そして時が来る。
「団長。もう良いだろ、いい加減寝かせてくれよ……今日は俺も疲れてんだから」
「そうだな、だが最後にこれだけはなんとかしてくれ。ここひと月も開演しなかった以上やはり新人達の興行が最大の機会なんだ。伝説になるかもしれない。衣裳は無理でもせめてチラシや宣伝興行を派手に……」
「もう眠ぃんだって!寝るぞ!もう!!」
ふっ!!と、次の瞬間問答無用でランプへ息を吹きかける。
アレスによる全力の風圧にランプの中の蝋燭は一瞬で火をかき消した。その途端「うわっアレス!待ってくれ!なんてことを!!」と大げさな声で嘆く団長は蝋燭の煙へ無意味に手を伸ばし、項垂れる。深夜遅くなり、いくつものテントの中でも灯りを付けていたのは自分達が最後だった。消された後は月明りも入らない布の個室は真っ暗で手元の紙の文字も読めなくなる。
ひと月ぶりにサーカス団への帰還を遂げた団長と、そして奴隷商の手から救出されたばかりのアレスだが、その後も団員達の質問攻めに遭い続けた。その後なんとか団員に就寝を理由に振り切っても、アレスは団長に付き合わされ未だに眠れない。
特殊能力で治してくれた騎士が今日一日は動かないだけでなくしっかり就寝をとって休むようにと言っていた気がするのに、と思い返すが既にテントに着いてからも団長を探して駆け回った自分には今更かと思い直す。
やっと帰ってきてくれた団長の我儘も聞いてやりたい気持ちもあれば、サーカス団の再建にも近いほど一気に稼ごうという団長の案に賛成の部分もあるから付き合ったが、流石にもうアレス自身疲労と安堵で眠気が最高潮まできていた。
眠気を通り越して吐き気に近い感覚と眩暈に、強制的に寝るしかできない状況を作る。明かりを消し、簡易ベッドの上で足を組んでいた団長へ枕と毛布を投げつけた。
もともとの簡易ベッドが一台しかないアレスの部屋では、団長が来たところでベッドは譲り自分が雑魚寝である。
強硬手段に出られた団長も仕方なくそこで諦めもついた。肩を落としつつ、渡された毛布を背中から被り転がる。しかし、アレスと異なり団長は興奮とやる気に満ちていた。
「明日は忙しいぞ~!アレス、お前もちゃんと演目の段取りは覚えているか?お前の芸は一度見たら誰も忘れられないからな!あと衣装もちゃんと確認しておけ。また当日になって破けていたなんてことになったら大変」
「うっせーよ!!!!もう!!寝るんだよ俺は!!!寝ろ!!」
ギャン!!とイラつきを隠せず大声で怒鳴れば、次の瞬間には布を隔てた各方面から「アレスうるせぇぞ!!」と苦情が放たれた。結局深夜に一番煩くしてしまったのは自分だと奥歯を噛み締める。
団長もそれにはハハハと笑ったまま、今度こそ「おやすみ」の一言の後に口も目も閉じた。
アレスも舌打ち後に毛布を頭まで被り丸くなる。団長と違い、アレスの方は本当に寝付くのもあっという間だった。開演日よりも濃度が濃かった一日に、溜息代わりに大きく息を吸い上げ、……吐き出した時にはすぐに意識が薄れ沈んでいった。
静かな寝息から次第に、かー……かー……と喉の空いたような音が漏れるのを聞きながら、団長クリストファーはアレスに譲られたベッドの上で眠れない目のまま静かに天井を見つめた。
アレスが眠ってしまった以上、頭だけでも動かし回す。明日からのサーカス団と開演の宣伝そして、ラルク達をどうすべきかについて考えるべきことは多い。
……ラルクは、結局変わってはいなかったな。
ひと月も空けたというのに、全く。と。
自分がテントに背中を向けた時から反省どころか、何も動いてすらいなかった。自分がいなくても全てが順調に回るというのも物悲しいとは思うが、クリストファーにとってはこちらの方がずっと落胆である。
自分のありがたみをわかるとは言わずとも、せめてこのままでは自分もサーカス団もそしてオリウィエルも駄目なのだとわかって欲しかった。
昔はもっと頭の良い、冷静な判断のできる子だったのにと思うがそれも今では遠い昔のように思える。〝あの日〟アレスを見つけてから、ラルクが自分を見つめ直すきっかけになるかとも考えたが、ラルクの意中はオリウィエルのままだ。
少なからずアレスを気に掛ける片鱗は見せるが、昔の彼ほどではない。女は男を変えるものだと、そう自嘲めいたことを思えばつい口元が笑ってしま
「団長」
「…………?」
ぽつり、と。最初は小さすぎるその声が空耳かと思い、目は向けなかった。
サーカス団のテントは巨大だが、今いるのは団員テントの中でも個室にあたる幹部テントだ。一人分の大きさで壁となる物体は薄く、声も通りやすい。きっと他の誰かが自分の噂でもしているのだろうと思い直し、団長は目を閉じる。
しかし、その声はまた数秒間を置いてからまた紡がれた。隣で眠るアレスの寝息とは違う、青年の声で。
「団長。……クリストファー団長。…………………………………………とうさん」
最後の言葉にとうとう目を開け、身を起こす。
暗闇の中で声のする方に顔を向ければ、テント内へとつながる方向ではなく外からの声だった。青年としてもか細い部類に入る声を聞きながら、それが誰なのかを確信を持って団長は目を凝らす。真っ暗な先には何も見えはしないが、自分の起き上がった布の擦れる音に気付いた声が「こっちに」と呼びかけた。
なにか話をする気になったのかと、声の主へと団長は寝巻き姿のまま会うことを決める。
疲れて熟睡しているアレスを起こさないように慎重に毛布から抜け出し、部屋を出る。ほとんど灯りのついていないテントの中をランプも持たず、長年過ごしてきた感覚だけを頼りに歩き進む。団員の誰一人起こさないように、気付かれないように細心の注意を払い自分の庭を進んだ。
とうとう外へと通じる布をめくり出たところで、その声の主はすぐに表れた。団長が部屋を出たと判断した時点ですぐに見つけるべく回り込んでいた彼は、色素の薄い髪を風に揺らしながら団長を見据える。
自分をこんな深夜に外へと呼びつけた青年に、団長はいつもの笑顔で月の光の下にいる彼を呼びかけた。
「ラルク。どうした、こんなところに呼びつけて。やはり私に話したいことがあったか?」
「団長。……………………警告は、した」
パシン、と。
彼が右手を地面に振れば、耳に痛い音が鳴り響く。
聞きなれたその音よりも、団長はほぼ同時に聞こえてきた別の音に思わず息を飲んだ。まさか、と過りながらも身構え、振り返る。自分を待ち構えていたのがラルク一人だけではなかったのだと今知る。
パシン、パシッと続けて鳴らされるその音の意味を、団長もまた知っている。
そんな、まさかと声を上げるよりも喉が干上がり、振り返った先に目を見張る。逃げることなど不可能だと頭も理解していれば、そんな動作をする余裕も与えないほど迫ってくる影は速い。危険を教えるように心臓だけがドクンドクンと耳の奥まで低く鳴り響く中で、「やめてくれ」と叫ぶ間は残されなかった。凄まじい速さで自分へと一直線に迫ってくるその存在が飛び掛かってくればもう、ぐわりと。涎と共に大きく開かれたその口で残す動作はただ一つ。
─ ガキィンッ。
「ッカラム!!」
「わかっている」
外した標的に、牙と顎だけが合わさり音を立てる。四本足で着地したその生物はグルルルッと唸り声と共に標的を目で追った。
自分が齧り付こうとした標的が、ほんの一瞬で視界から大きく外れた場所にいる。横から飛び込んできた男に腹から掴み、突き飛ばされるようにして真横に運ばれた。そのまま男が壁になり今はもうすぐには噛み付ける位置ではない。
すぐに飛び掛かり直そうと、しなやかな身体と鍛え抜かれた四肢で方向転換しようとしたところで、動きが止まる。
ぐぐぐぐっと、頭を左右から押さえつけられ前にも背後にもどころか首を振ることもできなくなる。
ぐわり、と口を開き自分の動きを阻害する生き物へと牙を剥いたが届かない。いくら食いつこうとしても、自分の頭は完全にその位置で固定されたままだった。もがき暴れる中で前足の鋭い爪で襲い掛かるが、それも首や肩の向きを変えるだけの最小限で避けられる。
動けず身体の一部が思うようにならずに不快と生物としての危機感を覚えた物体は、そこでとうとう鞭の音でも制御が聞かず本能のままにその声を深夜の風の中へ響かせた。敢えて頭頂部と顎ではなく、側頭部両側を掴み押さえた騎士の思惑通り、誰の目も覚まさせる怒号を。
百獣の王の咆哮は、テントのみならず貧困街より先にも遠く広がった。