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異世界恋愛っぽい短編

ある公爵令嬢と婚約破棄

作者: 砂臥 環

※あらすじの確認推奨。


「エスメラルダ、君との婚約を破棄する」

「え……」


卒業式を間近に控えた王立学園、生徒会室にて。

ベントリー公爵家の令嬢エスメラルダは、10歳の頃からの婚約者である第一王子殿下クラークにそう告げられた。


勿論公衆の面前などではなく、貶めるような言葉もない。

しかし、淡々としてそう告げた彼の声と、自分を眺める彼の目の奥からエスメラルダが感じたのは、底冷えするような冷たさ。


「理由をお聞きしても?」

「何故だかわからないと言うのか?」


クラークはエスメラルダに問うが、全く心当たりはない。

王子妃教育は滞りなく進んでいたし、学園での成績も良好。クラークとだって、揉めたことはこれまでなかった筈だ。


クラークはそんなエスメラルダを見てひとつ深い溜息を吐き、テーブルに置かれた鈴を鳴らした。

クラークの合図に側近のマクシミリアンが隣の部屋の扉を開ける。


「失礼します……」


そこから蚊の鳴くような声でおずおずと入ってきたのは、ベッキー・アップソン男爵令嬢。


大人しく清純そうなあどけない顔。

その造作はとても整っているのに、つぶらな瞳や柔らかな髪はどこか小動物を彷彿とさせる愛嬌をも同時に備えている。

小柄で華奢な身体つきの割に胸は大きく、それがあどけない顔と揃うとアンバランスな色気がある。

『いかにも男性から好かれそうな見た目』と言っていいだろう。


実際『色々な男に取り入っている』という噂も聞く。


高位貴族であるエスメラルダは、正直なところあまり関わったことはない。

『学園に家格は関係がない』とは言えど、クラスは成績順……高位貴族はより深い知識とマナーが求められる為、子爵家以下の息女とクラスが同じになることは滅多にないのだ。


「アップソン嬢、こちらへ」

「……はい」


クラークは彼女を自分の隣の席へ座らせた。

呼び名は家名だし親密な距離でもないが、エスメラルダの胸は否が応にもザワつく。


「殿下、こちらの方と私への婚約破棄に、どのような……」

「覚えていないのか。 彼女はベッキー・アップソン男爵令嬢だ」

「お名前は、存じております」

「それだけか?」

「……いえ、」

「アップソン嬢を虐めた、或いは嫌がらせをしたことはあるか?」

「そんな! 確かに一度だけ注意はしましたが……」


『婚約者に近付くいやらしい娘』『マナーがあまりになっていない』との文句と共に、他の令嬢に請われて一度注意をしたことがあった。

確か、入学して半年の頃だっただろうか。


それからも彼女のマナーは一向に良くならなかったようで、男子生徒といるところも度々見掛けた。

しかし一度は高位貴族としての役目を果たしたエスメラルダは、特にベッキーにそれ以上注意をしなかった。


(まさか……殿下まで籠絡していた?)


平静を装って、チラリとベッキーを睨んだと思われない程度に見ると目が合う。

わざとらしく身を縮こまらせた女に、苛立ちと共に沸き上がる確信を抑えながら。


「アップソン嬢……彼女は酷い虐めを受けていた。 教科書が汚されたり破られたり、鞄に針を仕込まれたり……男子生徒に襲われかけたこともある」


『襲われかけた』を思い出したのか、ビクリ、とベッキーの身体が震える。


しかしエスメラルダには、それが演技に見えてならない。


(成程……こうやって取り入ったのね)


きっとこの女は、こうして男に悩みを相談するフリをして大袈裟に吹聴しているのだろう。

邪魔な婚約者を(おとしい)れて排除し、同時に男の関心を買うことができる。


確かにこのあどけない顔で泣いて縋られれば、女のエスメラルダですら多少なりとも心は動く。

噂通りならば、身体も使っているに違いない……ならば若く寮生活の男子生徒を味方につけるなど、容易いこと。


(なんていやらしい)


エスメラルダが一度注意した際も、男子生徒との距離感の近さに嫌悪を感じた。


クラークとの距離感は正しく、醸す空気の中に含まれる『男女』は性別を意味する以上のモノではないことから、籠絡はされていないのかもしれない。

だが婚約破棄を言い出す程、色々と吹き込まれているようだ。


「私はやっておりませんわ」


毅然とした態度でそう返したエスメラルダに返ってきたのは、意外な返事だった。





「知っている。 最初の注意以外、君はなにもしなかった」

「──」


肩透かしを食らった気持ちで、「それでは何故……」と問いかけたエスメラルダの言葉を遮り、クラークの方が尋ねる。


「エスメラルダ、学園生活は充実していたか?」

「……はい?」

「どうだ」

「え、ええ。 王子妃教育や生徒会の仕事は大変でしたが、学びも多く……殿下を含め、皆様良くしてくださいましたので」

「そうか」


再びクラークは大きな溜息を吐いた。


「私や友人。 つまり君は『環境に恵まれていた』、そう言うのだな?」

「は、はい」

「アップソン嬢がどういう学園生活を送ってきたか知っているか?」

「……あまりよくは。 ですが失礼ながら、男性といることを何度かお見掛けしたことが」

「君は……!」


クラークがエスメラルダの言葉に明らかに不快感を露わにしたので、思わず身体が硬直する。しかしクラークは一度軽く座り直すと、無表情と抑揚のない口調に戻して言葉を続けた。


「君は、それを何とも思わなかったのか?」



──『ノブレス・オブリージュ』


持つ者の責務として、成すべきことがある。

それはこの学園生活に於いてもそうだ、とクラークは言う。


「君はなにもしなかった。 最初の注意以外。 そして虐めが酷くなったきっかけは君の一言(・・・・)だ、エスメラルダ」





──ベッキーの生家であるアップソン男爵家は、けして裕福ではない。

他国との取引で成り立っていた商会の功績が認められ爵位と領地を賜ったものの、慣れない領地経営と商いの両立は上手くいかなかったのだ。

初代男爵が領地の管理を任せたのは、新興貴族である彼を妬む者から唆されて管財人に就いた者だった。


早いうちに気付いたものの、後任は見付からないまま今の男爵……ベッキーの父へと代替わりする。

国王陛下から賜った領地と領民を疎かにすることはできず、なんとか商会の方から領地に金を引っ張る為に奔走する日々。


両親は一人娘のベッキーに愛情を注いではくれたものの、忙しく金はない。

学園に入れる最低限の勉強を見てくれる家庭教師までしか与えることが出来なかった。

マナーは見よう見まねの付け焼き刃、酷いのはその為だ。




「私を学園に行かせるのにも、相当苦労を掛けたと思います。 ですが、ここでなんとか領地経営のノウハウを覚えて帰れば両親も少しは楽になりますから……」


クラークに促されてベッキーはそう語る。

大きな声ではないものの、もう蚊の鳴くような声ではなくハッキリと聞き取れる。

だが緊張からか、幾分震えてはいた。


「そんな彼女に、君はなんと言った?」

「……ッ!」


エスメラルダはようやく少しずつ自分が何故責められているのかを理解しつつあった。



『ご両親はなにを貴女に教えてきたのかしら……』


それは無意識で出た言葉で、実のところよく覚えてはいない。

ただ、その後に彼女が言った一言はハッキリと覚えている。


『──謝ってください』


それは、エスメラルダのベッキーへのイメージを一瞬で決定づけた。


この女は無礼な平民上がりなのだ、と。

もう関わらない、と決めたのもそこだ。

貴族でないならこの学園では異物。なにもしないのは寛容さですらあった。


『私は馬鹿にされても仕方ありませんが、両親を侮辱することは許せません!!』


そんな言葉が続いていたことすら、エスメラルダにとっては記憶の外。


皆には


「あのような方なら、遅かれ早かれ退学になりますわ。 おかしな方を気にして皆様の大切な時間を浪費することはありません」


とだけ言って。



「私も貴族社会への理解が足らなかったとは思いますが、公爵令嬢に謝罪を求めるなんてすべきではないことくらい、当時でもわかってました。 ですが一方的に、こちらには事情も聞かず……許せなかった……!」


当時のことを思い出したのか、ベッキーの声がうわずる。



当時は沢山いた友人も、高位貴族に睨まれるのが怖くてベッキーを無視するようになった。

低位貴族からも虐めが始まるのはそれからすぐ。


元々目立つ容貌だ。彼女をやっかむ者はそれなりにいた。

遠巻きにされている事実や『友達の友達』からの言葉は噂に説得力を持たせ、勝手なイメージを膨らませていく。最初は噂を特に信じていなかった者も、それが事実であるかのように彼女を嫌っていった。


男子生徒と一緒にいたのは、教科書を借りる相手がいなかった為だ。表立って女子を敵に回すのは嫌でも、コッソリ貸してくれることは多かったと言う。

下心を感じない真面目な学友にのみ借りていたそうだが、言いよってくるのは当然別にもいる。

一人と笑顔で接していれば、その一人が誰かなんてこと周囲には問題ではないのだ。





「私は注意したことを責めているのではないし、面倒を見ろ、とまで思っていない。 だがそこにご両親を貶める必要がどこにあった? そもそもなにをしに彼女のところまで行った? ただマナーの指摘をするだけか?」

「わ、私は学友達から彼女が『婚約者に不躾に近付くから注意してほしい』と……」

「その事実は確認したのか? まさか友人達の言い分だけを信じたのではあるまいな」

「……」


そんなつもりはなかった。

だが男好きする見た目や所作の覚束なさから判断し、声を掛けた時には既にそうだと思い込んでいたのだ。


所作が覚束ないのもマナーが悪いのも、ベッキーが半年の間になにも学んでいなかったからではない。最低限入学できるレベルしか勉強を教われなかった彼女は、まずそちらを優先させていただけだ。


また低位貴族のクラスには豪商の平民もおり、高位貴族のクラスより皆フランクに接する。

教科書を彼女に貸していた数人の男子生徒のひとりも、平民のクラスメイトだ。


エスメラルダが低位貴族とあまり関わりがないように、当然ベッキーも高位貴族と関わりがなかった。

だがベッキーはともかく、それをエスメラルダが理解していないことにまず問題がある。


付け焼き刃のままのベッキーのマナーが『悪い』とエスメラルダが感じたこと自体は仕方ないだろう。

だとしても、視野が狭過ぎるのだ。


実際、ベッキーに不貞の事実などなく……声を掛けてきたのもエスメラルダに相談した『学友の婚約者』とやらの方。

まだ貴族社会をよくわからない中で、突然高位貴族に言い寄られてどうしたらいいのかわからずにいた、というのが事実だ。


彼女を襲おうとしたのもこの高位貴族を筆頭とした数人で、たまたまマクシミリアンが気付いたことで未然に防ぎ、クラークに報告。

そして今に至る。





ようやく自分の立場の悪さをハッキリと自覚したエスメラルダだが、だからと言って婚約を破棄されるわけにはいかない。


「殿下! ですが私は……!」


自分はなにもやっていないのに、という思いもある。

しかし、そんなエスメラルダの気持ちを見透かすようにクラークは発言を遮った。


「君は王子妃教育でなにを学んできた? 私達は存在自体が圧になるのだ、と……一言一言に責任が発生するのだ、と、そう教わった筈だ。 それがわからない君には私の婚約者たる資格はない。 なにより、迂闊な発言があったにせよ、その後君がなんの疑問も抱かなかったことがそれを決定づけた。 その後少しでも彼女を気にしていれば、まだ違っただろうに」


そうあるべき、というだけではない。

エスメラルダには、その余裕があった筈なのだ。

王子妃教育や成績維持、生徒会の仕事などは確かに大変だったが、彼女自身が述べた通り『皆が支えてくれていた』のだから。


生まれてからだってずっと、エスメラルダは環境に恵まれていた。

ベッキーとは違って。


エスメラルダが努力をしなかったわけではない。

むしろ努力家と言っていいだろう。


だが、環境で異なるのはスタートラインだけでない。

ひとつのゴールまでの道程に置かれる障害の、数や難易度も全く異なる。

個人の資質や能力、向き合い方が全く同じだとした場合、ベッキーがエスメラルダと同等になるには同じ努力では足らなくて当然。

それを省みないのは傲慢だ。


「……残念だよ、エスメラルダ。 いや、ベントリー嬢」

「殿下……」

「今告げたのは、君への最後の愛情だと思って欲しい。 卒業パーティーで相手がいないと困るだろう?」


国王陛下のサインが既に入った書類を渡され、エスメラルダは震える手でペンを取った。


「破棄の慰謝料は全て、アップソン嬢に。 表向きには解消ということで公爵とも合意している」

「……ごめんなさい、アップソン嬢」

「……謝罪は結構です。 私、これで失礼します」


バツの悪い顔をしながらも、ベッキーは謝罪を受け入れなかった。

マクシミリアンに付き添われ、部屋から出る。


ベッキーも自分のやらかしは自覚しているが、彼女には彼女なりの矜恃がある。


──もし過去に戻ったとして。

もう少し違う言い回しで言ったとしても、両親を馬鹿にされてなにも言わないとは全く思えなかった。

相手が高位貴族であれ、違うことには『違う』と言っていい。それこそが『学園に家格は関係がない』という意味なのだから。


「大丈夫か? アップソン嬢」

「ええ。 ……ふふ、私貴族に向いてないわね」


マクシミリアンに言うというよりは、ひとりごとのようにベッキーは呟いた。


一切の後悔もしていない──と言ったら嘘になる。

たまたま殿下の側近(マクシミリアン)に助けられ、殿下に庇護を約束して貰った上で全て喋ったけれど、なにもなかったらどうなっていたかわからないことを考えると、背中に冷たいものが走る。


「……王家が約束してくれた以上なにかされる心配はない」

「そう願ってますわ」


それに、このことは口外不要の条件付き……表向きは『婚約解消』となっただけのエスメラルダよりも、遥かに辛い思いをしたし、これからもするだろう。


不安も後悔もある。

だがそれでも許せない。

許さない。


それが虚勢だろうと、一度張ったモノは張り続ける。

自身の自尊心の為に。





エスメラルダはいつもの美しい文字ではなく、たどたどしい文字でサインを書き終えた。

全てが悪い夢のようだが、ペンの重みだけがやたらと生々しい。


「もう……無理なのですね」

「……ああ」


婚約自体は政略的なモノだが、クラークもエスメラルダに特別な想いがなかったわけではない。

だが彼は第一王子であり、彼にもまた矜恃がある。

エスメラルダに完璧であることなど求めていないが、そもそも相談を受けた時点で『何故一番位の高い者に諌める役が回るのか』程度の自覚はあって然るべきだった。

自分が第三、第四王子ならまだいい。

王太子妃、ゆくゆくは王妃として共に歩むのは『エスメラルダには無理だ』と判断せざるを得ない。


「……殿下はあの娘を婚約者に据えるおつもりですか?」


(ああ……やはりエスメラルダには無理だったのだ)


未だにそんなことを言うエスメラルダに、クラークは密かに失望した。


「そんなわけがない」


その一言だけ返し、馬車まで送った。

そこまでの道程は終始無言のまま。本当は家まで送り届けるつもりだったが、そんな気は失せていた。





卒業後、クラークは立太子し王になるつもりでおり、またその予定だった。だがこれを機に国王と相談の末、三歳歳下の弟に譲った。

卒業から二年後に隣国の王女を妻に迎え、臣籍降下する。


ベッキーは慰謝料の一部を使い、敢えて留年し諸々を学び直した。

彼女の悪い噂はクラークによってある程度まで払拭された。だが、見た目や留年の事実が変わるわけではなく、それからも嫌な目には何度となくあった。

しかしそれらは今までと比べ可愛いレベルのモノであり、元来負けん気の強い彼女は更に奮起しトップクラスの成績で卒業した。

一番頻繁に教科書を貸してくれた子爵家の次男を婿に迎え、精力的に領地経営を行っている。


エスメラルダは侯爵家に嫁いだものの、社交界にはあまり顔を出さないまま。

子をなす前に夫を事故で亡くし、寡婦となった彼女は自ら修道院に行くことを決意。

そこでひっそりと暮らしているという。




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