第50話 駆け引き
「たった一度。まだ寵愛を得る前に、主上が気まぐれに手を出された下級の妃。それが櫻花妃だった。あのときはまだ櫻花という名も頂いていなかったから、沈妃と呼ばれていたけれど」
朧の表情は会ったときと何ひとつ変わらず穏やかだ。しかし、口調は苛烈さを増す。
「彼女が身籠ったと知った主上は、とても驚かれていた。当時後宮を取り仕切っていた私に、適当な宮を誂えるよう仰ったわ。特に思い入れもない下級妃、身重の身体に無理はさせぬよう住まいだけは与えて、時折顔は出してやろう。主上はその程度のお考えだったのよ……初めはね」
でも、と続く言葉の先に、朧の全てが詰まっていた。
「すぐに主上は彼女に夢中になった。夜伽もなく、腹が膨れた、ただ語らうだけの関係の彼女に。主上はあっという間に彼女を貴妃へと押し上げて、他の妃のもとへと通うこともなく、ただ……ただ会うためだけに、あの人のもとへ毎夜毎夜足を運んでいた」
曄琳が口を挟む間もなかった。朧の目が曄琳を射抜く。
「私の言いたかったことはわかるかしら。櫻花妃は、主上の特別だった。あなたを授かったことを含めて、全てが特別な人だった」
「だから…………だから、追い出したと?」
「追い出したのではないと、先程言ったばかりよ」
「でも結果としてあなたは、母がいなくなった後もなお、母の面影を塗りつぶした!」
曄琳は声を荒げる。
朧の心情は、理解はできるが納得はしない。同情もしない。ひとりに向けられることはないと思っていた愛が、突然現れた女に注がれる――後宮という場所にあって、それがどれほど苦しく辛いことであったか。だとしても、それが母を傷つけていい理由にはならない。
「母のありし日の姿は、あなたの虚言で潰された! 先帝の心に残っていたはずの思い出も、あなたの嘘で別のものに書き換えられた! こんなに残酷なことはないでしょう!?」
朧のやったことはあまりに利己的で。曄琳は震える肩を怒らせる。
しかし、朧は動じることもなく微笑む。
「なら、あなたのその紅い目のせいだとは思わない?」
「………………は」
「その嘘の始まりは? あなたが紅い目をして生まれてきたから、楚蘭は出ていく決意をした。あなたが普通の瞳をして生まれてきていれば、きっとこんな逃亡劇は起こらなかった。私がどうこうするきっかけは、あなたの目が始まりよ」
「なにを」
「全てのきっかけはあなたよ、曄琳」
何を言う。知っている。そんなことは百も承知だ。
一体何度考えたことか。もし普通の瞳なら、紅くなければ、そうすれば母は、己は、もしかしたら、と。
しかし――それをこの人に断じてほしくない。曄琳は拳を握る。この女に踏みにじられることだけは許せない。
出会ったときに普通の女性に見えたが、今は違う。この女はあまりに傲慢で、己のことしか考えていない。
曄琳は顎を引き、壇上の女を見据える。
「私はこの目を誇りに思っています」
確かに目を見張る気配があった。曄琳はまくしたてる。
「母が自慢だと言ったこの目を。母以外にも、この目を愛してくれた、受け入れてくれた人を否定するようなことを私はしません」
王城へ来てたくさんの人に大切にしてもらった。目を知ってもなお、抱きしめてくれた人がいたのだ。
「随分強気ね?」
朧が試すように囁く。しかしそんな揺さぶりは無意味だ。曄琳はにやりと口角を上げる。
「そうですよ。母と先帝の愛の結実が私。なら……私が目を否定することで、あなたは救われるんでしょう? そんなこと、あなたの前で死んでもするもんですか」
「……」
「楚蘭の娘は、かわいそうな娘なんかじゃない。あなたの思惑には乗らないわ」
楚蘭は曄琳の目に後悔などしていなかったのだから。その一点だけは穢されたくない。勝手に決めつけるなよと、曄琳は刺すような視線を向ける。
――朧の口から、小さく息が漏れた。そして。
「っ、あははは! 素敵! 気に入ったわ!」
声を立てて笑い出した。
なぜ笑う。曄琳は呆気にとられて反応が遅れる。朧はひとしきり笑い眦の涙を拭うと、うっとりと曄琳を見下ろす。
「簡単に認めるようなら、哀れな娘よと切り捨てようと思っていたんだけど。気が変わったわ」
これは、喜んでもいい流れだろうか。
「あなたにはいい耳があるそうね? ねえ、曄琳。取引しましょう」
……前言撤回、よくない流れだ。
「あなたが長公主として宮廷に戻るなら、楚蘭の名誉を回復するわ」
何を提案されても突っぱねる。そのつもりだったのに――体温が下がった気がした。
「……どういう意味です」
「そのままの意味よ。あなたが戻ってきてくれるなら、私があなたを長公主として認めるわ」
それは、つまり――。
「私が長公主として認められれば……私は正当な皇家の血を引く人間となり、母が不貞をしたという話は嘘になる……?」
「頭が回るのね。賢い子は好きよ」
「あなたが私を認めたとして、周りは信じますか?」
「見くびらないでちょうだい。私はそれができるのよ」
「過去の自身の行いが間違いだったと……公言できるのですか?」
「ええ、あなたにはそれだけの価値があるわ」
どこかに穴がないか――しかし、いくら探っても逃げ道が見つからない。
この提案を受け入れるか、跳ね除けるか。
二つにひとつなのだ。
(なら、私は…………)
どちらかしかないなら、答えは決まっている。
利用されるのだとわかっていても、これしかないのであれば。曄琳はゆっくりと口を開いた。




