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第48話 最初で最期の





 房室(へや)に入室してくる控えめな足音に、曄琳(イェリン)は疲労から微睡みかけていた意識を浮上させる。被子(ふとん)を被っているので顔は見えないだろうし、寝たふりを決め込もうか――などと考えたが、ひとりで抱えるなという言葉を思い出し――勇気を出して顔を覗かせた。

 牀榻(しんだい)の横でこちらを気遣わしそうに見下ろす暁明(シャオメイ)と視線が絡まる。


「やはり起きていましたか」

「少監……」

「……目が腫れていますね。冷やすものを持ってきましょう」


 外で控えている宮女に指示をするため、暁明はしばし退出する。今の曄琳は眼帯を紛失してしまっている。左目を見られるわけにはいかないため、必然と房室ではずっと独りきりだ。

 広い房室に残されて心細かったのは事実で、彼を見たときに安堵したのも事実。しかし、早く戻ってきてほしい――などと考えている自分がいることに気づいてしまって――慌てて頬を叩いた。これはそういうんじゃない、断じて違う。

 認めてしまえば、何かが崩れてしまう気がした。


 再び足音が近づいてきて、曄琳は気まずさを残しながら居住まいを正す。


「水桶は卓に置いておきますね」


 暁明は濡れた布巾(てぬぐい)を差し出してくる。受け取るとひんやりと指先を冷やす。目に当てると、熱を持った瞼の熱がとれるを感じた。


「ありがとうございます」

「大丈夫ですか?」


 目のことを聞いてるのではないことはわかってる。大丈夫だと頷きかけて――首を横に振った。虚勢を張らなくていいのは気が楽だ。暁明は枕横の椅子に腰掛ける。


「やけに素直ですね?」

「正直でいろと言ったのは少監ですけど」

「覚えていてくださって嬉しいですよ」


 顔にかかっていた髪を払われる。 

 普段と変わらないやりとりのはずなのだが、暁明の表情は沈んでいた。その理由が何となく察せられて、曄琳は口を噤んだ。

 しばし沈黙が降りる。外は恐ろしいほどに静かで、木の葉の揺れる音一つしない。




「――負担になるかと思ったのですが」


 ぽつりと切り出された。

 ようやく暁明が落としていた視線を上げる。


「時間もあまりないので、すぐに話をと思いまして」

「刑部で言っていた?」

「はい。お見せしたいものがあります」


 暁明が傍らに置いていた小さな包を解く。現れた物に、曄琳は声を漏らす。


「それって――」

「覚えていましたか。あなたと礼宮で見つけたものです」


 あの日、暁明と櫻の木の下を掘って見つけた、(アン)妃の隠し物だ。――樱花樹下 我想起你。桜の木の下で、あなたを想う。木筒の文字が目に飛び込んでくる。


(櫻……)


 曄琳がはっとして暁明を見つめると、彼も頷く。


「これは安妃が櫻花(インファ)妃とあなたに宛てた手紙です」

「母様と、私に……?」

「安妃の遺書にはそのように書かれていました」


 曄琳は震える手で木筒を受け取る。改めてじっくり見ると、ささくれだってざらついたそれは、ありありと風化の跡が刻まれており、長く地中にあったことが察せられて。何が書かれているのか、恐ろしくもあった。


 蓋を取り、中を覗くと紙片がひとつ入っていた。湿気で黄ばみ、萎びている。曄琳は手に取り()めつ(すが)めつ確認して――ゆっくりと開いた。 

 そこには整った女性らしい手蹟でびっしりと書き詰められ、その苦悩と懺悔を綴っていた。


 内容は端的であった。 

 安妃は当時(ロン)妃付きの女官であり、そして恋文を回収したのは安妃であったということ。朧妃に指示されるまま行ってしまったことを楚蘭(チュラン)に詫びる内容だった。

 

 ――朧妃さまが、とある文を櫻花妃さまの室で落としてしまったと言うので、私は言われるままに文を持ってきてしまった。あれほど良くしてくださったあなた様を貶めたのは、私。本当に後悔しています。


 そして、最後に。


――私は朧妃さまに殺されます。この後悔と懺悔も、全て冥府の闇へと連れていきます。私の死と引き換えに、どうかあなた方お二人がどこかで幸せに暮らしていますよう、天帝へ祈りを捧げます。


「――少監、申し訳ありません」


 曄琳は震える指で手紙を畳み、木筒に戻す。


「なぜ謝るんですか?」

「こんなことに巻き込んでしまって……」

「あなたは悪くない。私が自らの意思で決めたことですから」


 暁明は険しい顔で髪をかきあげる。


「安妃の死については、もともと朧皇太后が噛んでいると思っていました。あの方の死はあまりにも急で、不自然すぎた」


 曄琳は被子の端を握る。


「皇太后さまの目的は……」

「主上の摂政となることでしょう。晩年の先帝は病に臥せっておりましたから、皇子が若くして即位する可能性は皆が考えていた」


 ため息が重い。暁明の瞳も同じく重く鈍い光を湛えている。


「安貴妃さまがご健在ならば、安貴妃さまが皇太后となっていました。しかし彼女が亡き者となれば……貴妃に次ぐ位の朧淑妃に白羽の矢が立つのは当然の結果。誰も反対はしない」


 淳良も、安妃も、そして櫻花妃も。誰も彼もが朧妃に絡め取られて、朝廷という魔窟に囚われている。


「朧皇太后を罰することは――」

「今は相当厳しいかと。かの方の力は絶大。現在の朝廷を制しているのは彼女の派閥です。今皇太后を廃すると、朝廷は瓦解すると言っていい」

「……」

「しかし今でなくとも、主上のご成長と時期を見て糾弾することはできる。そのためにも、この安妃の手記は切り札にしなければ」


 暁明がそっと木筒に触れる。


「曄琳、これを私に預けてもらえませんか」


 曄琳はじっと暁明の顔を見つめる。真摯な目だった。それでも聞かずにはいられない。

 

「……私が持っていてはいけませんか?」

「あなたが持つには危険すぎる。それに――」


 暁明が逡巡するように言葉を切る。

 その続きに何が来るか、曄琳は理解していた。


「あなたは王城を出なければいけない。その際にこれを持っていくのは良くない」


 わかっていた。

 彼が急くように今日話をしようと言ってきた理由は、曄琳を外に出そうとしてくれているからだと。全ては曄琳を逃がそうとするためなのだと。


「事情は伏せた上で、今(ミン)さんにあなたの荷を纏めるよう頼んでいます。あなたは今日、日没とともに王城を出てください」


 日没――曄琳は思わず窓の外を見た。空はほとんど藍色に染まっている。もう時間など少しも残っていなかった。


(ツァイ)掖庭令とも意見が一致しました。あなたは皇太后に姿を見られている。気取られる前に、なるべく早くここから出るべきです」

「……でも、私」

「大丈夫です」


 曄琳の手に暁明の手が重なる。


「大丈夫ですよ、きっとうまくいきます」


 ――そうじゃない。そんなことを言いたいんじゃない。

 言いかけて、口を噤む。彼が何かを堪えるような顔をしていたから。これが無意味な我儘だという自覚はあった。

 

「――曄琳」


 頬に添えられた手が温かい。白魚のような手からは想像できないくらい胼胝(たこ)の多い――無骨な手のひらだ。どれほど彼が苦労してきたのか、今の曄琳なら理解できる。


「あなたに会えてよかった」


 ゆっくりと引き寄せられる。まるで腕の中に閉じ込めるような抱擁とは裏腹に、言葉は曄琳を突き放していく。


「なんのしがらみもない所であなたは幸せになった方がいい。陰湿な宮中は、よく聞こえるあなたの耳には辛いでしょう」

「……ふふ、では少監との雇用関係も解消ですね」

「ええ、大いに役立ってくれました。感謝します」


 今、どれほど気遣われているかわかる。いや、この場に限らず、今までも。だから涙は出ない。代わりに感謝の気持ちを伝えたい。


「……暁明様。私は――」


 言いかけて、見上げた先の藍色に吸い込まれる。彼の瞳は今の空と同じ色だった。きっとこの色を一生忘れない――忘れられないと思う。


「曄琳」

  

 星でも散りばめられていそうな瞳の奥、魅入るその奥に。確かな熱を感じた。 

 ――と、地面を揺らし近づいてくる足音に、曄琳の瞼が震える。

 

「少監、誰かこちらに――」

 

「あっごめっ、お取り込み中だった!?」


 静寂を切り裂くような扉の開閉音。間近にあった暁明の顔がぎしりと止まる。

 

 暁明の肩越しに確認すると、扉を押し開けるようにして茗が立っていた。息をきらし、肩には曄琳の荷らしき麻袋を下げている。


「今はそれどころじゃなくて! ねえ、よくわかんないけどなんかまずそうよ!」

「どういう――」

「教坊に偉そうな奴らが押しかけて、小曄(シャオイェ)を探してる!」


 暁明と顔を見合わせる。「遅かったか」と暁明が呟く声が痛いくらいに突き刺さった。


 



明日は3話分公開予定です。

8時、12時、19時台に更新を予定しています。

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