〈書籍9巻本日発売‼︎・感謝話〉三の夢見は。
本日、無事ラス為書籍9巻発売致しました!
感謝を込めて、書き下ろさせて頂きます。
時間軸は「我儘王女と旅支度」あたりです。
「…………?ここは……」
目がおかしくなったような、不思議な場所に僕は立っていた。
瞬きを繰り返して、それでも景色が変わらない。右を見て、次に左を見て、ぐるりと後ろを見ても全く同じ景色で夢でも見てるのかなと思う。
なんだか頭もぼぉっとして、さっきまで何をしてたのかも思い出せない。今日は配達に行かないで夜も寮にいた気がする。それなのに今は寮じゃない。
誰か、と。呼んだけど返事はどこにもない。同じ寮じゃないけどセフェクとヴァルを何度も呼んで、それでも声がないと少し不安になってきた。
広いだけの空間で、声が反響する中でずっとずっと先しかない。柱も木もないし、配達中でもこんなに何もない場所は珍しい。船が泳いでない日の海みたいな景色だった。
一体なんで僕はこんなところにいるんだろう。冷たくも熱くもない床も、先の見えない天井も、まるで世界全部が終わっちゃったような場所。
待ってたらヴァルとセフェクがステイル様にお願いしてまた迎えにきてくれるかなと思って、でもその前に二人が無事かなもちょっと怖い。最後は寮だった気がするけどあんまり覚えてないし本当は配達中に捕まっちゃったとかだったらどうしよう。
心配になって服の中を手探りすれば、ちゃんといつものナイフはあった。寝る前は危ないから脱いでるのに、なんでかなと思いながら首を捻る。同時に見える景色も斜めになって、僕は改めて視界に移る景色にどうしようと考える。
白と黒が分かれた、不思議な世界。
ちょうど、僕が立っているのはその真ん中だった。
開いた足元の真ん中で線を引いたみたいに白と黒が綺麗に分かれてる。お陰で明るいのか暗いのかもわからない。右目は真っ黒だけど自分の手も見えるし、左目は真っ白だけど眩しくないし黒と同じくらい先に何があるか全然わからない。
白と黒で覆われた視界はちょっと気持ち悪くて、どっちかにしようかなと思うけどどっちに立てば良いかもすぐには決められない。ヴァルなら黒かなとか、セフェクなら白かなと考えながら選ぶよりも前にぎゅーっと目を閉じて考える。
どこか歩いたら出口とか壁があるかもしれないけど、まずどっちに何色に進めば良いかで時間がかかっちゃう。ヴァルかセフェクがいたら二人がどっちが良いかで決められるけど、僕一人だとどっちでも良い気もするし、どっちにも行きたくない気もする。
もう一度瞼を開いて考えて、やっぱり視界が気持ち悪くてまた閉じて、見えないのも不安だからもう一回開いてを繰り返したら
〝見え〟て〝聞こえ〟た。
「……あれ?」
最初に気になったのは見えた方で、白しかなかった方にぽつんと小さな影が見えた。
クッションとか、岩とか、それくらい本当に小さいものの影。何かなと思って目を凝らしても、遠すぎてよく見えない。
近くに行って見ようかなと思ったけど、別方向からの聞こえた方も気になった。こっちは姿は見えなくて、うっすらとだけど黒い景色の方から聞こえてくる。こっちも遠すぎて、まるで壁の向こうから見たいなくぐもった声しか聞こえない。だけどなんて言っているかも気になって、右耳に手を添えてちょっとだけ身体ごと傾ける。
目もぎゅっとまた閉じて、聞くことに集中する。聞いたことある声かなと、そう思った時だった。
『ヒャハハハハハッ……』
「!ヴァル!!」
一瞬だけ、そう聞こえた。ヴァルもこっちにいるんだと思ったらもう床を蹴ってた。
ヴァル!と何度も僕の方からも呼びながら黒い景色に向かって走る。ヴァルからは返事はないけれど、それでも声は少しずつ少しずつ近くになっている気がして夢中で呼び続ける。ヴァルが気付いてないなら、先にどっか行っちゃうかもしれないから走らないと追いつけない。白い景色に背中を向ければ、一瞬で目の中は真っ黒が広がった。
ヴァルもいるならセフェクもいるのかな。それとも主かな、レオンかなって考えながら走れば、黒い景色の中でも怖くない。ヴァルが機嫌良いならきっとこの先は大丈夫な場所だから。
ヴァル、ってもう一回大きな声で叫ぶ。返事はないけど、声はまた近付いた。もう笑い声じゃなくて何を話しているかもわからないけれど、ヴァルの声だってことだけはすごくわかった。誰と話しているんだろう、やっぱりセフェクかな。
セフェク!と今度は呼んだら、走りながら大きな声を出しすぎてちょっと息が切れる。
でも立ち止まって置いていかれちゃうのが怖くて、遅くなっても足は止めないで進む。どれくらい走ったかももうわからない。
時計もないし、真っ黒で距離もわからない。何も見えない景色で、振り返ったらなんでか白も見えなくなっていた。なんか考えたら怖くなる気がして、顔に力が入っちゃいながらまた進む。ヴァル、セフェク、ヴァルと何度も二人の名前を呼んでいたら、…………ようやくこっちも見えた。
黒の中なのに、自分の手足と同じくらいはっきりと見えたのは、大きな硝子だった。
窓なのか鏡なのかわからないけれど、暗い中でも反射みたいに光って見えた。ヴァルの声もそこから聞こえるから多分窓かなって、もうちょっと頑張ってまた走る。
辿り付いたのは、やっぱり窓だ。宙に浮いているように見えるけど、それ以外は普通の窓。僕の背よりも長い、横向きの窓。寮の窓よりも大きい枠には透明の硝子が嵌められていて、向こうの景色も綺麗に見えた。
太陽の光もうっすら差し込んで、地面も見えてちゃんと外だった。配達でもよく通る、国外の道に似た地面は草一本生えて無くて、そこに転がっていたのは
ぐちゃぐちゃの、子ども。
「わっ…………」
声が半分出て、思わず窓から跳んで離れた。びっくりした。急に死体が転がっているなんて思わなかった。
窓からは声が聞こえるけれど、死体は喋ってない。どうしたんだろう、裏家業にでも襲われちゃったのかなって、ゆっくりもう一度窓に近付く。下級層とか、配達中とか裏家業倒しに拠点まで行った時とかにも死体は見るから、いきなりじゃないならそんなに怖くない。セフェクはまだ怖いみたいだけど。
窓から見えるのは、小さな死体だけだった。生きてるかなとちょっと目を凝らしたけど、遠目でもわかるくらいぐったりして血の量もすごいし息も多分していない。
後ろは岩壁でそこにも血がたくさん散っていた。伸びちらかった髪の隙間から見えた目は、半分開いたまま瞬き一つしていない。ああいうのは死んでるってヴァルが昔教えて
『ヴァル 、アンタ相変わらずすげぇ腕だなぁ。あんな小せぇ〝的〟相手によく狙えたもんだぜ』
「…………ヴァル?」
聞こえた話し声に、思わずその名前だけを繰り返す。姿は見えないけど、窓から聞こえてくる男の人の声。確かに今、ヴァルって呼んだ。
窓に顔をほっぺがくっつくくらい近づけて、別の角度を覗いたら奥の方にちらっとだけ男の人の靴だけ見えた。でもヴァルが履く靴じゃないし、わからない。代わりにまたヴァルの笑い声が聞こえてきた。すごく楽しそうで、機嫌が良いときの笑い声だ。
流石です、とか惚れ惚れしますぜとか、他にも知らない男の人の声が色々聞こえてきて、皆ヴァルを褒めてる。
ヴァル、ってもう一度大きな声で呼びかけたけど、ヴァルも他の人も誰一人僕に気が付かない。ヴァルの姿が見えないのに声だけして、僕らの知らない人と楽しそうに話してるヴァルの声になんだかすごく心臓がバクバク鳴った。
話してるのも、声も、名前もヴァルなのに、なんでこんなに遠いんだろう。
『今回のは鈍過ぎたなぁクソッ。こっちが脅さねぇと檻から出てこようともしねぇ腰抜けがよぉ』
『一本目が刺さった時の声聞いたかぁ?犬みてぇな声で鳴きやがって』
『おいテメェらさっさと金出しやがれ。十本全部刺さった上で生かせたんだ。賭けは俺の勝ちだぜ』
クソ覚えてたか、褒め損だぜ、って。ヴァルの声の後に男の人達がわいわい話してる声がいくつも重なった。
ジャラジャラって音が聞こえて、お金を払ってるのかなと思う。多分ヴァルが賭けに勝って、お金を貰ってる。ヴァルってこんなに賭けとかする友達いたんだ。ベイルさんの声もしないし、多分違う人ばっかりなのに。
ゲラゲラ笑い声やいろんな人の話し声が混ざって聞き取りにくい。
今の話だと、ヴァルがこの子を殺したのかなって目の前の死体を見る。血塗れで、たくさん走ったのか汗がまだ乾いてないまま髪も濡れていて、半開きの目から涙も零れた痕が残ってた。黒髪も何日も水を浴びてないからかボサボサで絡まってて、ボロボロの布の服に下級層か奴隷の子かなと思う。
布に隠れていない部分は痣もたくさんあって、服には靴の痕がくっきり残ってた。足の裏や膝は皮がずるりと剥けていてすごく痛そう。足下も、壁も、服も、身体も全部血で濡れててわかりにくかったけど、聞こえてから見ると確かにナイフが刺さった痕にも見える。
多分、全部急所から外れてる。ヴァルなら急所も絶対狙えるから、多分わざと外した痕だ。
でも、どうしてこの子を殺したんだろう。それにヴァルはナイフを人に向かっては投げられない筈なのに。
「…………あれ?」
そこで、気付いた。子どもの死体を観察して顔をよく見て気付いた。
この子の顔、すごく見たことがある。なんか、似てる気がする。黒い髪とか、茶色の目とか。ずっと小さいし子どもだけど、地面に潰れて半分しか見えない顔とか、鏡に映る僕の顔に似てる。
でも僕はここにいるし、じゃあそっくりさんかな。もしかして僕に弟がいたとか??もう捨てられた時のことは殆ど覚えてなくて、親の顔も兄弟がいたのかも思い出せない。僕にとって家族はもう二人だけだから困ったこともなかった。
だけどこの子をヴァルは普通に殺せたんだなって思ったら、急にズキッと胸が痛んだ。僕でもヴァルは普通に殺せちゃうんだ。…………あれ?違う。僕でも、じゃなくて僕に似ても、だった。だってこの子は僕じゃないんだから。
なら、なんで今ちょっと悲しかったんだろう。僕に似てても僕と同じ子どもでもヴァルは気にしないのは当たり前なのに。もともと僕のことだって嫌いだったし、あの子、あの、姉の………、……………………、…………え?
「……ぁ……。…………あ、え……」
ざわっとして、すごく気持ち悪く急に心臓がどくどく鳴って、服越しに胸を掴む。
目の前の死体を眺めながら、目に入ってくるものが頭に入ってこない。どうしよう、あれ、どう、どうしよう。なんで僕、
〝姉〟の名前が、思い出せない。
目の前の死んでる子でもない、僕の姉。血は繋がらないけど大好きなたった一人の僕の家族。家族…………あれ、一人?一人だっけ。なんで、たった一人の家族なのに思い出せないんだろう。
気持ち悪くて、急に汗が滲んできた。服に皺がつくくらいぎゅって握って、手のひらが震えて肩も足も震えてきた。なんで、なんで僕の大事な家族なのに、覚えてないんだろう。
すごく大事な名前だったのに、顔だって思い出せるのに、毎日何度も呼んでるのに、忘れたことなんかないのに。
怖い。急に、すごく怖くなってきた。知らない場所でも、白色でも黒色でも一人でも平気だったのに、急にすごく怖い場所に思えてきた。
誰か、って不安で周りを見回しては呼んだけど、誰も返事をくれない。窓の向こうの人でも良いからって硝子を叩いたけど、気付いてくれない。自分でもわからないまま割っても良いくらい思い切り叩いてもびくともしない。ゲラゲラと楽しそうな笑い声が聞こえるだけで、誰も僕に気付いてくれない。
「ッだれか!誰か助けてください!!!僕、僕ここにいます!!誰っ………誰、か…………」
呼ぶ名前が、浮かんでこない。まるで小さな子どもみたいに、ただ助けを呼ぶことしかできなくなってまた気付く。あれ、さっきまで確かに呼んでた名前があった筈なのに。姉の、あの子の名前も呼んでた筈なのになんで言えなくなっちゃったんだろう。
怖くて、怖くて、自分でも意味がないってわかったのに怖いのを我慢できずにひたすら硝子を叩く。助けて、助けてって、何も起きてないのに怖くてここから出してと繰り返す。自分でも何をやってるのかわかんなくなってきた。
ただこわくて、早くここから出たくて仕方ない。姉の筈のあの子の名前を思い出せないのが、すごく怖い。今すぐに誰かに教えて欲しい。
『おい誰か、臭う前にさっさと捨ててこい』
はっきり聞こえた怒鳴り声に、びっくりして窓から身体を引く。
さっき靴が見えた方向から、褐色の足が近付いてきた。近すぎて足から上は見えなくて、その人は死体に近付くと死んでる子の黒髪をぐしゃりとまとめてわし掴んだ。地面に突っ伏した顔が上げられて、…………僕だなって空っぽの頭でわかった。
声から男の人だなってわかった褐色の人の声に、急に身体が酷く震えて、また二歩ぐらい窓から下がった。それでも足がガクガクいって立ってられなくなって、お尻から転んじゃう。
目が、顔も見えない褐色の人から離せない。知らない筈なのに、わからない筈なのに、すごく怖い。さっきまで誰かに気付いてほしかった筈なのに、今は自分の口を両手で押さえて声が漏れないようにばかり考える。見つかったら、また殺されちゃう。
褐色の手に掴まれた僕が、そのまま塵みたいに放り投げられた。
窓から見えない位置に消えるのと一緒にドサッって音が聞こえた。「うっす」とか「崖で」とか「獣の餌に」って男の人達の声が聞こえる中、早く窓の向こうの褐色の人がいなくなってと声に出さずお願いする。
目を顔の中心が痛くなるくらいきつく閉じて、一秒二秒と数えた。声が遠くなって、笑い声も遠くなっても、まだ怖くて目を開けられなくなる。耳も塞ぎたいくらいなのに、声が出ないように口を押さえるのに必死で、膝を丸めながら小さくなって聞こえる笑い声に堪える。ただの笑い声が悪魔の声に聞こえる。
誰か、と呼びたくてもまだ名前が出てこない。あの人は、どこにいるんだろう。僕の姉なのに、ずっと一緒だって言ってくれたのにどうしていないんだろう。いつから会ってないんだろう。
あの人を、僕はなんて呼んでたんだろう。
「姉……お姉、さん……お姉ちゃん……ねーちゃん……姉……姉君……姉上………~………っっっっ……~~わ、がんないよぉ……っ!!!!」
知ってる呼び方を言っても、どれもしっくりこなくてその度に鼻の奥がつんとした。だってずっと呼び方なんか必要なかったんだから。呼ぶ人は一人だから名前も呼び名も要らなかった。
呼び尽くしても、やっぱりどれもあの人の呼び方じゃなくて、怖いくらい涙がこみ上げた。
あああ、って急にすごい子どもになったような変な気持ちになって、鼻を啜って手の中で吠える。声を出しちゃいけないのに、両手を塞いだ下で動物みたいな音が出た。自分の声じゃないみたいで、自分の言葉じゃないみたいで、それなのに止まらない。
こんな風に泣いたのなんてどれくらいぶりかもわかんない。あんなに毎日呼んだのに、なんで僕は忘れちゃったんだろう。
目を閉じたまま呻き声を漏らしたまま小さくなる。
誰か、ってくぐもった声で何度も呼んでは手で押さえる。呼ぶ名前が見つからないのが、怖い。逃げ出したいのに、この場から動くのも怖くて動けない。笑い声が聞こえるだけで体中が刃先で突かれるようなのに足が震えて自由が効かない。肩も狭めて口を塞いで小さくなったまま床に突っ伏した。
あの人を呼びたいのに、呼ぶ名前がない。あの人を助けたいのにもう一生会えない。こんなに会いたいのにと、思ったら涙がどっと溢れた。僕が何もできなかったせいで、最後まで守ってくれようとしたのに僕を僕、……、………。……あれ、……あれ、あれ、あれ僕は
「寝るんじゃねぇ……!!!!」
「?!はい!…………」
心臓が、ひっくり返った。
床にくっつけていた顔を上げれば、涙が散った。窓に反射する自分の目がまん丸なのを見る。心臓がまたバクバク鳴って、でも今はなんかさっきみたいに気持ち悪くない。
一体誰に返事したんだろうと、自分でも訳がわからないまま振り返る。誰もいないのに、見えないのに、窓の向こうでもないその反対側から聞こえた声だった。
「起きろ急げ時間がねぇ、城前まで這いずり続けろ!!」
誰だろう、と。耳の奥まで心臓の音がはみ出ながら思う。城?城前ってどこ??どうすればそんなところに行けるのか、僕はここから出る方法もわからない。
ハァ、ハァって息の音もうるさくて、床に手をついたまま身体ごと声のした方に向き直る。窓のないそこは真っ暗で、何もない。頬から顎に涙が伝うまま半開きの口に入った。しょっぱいと、今になって味に気が付く。
今の、誰の声だっただろう。遠い声だったのに、なんだかすごい近い気がして耳に届いた。怖いけど、それ以上にすごく懐かしかった。呼ぼうとしたら、…………どう呼ぼうとしたのかまたわからなくなる。でも、あの子じゃない、男の人の声だ。
また、声が聞こえた。今度はよく聞こえなくて、でも怖くて低いその声を聞きたくてたまらなくて足に力がこもった。窓の向こうの笑い声に似ているのに、ずっとずっとこっちの声の方に近付きたくて仕方が無い。
床についた手を支えに、足を起こせば今度は立てた。
「あのっ、誰ですか?!誰か、助けてください!僕、……僕」
慌てるせいで、言葉も出てこない。縋るように声の聞こえる方に足が動く。
真っ暗の先から聞こえる声を上塗りするみたいに、また窓の方からも声が聞こえた。高笑いや「今回売ったガキははした金だった」「最近は商人も足下見やがって」とか、怖い声が聞こえて、また振り返りたくなって耳を塞ぎたくなったけど、今はもう違う声を追いかけたくて息を止めて床を蹴った。
さっきまで近くにいかないと聞こえなかったのに、まるで耳の傍で叫んでるみたいに怖い言葉ばっかり聞こえてくる。消したくて、でも耳を塞ぎたくなくて、暗い先の人に助けて欲しくてまた呼ぶ。
誰か、誰かって、バタバタ足を回したら途中で滑って転んだ。膝の打って痛くて押さえたら、………気付けばもう手足全部血塗れだった。いつの間に、こんなに怪我をしたんだろう。あまりにも真っ赤でどろどろで、両手を開いたまま真っ赤な色に頭が
「恥も外聞も晒されテメェの全部奪われる」
「ヴァッ………ぁ……」
また、聞こえた。何か口が言いかけたけど、わかんない。
顔を上げた途端、真っ暗の中が滲んで目を擦る。血も膝の痛みもどうでも良くなって、起き上がってまた走る。鼻を啜って、手で顔ごと拭って、バタバタうるさい音を立ててうるさい。聞きたい、もう一回、今の、あの人の声がもう一回。
「隷属の契約に縛られる数も今の比じゃねぇ」
誰ですかって、喉が叫んだ。
絶対知ってる声で知ってる人なのに息が止まって、ぐちゃぐちゃに歪むくらい顔に力が入った。真っ暗がもっと淀んで見えなくなって目を瞑っているような気分でまた、その人を叫ぶ。名前が呼びたくて呼びたくて。
もう頭の中のもうちょっとまで来てるのに、なんだろう。なんで、こんなに呼びたいんだろう。「助けて」も、「僕の姉の名前を教えて」よりもずっと前に、とにかく呼びたくて仕方ない。呼ばないと僕が消えちゃうような気がするくらい怖くなる。
耳の傍からまたあの窓の向こうの声がして、その度に知らないのに知ってる人を呼んで塗りつぶした。
「もうテメェだけの為になんざ生きられねぇ」
また聞こえた途端、今度は胸が詰まって、また転んだ。今度は膝もおでこも打って、でもすぐに手を付いて起き上がる。
走って、また呼んで声を追う。遠い、遠い声なのにずっと近い人の声だ。ここですここにいますって呼びながら、探して追いかける。
あの人は、なんでここにいるんだろう。迎えに来てくれた?探しにきてくれた?誰と話してる?何を話してたっけ、聞こえたことにいっぱいで全然わからない。…………わからない、ことばっかりだった。
ずっと、ずっと何も考えないで追いかけて、一緒にいたいと思ってて、わかんなくても良いと思った。今だって教えたくないことは知らなくて良くて、でも知れたことがあると嬉しくて、知れたことはなんでも良かった。あの人の契約とか、悪いこととか前科とか、酷いこととか全部なんでも
「しがらみ塗れの人生だ」
「ッ僕はっ……僕らは!それでもずっと一緒が良いです!!役に立てるように頑張ります!!困らせないようになります!!っ……!!!あっあの子も!!絶対!!!」
離れないで置いてかないで行かないで要らないなんて言わないでだけど僕らの所為で苦しまないで。
一緒にいてくれる人が、欲しかった。一緒にいたいと思ってくれる人が、守ってくれる人が欲しかった。今度は捨てない人が、この子は足手纏いだ私が生きるのに邪魔だ仕方ない要らない産んでやっただけ感謝してねなんて言わない人が、僕を助けてくれた大事な人も僕のことも守ってくれて僕らを殺さない人にずっとずっと会いたかった。
大好きだから傷付いて欲しくなくて大好きだから一緒にいたくて大好きだから困らせたくなくて嫌がられたくなくて言う通りにしたかった。
いつの間にか忘れてた遠い遠いことばかり名前の代わりに思い出す。ああそうだ昔はこうやって毎日探して追いかけてた。
引き留めたくて、名前がわからないまま言葉を返す。叫んでるのに、上手く声がでない。走って走って聞こえる声に泣きながら話す。まだ、あの人の名前が出てこない。
走りながら叫ぶともっと苦しくて、真っ黒の視界の先に小さく見える白に目を凝らす。
「死んでも取り返せ」
息を飲む。
言い聞かせるような低いその声に頭が真っ白になって、涙がたくさん溢れた。何を、も誰を、も言ってないのに。胸が熱くなって、嬉しくて零れた。
記憶の中の、間違いようがないその人を呼ぶ。目を擦っても擦っても溢れてよく見えなくなる中で、もうちょっとで届く真っ白の世界にぼやけた影が小さく見えた。爪の先よりも小さくて、それでも会いたい人だと思って遠い遠いそこに走る。泣きながら走って、呼んで、「助けて」よりも「呼んで」と思う。
何度もふらついて、転んで、足の裏も膝も体中痛いのに、痛いよりも嬉しくて走り続ける。僕です、ここにいます、呼んでくださいって、小さな影に少しずつ近付いていくのが待てずにずっと遠い先へと手を伸ばす。こんなに遠いのに、どうして声はこんなに聞こえるんだろう。
視界が白に開けた瞬間黒色の床を蹴って最後は飛び越えた。
さっきまでの黒い世界から真っ白に広がった瞬間、目がおかしくなったみたいに眩んだ。もう窓からの声がぷつりと糸みたいに切れて聞こえなくなった。今度こそ呼ぼうと、届かせようと息を吸い上げて飲み込んで、もっと苦しくなるまで吸いこんだ。真っ白の世界に向けて、もう一度大声で
「セフェクとケメトも、その先だ」
「ヴァル!!!!!!!!」
張り上げた瞬間、聞こえたその言葉に……頭から、熱が引いて足が揺るんだ。
必死に走った足が急にもつれて、また転ぶ。顎も床に打ちそうになって手で庇って、突っ伏したまま今度はすぐに動けない。真っ白の床に鼻先がくっつきながら、瞬きもできずに見つめ続ける。息の音がうるさくて、肩がすごく上下に動く。苦しいくらいで、さっきまでなんであんなに走れたんだろうと思いながら、……頭の殆どが、その名前を繰り返す。
セフェク、ケメト。
すごく知ってる名前。セフェクがどっちで、ケメトがどっちかもわかる。
セフェク、そうだセフェクだった。僕の姉の名前。僕の、大事な家族の名前。僕の名前と、僕の姉の名前。僕らの大事な人がくれた名前。
ただそれを知れただけで嬉しくて、また涙が止まらなくなる。目の奥が熱くて、顔を庇った手で痛くなるまで擦り続ける。胸も、息も、お腹の奥も全部が締められるみたいに苦しい。何度擦っても目が歪んで見えなくて、諦めて先に顔を上げたら、…………さっきまでなかった筈の小さな影が、目の前にいた。
ヴァル、って呼んだけど、返事はなかった。驚いて少し涙が止まって、もう一度強く擦って瞬きを繰り返す。床に手をついたままでもまだその影は小さくて。ヴァルじゃ、なかった。
ヴァルよりも、セフェクよりも、僕よりも小さい人が、膝を抱えて蹲ってる。
床に手を付いたまま僕はヴァルを探すけど、どこを見回しても他に影はない。いつの間にか、ヴァルの声も聞こえない。代わりに聞こえるのはぼそぼそとしたか細い声だけだった。
ヴァル、セフェクって大きな声で呼んでみても返事はなかった。この子なら知ってるかなって一瞬思ったけど、多分知らないなと呼ぶ前にわかった。僕よりも小さい、膝を抱えて涙目で床を見つめている子どもは、黒い世界で窓の向こうにいた僕だったから。
『…………めんなさい…………』
ぼそりと、この距離だと声も聞こえた。すごく小さい声だから、近付かないと気付けなかった。
この子はちゃんと生きてるし、ナイフで刺された痕はどこにもないけど絶対僕だと今度はわかった。ステラよりも小さいから、多分幼等部くらいだ。
首を伸ばして、もう鼻と鼻がくっついちゃうくらい近付けてみたのに、この子は気付かない。膝の中に埋めている顔を覗き込めば、たくさんのアザが見えた。
顔だけじゃない、見える部分だけでもアザや擦り傷もたくさんあって、目の近くも腫れてた。すごく痛そうで、……だけどこれはヴァルからじゃないって、わかる。
俯いたままの子のぼそぼそと動かされる口元に僕は耳を近付ける。ずっと、たぶん僕が最初にここに来た時からこの子はお話してた。ただ僕が聞こえなかっただけ。
『……う、しよう……また……捨……られたら……ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
まだ小さい子が、言葉もあんまり覚えてない子が、知ってる言葉をがんばって使ってる。
ちょっと舌足らずなところもあって、多分もっとたくさん言いたい気持ちがあるのかなって思う。だけど、気持ちを言える言葉を、多分この子は全部は知らない。
セフェクが、たくさん言葉を教えてくれた。
ヴァルも、ティアラも、主も教えてくれたし、学校に行ってからもっとたくさん知れるようになった。だけど一番たくさん教えてくれたのはセフェクだ。
もう、セフェクに拾ってもらった時のことは忘れちゃったことばかりだけど、この先も絶対忘れないのもある。……なんで、さっきまで名前を忘れてられたんだろう。
ごめんなさいを、この子がたくさん繰り返す理由も思い出せる。
気付いた時にはセフェクに助けてもらって手を引いて貰って、ヴァルに守ってもらって、僕は何もできなかった。特殊能力なんて運が良かっただけで、そうじゃなかったら今も役に立てなかった。……あれ、なんで今は思い出せるんだろう。すごくすごく小さかったのに。
この子も、あの時の僕と同じ気持ちなのかなと。一度首を引っ込めて、膝立ちで目線を合わす。また「ごめんなさい」って同じ言葉を繰り返す男の子に、僕はゆっくり深く息を吸った。
『んなさい……ごめんなさい……っ。……また……っ。………捨てられたら、どうし』
「ッ大丈夫ですよ!」
両手を伸ばして、思いっきり抱き締める。
さっきまで全然気付いてもらえなかったから、もしかしたらこの子も触れないか消えちゃうかなと思ったけど、僕の腕でもすっぽり収まって、やっぱり小さくて柔らかかった。
抱きしめたい先の視界はまた何もない真っ白で、ヴァルもセフェクも見えないけどもう全然怖くない。
ちゃんと手が届いたのが嬉しくて、これだけで顔が綻んだ。抱きしめた腕の中で、冷たい男の子が大きく震えた出したのがわかった。僕にたった今気付いたみたいに「え」とか「あ」とか言葉もまとまってない。細い腕がぽとりと垂れたまま、本当に風邪なのかなと思うくらい震え続ける。……そういえば、子どもの頃はセフェクとヴァルと以外とお話するのはあんまり得意じゃなかった気がする。
ティアラとはなんで話せるようになったんだっけ。それに主も、ステイル様も、優しいからかな。
震える身体に熱を分けながら、僕は聞こえるように元気な声で続ける。
「絶対、大丈夫です!セフェクは絶対貴方を捨てないし、ずっとずっと何が起きても傍にいてくれます!」
名前を呼べるのが嬉しくて、思いっきりの大きな声で言う。
男の子が「せふぇく……?」って呟くから「貴方のお姉さんです!」と教えてあげる。もしかして、この子はまだ〝ケメト〟じゃないのかな。
だけど、僕の名前もセフェクの名前も、絶対ケメトでセフェクだからこのままで良い。
セフェクは絶対、絶対に僕らを見捨てない。小さい頃から、今の僕よりも子どもの頃から一度だって僕を見捨てたことがない。僕やヴァルが危ないところに行っても絶対付いてきてくれる。
僕のせいで石を投げられても食べる物が減っても死んじゃうかもしれないことを選んでも、何も持ってなかった僕を絶対見捨てないでいてくれた世界一の姉を僕は信じてる。僕も絶対セフェクを裏切らない自慢の弟で、家族でいたいから。
明るい未来が僕らにあるって、腕の中の子にわかるように頑張って声を張り続ける。
「それに、会えますちゃんと!セフェクのことも僕らのことも守ってくれる人が現れます!セフェクよりも大きくて!大人で!格好良くて!!……僕らを……」
何もできなかった。セフェクみたいに水も出せなくてヴァルみたいに身体も大きくなくて、小さくて子どもで格好悪くてずっと〝弟〟で、ヴァルにもセフェクにも何もできなくて返す方法をたくさんたくさん考えた。
自分でも知らなかった特殊能力に頼るくらい、本当に僕は何も持ってなかった。
いつかお城で働ける、すごい特殊能力だって、セフェクが言ってたからそうなりたくなった。セフェクが望んでくれるから、セフェクがそれを期待してくれるから応えなくちゃいけないし応えたかった。そうなればセフェクが喜ばせることができるから。
〝特殊能力者なんだって思いたい〟と思うくらい、不安になったこともある。
本当は僕を慰める為にお揃いの特殊能力者だと言ってくれてるのかなとか、本当に大きくなったらセフェクに良い暮らしをさせてあげられるかなとか、ヴァルをがっかりさせちゃわないかなとか。……だけど
「僕らを、……っ。……選んでくれる人と出会えます!」
言いながら、まだ目の中に残ってた分が厚く滲んだ。
細い身体を抱き締めたら柔らかさだけじゃなく、骨の感触が伝わった。こんなに力を込めたら折れちゃうと思ったら、僕まで身体が震えた。
真っ白の世界を丸い目で見つめながら、苦しくなって顔の全部が強張る。もう、ヴァルに出会えた時も思い出せないことが多いけど、それでもやっぱりあの洞窟で、落ちてくる世界の中で、……ずっとずっと怖くて寂しかった全部が解れた感覚を覚えてる。
何もなかった僕らを、選んでくれた。何もなかった僕と一緒にいるのを選んでくれた。痛くて苦しくて死んじゃう場所で、……人を殺したこともあるヴァルが、僕一人を見捨てないでいてくれた。
「何もできなくてもっ……大丈夫です!役に立てなくても!弱くても小さくても!!僕らのこともセフェクのことも丸ごと大事にして家族って言ってくれる人がいます!!僕らもセフェクもその人の特別になれるから大丈夫です!!」
大丈夫。
自分で言いながら、そうだったと思い出す。ヴァルは、僕らに役に立てなんて言わないし、望まない。僕らを頼ってはくれても、僕らが何もできないことを嫌だと思わない。何もご褒美がなくても、足を引っ張っちゃっても、僕らとは一緒にいたいと思ってくれる。
だから僕らは、ヴァルが僕らの為に困ってくれるのも怒ったり悩んでくれるのも全部が全部嬉しくなった。
どんなに嫌そうでも絶対僕らを選んでくれると知ったから。
『本当……ですか……?僕のこと嫌になったりとか、また……』
「ずっと一緒です!その怪我も許さないでいてくれる人です。僕らが痛い想いすると僕らの分痛そうにして、僕らの分怒ってくれます。……だから、僕も怪我しないようになりたいと思えました」
この子が言おうとする続きがわかって、遮るように声を上げる。
僕にとってはもう昔のことでも、この子にとってはきっとすごく辛くてたくさん傷付いてたくさん覚えてる。
もしかしたら聞いたら僕を捨てた人のことも教えてくれるかなと頭に過って、でも聞かない。
たとえどんな良い人でもどんな悪い人でも、僕の家族はセフェクとヴァルで、僕はもうすごく幸せだから。
「たくさん優しくして貰えます。誰かに優しくしたいと思えるようになるくらい」
セフェクやヴァル、ティアラや主以外の人にも優しくしたい。何かしてあげたいと思う。
セフェクもヴァルも、僕は昔から優しいとか甘いとか言うけれど、優しくする方法もかたちも二人が教えてくれた。
「たくさん守って貰えます。だから、僕も守れる人になる為に頑張りたくなります」
セフェクだけでもなくて僕だけでもなくて両方とも同じくらい大事にして、守ってくれる。
僕は弱くて役に立たないから、たくさん守ってくれる背中が格好良いことも知れた。だから、今度は僕は僕を守る為じゃなくて、大好きな人達を守れるくらい強くなりたくなった。二人みたいになりたくなった。
「特別だって、わからせてくれます。だから、二人のことも大事で特別だってわかって貰えるように言葉にしたくなります。もっともっと特別になりたくなって、その為ならどんなことでも頑張れるようになります!」
世界中に嫌われても、二人にとって特別なら良いって思う。
二人の背中越しじゃなくても人と笑って話せるようになれた。僕がどんなに言葉にしても二人は嫌わないでいてくれるから、もっと伝えたくなるし話すのも怖くない。二人に褒められるだけで、世界中に褒められたくらい嬉しいから頑張れる。近くにいるだけでほっとして、離れても怖くない。
『………………良がっだぁ゛っ……』
身体の震えがお互い止まって、少し温かくなった。
僕の胸の辺りがじんわり湿ってきて、……背中を抱きしめ返してくれる。ぐすぐすと鼻を鳴らす音と、子犬のような嗚咽が聞こえ出す。
こうやって、セフェクは僕を守ってくれたのかなって。そう思ったら僕も放したくなくなった。目を閉じて、男の子が泣き止むまで抱きしめ続ける。
ずっとずっと、男の子は泣いて、少しずつ啜り泣きから男の子の温度が上がってきた。眠くなっちゃったのかなとそう思ったら僕もなんだか眠たくなった。瞼の裏が黒より白の感覚に近くなってきて、ふわりと身体が浮く感覚と一緒に男の子と一緒に床へと傾いた。
倒れてもずっとふわふわして、床の感触がしなくって、……溶けるように腕の中の感触が消えていった。
信じられないくらい眠い中、なんとか薄く目を開けられたらもう腕の中には男の子がいなかった。
「……。……またね」
ちゃんとお別れが言えなかった。いなくなった白に向けて、小さく手を振りながらちょっと後悔する。
鏡を見れば会えるのに、なんでか名残惜しい。だけどあの子が早く会って欲しいのは僕じゃ、なくて。
目を閉じ、溶けるようにまた眠りに落ちた。
……
…
「ケメト、もしかして眠いですか??」
ティアラが首を傾げた途端、ヴァルからは舌打ちが鳴った。
セフェクからは「ほらやっぱり!」って僕に向けて声が上がって、ちょっと困った顔のまま笑っちゃう。主のところに配達を届けに行く前から何度も欠伸しちゃったから、ヴァルにもセフェクにもすぐ気付かれちゃってた。
主とティアラから心配そうな顔をしてくれて、僕は「大丈夫ですよ」と同じ答えを言う。
「ちょっと色んな夢を見て疲れちゃったんです。でも怖い夢じゃないですよ」
「なら良いんですけれど……」
ちょっとだけ嘘。起きた時は色々覚えてたけど、今はもうあんまり思い出せない。
だけど、寮の部屋で起きた時、すごくセフェクとヴァルに会いたくなった。多分いつもの宿とか野営だったら寝てる二人にくっつきたくなるくらい。
朝もセフェクとの待ち合わせの場所にいつもより早く行った。セフェクに会えたらなんだかいつもより嬉しくて、大きく手を振って待てずに駆け寄っちゃったからセフェクもびっくりしてた。
学校の間もそわそわして、いつもはセフェクが迎えにきてくれる方が多いのに、やっぱり僕の方が先だった。「早く行きましょう」って手を引いて、今日はヴァルが校門の傍で待っててくれたからすごく嬉しくて飛びついた。
「眠いなら授業中寝れば良かったのに。私の教室でも寝てるやついるわよ」
「授業が楽しいから起きてたくて……お昼も、友達とお庭で食べようって約束してて」
ちょっと目を釣り上げるセフェクが腰に手を当てるから、僕は目をこすりながら聞く。昔からセフェクはこうして僕の心配をしてくれる。
朝会ってすぐセフェクに夢で疲れちゃった話をした。今はもうどんな夢かは思い出せないけど、色んなところに行って、それでずっと誰かを探してたような待ってたような気がする。
どれが僕だったかもうまくわからない。大冒険したような、何かを追いかけてたような気もする。僕が追いかけるならヴァルかセフェクかなって思うけど、取り敢えずヴァルはいた。僕がヴァルに殺されちゃって、でもヴァルが助けてくれた。
夢だから色々混ざって思い出す度にわからない。でも、それを話すと絶対セフェクは心配するか「私も助けるのに!」って妬いちゃうし、主とティアラはヴァルを怒るかもしれないし、ヴァルは気にしちゃうから言わない。
ただの夢だし、昔のヴァルは本当に僕のことも殺せちゃう人で、今のヴァルは絶対僕らにそんなことしないのも知ってる。
目線を上げると、ヴァルがじっと僕を見てた。「起きてますよ!」って言ったら頭に手を置いてくれた。今日は配達は良いって言ってくれたけど、僕が一緒にいたいからってお願いしてついてこさせてもらった。
主とティアラにも会いたかったし、何よりちょっとでも長くヴァルとセフェクといたかった。
主から配達分の手紙をヴァルが受け取って、ティアラがお部屋でお昼寝はどうですかって聞いてくれる。ナイフ投げかな、と思いながらちょっと悩んじゃう。ティアラの部屋で寝るのも良いけど、ナイフ投げなら僕もしたい。
「ケメト、セフェク。テメェらは」
「私は良いわよ。ケメトをソファーで寝かせてあげたいし」
「僕もティアラと遊びたいです!」
セフェクに続いて、僕も声を上げればつい起きてる方を選んじゃう。途端にセフェクから「ケメトは休むんでしょ!」って怒られた。でも僕も早くティアラやヴァルみたいに上手になりたい。
ティアラは今日はちょうど休息時間がとれたみたいで「是非っ!!」と前のめりに僕らを順番に見た。
ナイフ投げの時、ティアラは目をきらきらさせて可愛い。最近ティアラは〝王妹〟の勉強で忙しくて、ヴァルも主との学校潜入が終わって配達することがまた増えたから、前みたいにティアラはナイフ投げをヴァルに見て貰えることが減っちゃった。
学校が休みの日以外も二日に一度僕らに会いに来てくれるヴァルだけど、配達が一区切り終わるまでお城には行かないからティアラに会える日はもっと少ない。だけどこうして僕らと会えるのを今もティアラは喜んでくれるし、ナイフ投げもまだ練習してるから偉いなと思う。
ティアラがにこにこ笑って「行きましょう!」ってセフェクの手を取って、セフェクが反対の手で繋いだ僕を引っ張ってくれた、その時。
「?……ケメト。ちょっと背が伸びましたか?」
えっ!!!と、ティアラの言葉にびっくり声を上げたのは主と、アーサーだった。もう一人の近衛騎士のエリック副隊長も眉が上がって僕を見る。だけど主とアーサーは目がまん丸だった。
背がと今言われてもよくわからない。ティアラと会うのも久々だけど、ジルベール宰相の屋敷でも会ったし、そんなに日にちも経ってない。
振り返ったセフェクも、それにヴァルもわからない表情で僕とティアラを交互に見た。僕も首を傾げながら主達みんなを見回す。
同じ年齢の子達の中でも僕は小さいし、学校に通う前からあんまり伸びたと思えたことがない。僕の周りにいる人はみんな大きくて大人だから。
でも、伸びたなら嬉しい。
「本当ですか?僕あんまりわかりませんけど」
「私も。ケメト昔からこんな感じだし」
「大差ねぇだろ」
「セフェクとヴァルは、ほぼ毎日会ってるからわかり辛いんじゃないかしら……?!」
あんまりしっくりこない僕らに、主はすごく顔が強張って歩み寄る。ティアラが「この前はこれくらいで」と僕のおでこの上くらいを手で触れた。途端に主も「確かに!!」って叫んで、今度はアーサーとエリック副隊長にも振り返った。アーサーが僕の方に首を伸ばして、エリック副隊長は半分笑った顔で小さく頷いた。
そんなに伸びたのかなって、急にそわそわする。「どうですか?!」って爪先立ちでヴァルに振り返って聞いてみると、ちょっと考えるような難しい顔をして僕を見た。
「……そういやぁケメト。身体いてぇとか言ってたのは」
「たまにだから大丈夫です!」
「ッ待ってそれ成長痛?!!!」
「!!おめでとうございます!!」
「マジか?!!!!!」
大丈夫って言ったのに、なんでか主達がすごい大声になった。
最近たまに身体がパキッとか痛くなる時があるけど、たくさん動いた後みたいくらいの痛さだから全然平気なのに。成長痛ってなんだろう。
アーサーが「あれバキバキいっってぇのに平気か?!」って僕を見て心配してくれるから、アーサーもあったのかな。でも僕はそんな辛いと思ったことはないから違うかもと思ったら、エリック副隊長が「個人差あるから……」ってアーサーの肩に手を置いた。
男の人はあるのかなってヴァルを見上げたら「んな呼び方あんのか」ってうるさそうに顔を顰めながら呟いてた。
僕もセフェクも首を傾ける中、嬉しそうにティアラが説明してくれた。背が伸びたりする時に痛くなることで、成長してる証拠だって。ティアラはないけど、主はあったらしいから女の人でもあるみたい。
セフェクはと思って見たらちょっと覚えがありそうなわからなそうな顔で視線が宙に浮かんでた。セフェクも友達の中では背が高いし、なら僕もこれから伸びるのかなってわくわくしてきた。
「最近、大きくなりたいって思えるようになったから嬉しいです!」
ベイルさんの酒場でヴァルと話した時から、大きくなっても大丈夫だとわかったから。
嬉しくて少し跳ねながら言うと、主が「気持ちで?!」って紫色の目をくりくりさせた。
ずっとステラしか背の勝てる人がいなかったけど、小さくて嫌だって思うことはあまりなかった。セフェクも駄目って言わないし、ヴァルは寧ろセフェクが背が伸びて抱えて運びにくくなったって話したことがあったから。
小さい方が運びやすいならずっとこのままの方が良いかなとか、子どもでいる間はヴァルもずっと守ってくれるかなとかお城で働く日も遠いままでいられるかなとか思ってた。でも
『私に、ナイフ投げを教えて、下っ……さいっ……!!』
僕も強くなりたいなって思えて、大事な人を守れるようになりたくなった。
憧れる人の真似をしたくなって同じくらい格好良くなりたくなった。
『殺さないで……下さっ……。……っ、……家族、なの……』
ただ強くなるだけじゃなくて、ちゃんと大事な時にすぐ戦って守れる方法も欲しくなった。
助けたい人を抱えて運べるくらい僕も力持ちになれたら良かったのにと思った。
『〝俺様に〟って意味だ』
もう守られないといけない小さくて弱い子どもじゃなくても、背が伸びても強くなっても大人になっても、ずっとずっと大好きな人達と一緒にいられる未来を目指したくなって、それがきっとあるとわかったから。
「いつかセフェクよりも大きくなりたいです!」
「えっ、私もケメトに背は負けたくない」
「じゃあ僕らで競争ですね!僕も頑張ります!!」
「ヴァル……どうしましょう……なんか私、私すごく、すごく寂しいのですけれど!?」
「テメェはケメトの何なんだ」
困ったような寂しそうな顔の主に裾を引っ張られたヴァルが、疲れたような呆れたような顔で主を睨む。
ヴァルに向かって唇を噛んでぷるぷるさせる主にティアラが「わかります!!」ってくっついた。主もティアラも、僕らにとってすごい近い人だから、騒いで驚いてくれるのが擽ったくて笑っちゃう。
『僕のこと嫌になったりとか、また……』
「…………」
「ケメト?どうかした??」
ふと頭の中に浮かんだ声。なんだろう、聞いたことがある気がするけど思い出せない。
今朝の夢かな。さっきまで笑ってた顔から力が抜けてぼーっとしちゃった。もうどんなことしたかも思い出せない。誰かを追いかけた気がするけど、どうして走ってたんだろう。じゃあ今のも僕が追いかけた子かな。
「また」の続きもわからない。ただ、すごく悲しそうな声に胸がぎゅうっと締まった。
「!ケメト!大丈夫ですよ?!私もお姉様もケメトの成長は嬉しいですから!!」
「!そっそうよ!!?ごめんなさいケメト勝手に私達で騒いじゃって……!!」
セフェクに返事を忘れちゃったら、今度はティアラと主まで心配させちゃって、はっと顔を上げる。大丈夫ですよ、ちょっと眠いだけですって言いながら笑って首を振る。
小さなか細い声は、誰だったんだろう。頭に浮かぶ声は男の子か女の子かもわからない。でも、そんな風に不安になっちゃう気持ちはすごくわかると思う。僕も子どもの頃はたくさん色々考えちゃったから。
僕のこと嫌になっちゃったらとか、迷惑になっちゃったらとか、僕のせいで怪我しちゃったらとか。でも今はそういう怖いのが無い。
「ヴァル、僕らの……、……」
振り返って、ヴァルを見上げればすぐに焦茶の眼差しと目が合った。
だけど僕の方が聞こうと思った言葉が途中で止まる。忘れたわけじゃなくて、ちゃんと思い出した子どもの言葉も、聞こうとした言葉も覚えてるのに、ヴァルと目が合った途端に止めちゃった。
続きを言わない僕に、ヴァルは「アァ?」と唸ってから眉を寄せて睨む。ずっと待っててくれて、僕がどう言おうか悩む間にヴァルの口が先に動いた。
「なんだ、何が言いてぇ?」
「えっと、……僕らがヴァルより背が伸びたらお祝いしてくれますか?」
やっぱり聞かない。主達の前で聞いてもヴァルがどう言うかわかったし、ヴァルがどう思ってくれてるかもちゃんと僕らは知っている。
思わず思いついたまま尋ねたお願いに、ヴァルはちょっと眉を上げると次には「ハッ」って鼻で笑った。僕と、そしてセフェクに褐色の手が近付いて、嬉しくて先に笑っちゃう。
僕らの頭にそれぞれ置いてくれるヴァルの手の重みが、僕もセフェクも子どもの頃から大好きで、今だって胸がぽかぽかする。
「抜かせるもんならな」
はやく、大人になりたい。
セフェクより大きくなって「私がお姉さんなのに!」って怒られたい。ヴァルより大きくなっていつもの不機嫌に見える顔で酒場に連れてって欲しい。
越せなかったらヴァルでもセフェクでも勝ち誇ったみたいに僕に笑って欲しい。それでどっちだとしても、いつか
『私がお姉さんで、貴方が弟。だから、私が守ってあげる』
『ッさっさと逃げろ!!セフェクケメト!!!!』
僕が背中で守って、肩を貸してあげたい。
世界で一番大好きな人達に。
Ⅰ637-感
Ⅰ594-1.549-3
Ⅰ122-1
Ⅱ377-2
Ⅰ127-幕.452




