番外編2 春を待つ雪
本編その後の話です。本編読了後に読まれることをおすすめします。
「お名前を伺っても?」
突然声をかけられて、飛び上がるほどに驚いたのを憶えている。
こんな侍従に声をかけてくる女官など、普通いない。宮女も然りだ。
そして振り返った先にいた女性に――更に驚いた。沈妃――いや、今は櫻花妃と呼ばれていたか――今を時めく貴妃がいたからだ。礼宮の門扉から顔だけを出して、続く先の走廊にいた自分に声を掛けている。
「あの、人違いでは」
密かに想いを寄せる相手から突然声をかけられ思わずたじろいで後ろへ下がる雪宜に、櫻花はきょとんとした顔で首を振る。その黒目がち目と仕草は、まるで猫を思わせた。
「いいえ、あなたです。主上がいつも連れてらっしゃる侍従の方ですよね?」
「え、ええ……」
雪宜は呼吸を整えると、背筋を伸ばす。
「蔡雪宜と申します、貴妃さま」
「雪宜さんというんですね」
櫻花はそう言って微笑むと、申し訳無さそうに眉を下げる。
「少し助けていただきたいことがありまして……お時間大丈夫でしょうか?」
「も、もちろんです」
「よかった。今ちょうど皆出払ってて、頼める人がいなかったの」
つ、と袖を引く細い指に心臓が跳ねる。思ったよりも小さく――そして傷の多い指。そういえば彼女の生まれは貧しい官人の家であったことを思い出す。
櫻花は雪宜を伴って礼宮へ入ると、客庁の卓を示す。赤茶塗りの卓には、腕で抱えるほどの木箱が置かれていた。
「主上からいただいたものなのですが、紐が固くて開けられなくて。雪宜さんなら開けていただいた後にお礼のお手紙を届けてもらうこともお願いできるかと思って、お声がけしたのです」
櫻花がどうでしょうと伺うような視線を向けてくる。妃の頼みを断る侍従がどこにいる。雪宜は頷くと、紐に指をかけた。
「確かにこれは固いですね。紐をお切りした方が早いかもしれません」
「できれば切らないで。箱もいただいたままでとっておきたいの」
そこまで大切に想う相手なのか。
何もおかしいことではないのに、雪宜の手は自然と止まりかけ――こちらを見守る彼女の視線に気付いて指先に集中する。自分勝手な片想いなのだから、何を傷つく必要がある。
「――開きました」
しばらく格闘した雪宜が解けた紐を箱から抜き取ると、櫻花が深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。助かりました」
「私のような者に頭を下げるのはお止めください」
顔を上げさせて、箱に手をかける櫻花を見守る。贈り物を不躾に見るものではないと思ったが、出ていく時分を見失った足は彼女の横から離れない。
「まあ、笛子だわ」
櫻花が歓声をあげる。中から出てきたのは、竹の節目が美しい艷やかな横笛だった。櫻花は様々な楽器を演奏すると聞くが、笛子も嗜んでいたか。雪宜が関心していると、櫻花が笛子を撫でる。
「私、実は笛子は演奏したことがないんです」
「え……」
演奏できない楽器を贈られたということか。雪宜の戸惑いが伝わったのか、彼女はふふふと笑う。
「主上は笛子がお上手だと聞きました。なら私もこれからうんと練習をして、お聴かせできるくらいに上達しないと。一緒に演奏しようという主上の計らいでしょう」
からりと笑う櫻花は、どこまでも真っ直ぐで。
主上が櫻花を大切にしているのは知っていたが、彼女もまた主上を大切にしているのだと突きつけられる。
皇帝が後宮へ足を運べる時間は限られている。あの方が何もせずのんびりと、などと言える日は一日もない。ささやかな二人の楽しみは、夜の逢瀬のみ。それでも、少ない時間の中で互いに互いを想う時間を重ねているのだと――ありありと見せつけられて。
雪宜は固まっていた心が融けるように、想いが流れ出すのを感じた。
この方への想いは変えられない。でも、この方が笑顔でいられるなら、なんだっていいのではないか。今のように笑っていてくれるなら、雪宜も幸せでいられる。
「これは何かしら……」
櫻花が笛子の頭の部分を指でなぞる。問うように雪宜の方を見てくるので、同じように頭を確認する。
「これは……おそらく花の彫り物を半分にしたものでしょう」
「半分?」
「割印のようなものですよ。おそらく、主上も同じ笛子をお作りになったのではないでしょうか。そちらにも同じような彫り物がしてあり、二つで一つの絵柄になる、とかでしょうか」
「まあ……」
嬉しそうに笛子を抱える櫻花を見て、雪宜は自然と笑みが溢れる。彼女の下腹は緩やかに膨れている。もう半年も過ぎれば、やや子が産まれる。一層主上の寵愛が彼女に傾くことは自明の理であった。
「ありがとうございました、雪宜さん」
「いえ、では私はこれで――」
「あの――」
櫻花が笛子を箱に戻す。そして逡巡するように視線を彷徨わせると、雪宜を見上げる。
先程までの雰囲気とは少し違う彼女の様子に、雪宜は表情が強張るのを感じた。
これはまずいと思った。
まさか気取られているのでは、と。
「――恋文を贈ってくださったのは、あなたですね」
――やはり。
雪宜は衝撃に言葉を失い、視線をそらす。先日密かに送った文の送り主の正体に、彼女は気づいていたのだ。
黙るということは肯定しているようなものだ。否定することもできず、雪宜は俯く。
「なぜ、それを」
「あなたの視線に、なんとなくだけど気づいていました」
「……申し訳御座いません」
「どうして謝るの? あなたは悪くないわ。でも……私は主上を愛しているの。気持ちだけ受け取っておきますね」
否定せずにただただ申し訳無さそうに笑う彼女に、雪宜は言いようのない気持ちを抱く。
こんな得体のしれない文を送りつけてくる宦官を房室に招いて話をするなど、あまりに不用心が過ぎる。他人には悪意や害意があるということをわかっているのだろうか、と。もしここで己が櫻花に無体を働こうと思えば、いとも容易くねじ伏せられることを彼女は知っているのだろうか。
「……あなたはお優しすぎる」
「そんなことないわ。主上が信頼するあなただからよ」
そこに挟まるのは、主上への想い。何もかも叶わないのだと、いっそ清々しいほどで。
雪宜の中で踏ん切りがついた。
この方と腹の子の幸せを見守ることが、きっと一番の己の幸せになる。この方が選んだ選択の先に、この方の幸せがあるのなら――全てを投げ売ってでも支えて差し上げよう。
雪宜は初めのように背筋を伸ばす。
「気持ちに区切りはついています。あなた様とお子様の幸せを心より祈っております」
「ありがとう。優しいあなたの気持ちを踏みにじることばかりして、ごめんなさい」
礼をして出ていこうとする雪宜に、櫻花は卓に置かれていた小さな壺の蓋を開ける。
「甘いものがもしお好きなら。笛子のお礼です」
「糖果、ですか」
「私は飴が好きなのです。後宮へ来て初めて食べて、おいしくて驚きました」
子どものように笑う櫻花に雪宜もつられて笑い、ひとつ摘み上げた。
「頂戴いたします」
後宮を出てから口に入れたそれは、甘いはずなのにどこか苦さがあった。