けたい話題も持ち込む。
もともと彼女から投げかけられた時アーサーの声で一度はうやむやになったが、王女である彼女の問いにきちんと答えられなかったこと自体は引っ掛かってもいた。
プライドがいくら忘れても、自分が覚えている限りその質問を保留したままなかったことにはできない。たとえ、全員の打ち合わせ時に一度は確認したことであろうとも。
しかしそこから褒め殺しを受け、既にエリックの心臓は危うかった。バクバクバクバクッ!!と扉越しでも聞こえてしまうんじゃないかという音に、片膝をついた体勢のまま胸を鷲掴み、押さえる。衝撃のあまり額を俯けようとした拍子に真正面の扉にぶつけてしまい、今も額が一番赤い。
扉の真横に控えているハリソンは凛然と起立したまま発言しない。
我関せずの彼を頼ることはできずとも、自分の動揺に触れず目もくれず平然といてくれるのはエリックには救いだった。今もいつ「護衛中に話しかけるな」と斬りかかられるかと考えるだけで頭が冷える。
しかし、それでも少しだけハリソンに無意識に目配せしてしまう。今だけはなにか彼の反応が欲しい。しかしハリソンは常時変わらずこっちを見るどころかプライドの爆弾発言にも興味なさそうに平然としている。
目の置き場もなければ、ここで話を中断するわけにもいかずエリックは一度口の中を飲み込んでからいつもの十倍発言に注意し、口を動かした。
「…………ぁ、憧れる……ですか」
先ずは、彼女の言葉を反復し確かめる。
その言葉だけでエリックはこちょこちょと身体の節々が擽られるような感覚を覚えた。最初に彼女からその発言を聞いた直後は思わず「へっ」と音が喉の手前まで出た。幸いにも扉越しのプライドには聞こえない音だったが、心臓は倍量の音を耳の奥で立てた。
このままこのタイミングで彼女が「いえなんでも」と言ってくれれば良い。そう願うようにの繰り返しだったが、扉一枚向こうの彼女から聞こえたのは「ふふっ」と少し照れたような零れ声だった。
もしかして寝惚けているのだろうかと、エリックはその可愛らしい音を聞きながら思う。エリックの焦燥も知らず、彼の柔らかな聞き返しをそのまま受け取ったプライドは穏やかな声を彼へと返す。
「私はなんというか……〝昔から〟あんまりわからなくて。それに子どもの頃から鈍いというか無神経というか、……貰えた温かさに気付けないことばかりで」
無神経、という言葉にエリックは無言で首を捻る。彼女の謙遜も勿論踏まえたが、それでもしっくりこない。
だが、彼女が幼い頃は当時の悪評の通りの振舞が多い姫だったとステイルから聞いたことを思い出せば少しは納得できた。
彼女にとっても、きっと当時は幼いながらに気付けないことが多い少女だったのだろうと考える。城の人間にいくら囲まれようとも、王居での暮らしは自分が知る前以上に広く、……そして狭い世界だ。
庶民出身のエリックが近所の少女達を思い返せば、馬車もない自由に使える金もない家の手伝いをしないといけない彼女達の方がきっとどこにでも行けるくらい自由で広がっていると思う。約束された安全と引き換えに得た自由だ。
そこまで考えたところで、エリックは彼女の言う〝羨ましい〟も〝憧れる〟もそういった自由に恋も人との関わりも制限されていない生活のことかと思う。てっきり……と、自分で恥ずかしいことを先走って思考してしまったことにエリックは一人苦笑いしながら、額に当てた拳を扉へそのまま前のめりに押し付け
「このまま〝恋〟とか、そういうのを知らずに終わっちゃうんだろうとずっと思ってたから」
メキ……。
エリックは前のめりになったまま当てた拳がそのまま扉に悲鳴を上げさせた。むしろ最小限の音で収めた自分を褒めたくなる。
〝恋〟と、相手がプライドでなくても直撃で異性に言語化されたら恥ずかしい言葉を向けられたエリックは、ぐぐっと奥歯を食い縛って堪えた。やっぱりそっちか!!と、心で叫ぶ。
つい今そうではなかったのだと安心しようとした心臓が大きく内側から身体を鳴らす。
拳の痕がくっきり額に残るほど強く減り込ませながらそれでも足りない。何故プライドがこんな話を自分にしているのだろうと我に返れば、うっかり相手を間違えているのではないかと疑いたくなる。しかし最初から今まで話し相手になっているのは自分だけである。
まだ十代の王女が、あまりにも枯れた発言をするものだと思いながらもどこか妙に納得もしてしまう。
「レ…リオとの三日間はどきどきして心臓が危なくて顔中熱くなったけど、…………最初からそうじゃないって知っていたし」
どこまでも穏やかな声を聞きながら、今度はエリックも少し顔を顰めてしまう。当時十六で結ばれる筈だった婚約者の本心を誰よりも先に知っていた彼女の想いを考えれば高鳴っていた胸が、今は痛む。
彼女がいつから予知をしていたのか明確な時間までは知らないエリックだが、しかし今思い返しても彼女はよくあそこまで平然としていれたものだと思う。自分の婚約者を早々に手放さなければならない。しかも、相手はあのレオンだ。
今ではプライドと同様に数多の王侯貴族の憧れである彼と、結ばれるべきではないと判断した彼女の器量は計り知れないと考える。
叶わないとはわかっていても、それでも彼女がレオンに当初の三日間それだけの胸の熱さを感じたのならばそれは初恋と呼べるのじゃないかと。まるで慰めの言葉のようにエリックは考え、すぐに打ち消した。
今では盟友としてこれ以上なく上手くやれている二人に、ここで自分の推測など余計でしかない。それに、あのレオン相手に今でもプライドや他の王女令嬢が顔を火照らせているのを見ている。あんな完璧な王子に齢十六の王女が婚約者として接せられればむしろ緊張するのは当然だ。百人中百人の女性が全員そうなってもおかしくないと冷静に考える。
婚約者を選ばれる立場として生まれ、育ち、そして始まる前に彼女の中では終わってしまった。そのまま三年の月日が経つ彼女は、完全に恋愛をする機会を失ったままなのだろうかと。扉の先は見えない筈なのに、エリックには彼女が両膝を抱えて俯いている姿が頭に浮かんだ。
「だから嬉しかったなぁ……。最後に、私なんかを愛してくれたって知れた時は」
「……〝なんか〟などでは、ないと思います」
はっ、と。
直後には思わず口走った口をエリックは慌てて片手で押さえた。ぼっと顔が熱くなるのを感じながら、自分で自分に栗色の目を白黒させる。
言葉口調こそいつもの柔らかいまま言っていたが、それでもうっかり本音が出てしまった。自分が誰かに愛されるのはもうないと言わんばかりの完結した物言いに、つい否定が入ってしまった。慰めようとしたわけではない、ただただ純粋に彼女の思考がそこで終わってしまって欲しくないと思ってしまった。
自分が言葉を返してしまったことで、一度彼女の綴りが止まってしまった。
心臓が収縮を続ける感覚に汗があふれ出すのを感じながら、エリックは瞬きも忘れて干上がった喉で続きを探す。扉一枚先に、動揺は悟られたくないとあくまでいつもの態度と口調でと留意して。
「……ジャンヌ様は、とても大勢の方に想われておられていますから。祝勝会のダンスパーティーでなんて、本当に参加者全員が目を奪われてしまいました」
ははは……と空元気に笑って誤魔化しながら、奪還戦後のパーティーをほのめかす。