第42話 安心と心配
涙でぐしょぐしょになった顔を拭っていると、暁明が顔を覗きこんできた。
「それは取ったらどうです。濡れて使い物にならないでしょう」
暁明が曄琳の眼帯に触れる。確かに涙でべったりと顔に張り付いて気持ちが悪いが、取るという選択肢は思いつかなかった。
「でも」
「私は何も気にしませんよ」
「少監はよくても私が気にします」
いや、誠意を見せてくれた暁明に報いるなら、これは取った方がいいのか。
曄琳は悩みに悩み――結局眼帯の紐に手をかけた。
久方ぶりに外で眼帯を外す。視力に問題がない中で一日中つけているせいか、取ると違和感を感じるようになってしまった。
何度か瞬きをして焦点を合わす。が、上を向くことはできなかった。紅い目を見られることへの抵抗より、気恥ずかしさの方が勝ったのだ。
それを悟っているのか、上から押し殺したような笑い声が聞こえてきて曄琳は更に居た堪れなくなる。
――しかしここで、はたと気づく。
いつまでこの体勢でいるのか。いい加減離れたっていいだろうに。
曄琳は暁明の胸板を押す。
「は、離れたいのですが」
「なぜ?」
「なぜって……泣いて少監の服を汚してしまいましたし、もう泣き止みましたし、これ以上は必要ないかと」
更に押しやると、抵抗するように腰に回る手に力が入り――曄琳は顔に熱が集まるのを感じた。
(これは拷問か)
思わず上を向くと、双眸を弓なりにした暁明がこちらを見下ろしていた。完全に面白がっている。
近くで見ると端正な顔立ちが際立つ。美しい鼻梁に形のいい唇。くそ、この男本当に腹が立つほど顔がいい。
曄琳は動揺を悟られまいと眉を寄せる。
「少監はご自身の顔の良さを自覚してますか」
「多少武器になるかと思う程度には自覚してますが」
「そうですか。ご自覚済みなら離れてもらってもよろしいですか?」
これで自覚していなかったらどうしてやろうかと思った。曄琳が負けじと抵抗すると、暁明は爽やかに破顔する。
「あなたにお気に召していただけたなら、満更でもありませんね」
お気に召す? 顔を?
曄琳は呆れるが、内心一理あるかと思う自分もいた。綺麗だと思うことは、つまりそれが自身の良いと思う基準に入っているということ――その理論でいくなら、曄琳は暁明の顔を多少なりとも気に入っているということになる。誠に遺憾ではあるが。
暁明がむっすりと黙り込んだ曄琳の前髪を払う。
「見た目云々の話をするなら、あなたも人のことは言えないでしょう」
突然理由の分からないことを言われた曄琳は首を傾げる。
「何の話ですか?」
「あなた風に言うと、ご自分の顔がいいことを自覚されているかということです」
「は?」
曄琳はいよいよ理解できず更に首を傾げる。
「そんなこと言われたことも思ったこともないですけど」
「でしたら眼帯がいい虫除けになっていたんでしょうね」
「虫……?」
この世で一番嫌いな単語を出されて、曄琳は顔を顰める。それを見た暁明は、珍しく盛大に笑い声を上げた。
「あなたは本当に面白い人だ」
「わぶっ」
腰を引き寄せられた勢いで鼻柱を暁明に思いっきりぶつけた。せっかく開いていた二人の隙間がまた埋まる。
非難の意を込めて男の背中を叩くと、身体に回る腕の力が強くなった。認めたくはないが、これはこれで居心地がいい――などと思ってしまった。
◇◇◇
「――なるほど。あちこちで探りを入れていたんですね」
今日の目的は、曄琳の秘密とこれまで知り得たことを暁明に聞いてもらうことだった。滑り出しで色々あったが、目的は果たしたい。
曄琳は榻に腰掛け、ここに至るまでの経緯を全て話した。
曄琳の出生の話は暁明の中でほぼ当たりをつけていたらしく驚かれることもなく終わったのだが、今まで知った上で泳がされていたのだと思うと複雑な気分だった。
一通り話を聞き終わった暁明は難しい顔で腕を組む。
「あなたの望みは真実を知ること、そして可能ならば御母上の謂れなき罪を晴らしたい……その認識で間違いありませんか?」
「そうです」
暁明は険しい表情のまま瞳を閉じる。
「真実を知ることは私もお手伝いできます。しかし罪を晴らすとなると……今すぐにというのは非常に厳しい。時間をかけて、時期を見て朧皇太后に話を持ち掛けることは、できなくはない。ですが――」
ゆっくりと上がる瞼。暁明の瞳が曄琳を見据える。
「あなたの身の安全を保証できない。私としては、了承しかねます」
身を案じてくれる。その気持ちだけで曄琳は十分だった。
「お気遣いありがとうございます」
しかし、暁明としてはそんな答えは求めていないようで、更に顔を歪める。
「曄琳」
「まず私は真実だけを知りたい。その後のことは、追って考えます」
「はあ……では後者については現状は置いておきましょう。今は真実を知ることについてのみ――」
暁明は厳しい顔のまま、身体を背もたれに預ける。
「恋文の件ですが、曄琳の予想通り刑部で保管されていると思います。実際に見るとなると、刑部の関係者にあたって秘密裏に見せてもらう形になると思いますが……私は刑部にはあまりつてがないんですよね」
「それなんですけど」
曄琳は貧民街へ出たときの記憶を引っ張り出す。
「以前姚人さんからお兄さんが刑部に勤めていると聞きました」
「姚人……ああ、確かにそうだったかもしれません。保管庫の出入りまで許されているかはわかりませんが、探りを入れてみましょうか」
「ありがとうございます」
ひとりで悩んでいたときよりも、ずっと早く事が進む。が、何から何まで彼の世話になってしまうのは、やはり申し訳なく思う。ここから先は曄琳個人で調べることはできないので仕方なくもあるが、巻き込んでいる自覚があるので気は重い。
顔を上げると、暁明がこちらをじっと見ていた。顔は相変わらず浮かない。
「四華の儀に曄琳は呼ばれていますか?」
「宮妓として出ることになっています」
「そうですか」
曄琳は「どうかしましたか」と問う。暁明は卓の上の眼帯に視線を落とす。
「四華の儀には朧皇太后も出席されます。天長節とは違い、会場も屋内なので距離も近くなる。念のため、あなたは出ない方がいい」
「え?」
「これまであなたが身元を伏せてこれたのは、左目の色を隠し通せたこと、それと、当時を知る人物に接触してこなかったことが大きい」
暁明はひたと曄琳を見据える。「烏氏子女の御母堂は別の話ですよ」と付け加えられた。
「櫻花妃と密に接していた人物なら、あなたを近くで見た際に、あなたの中に櫻花妃の面影を見るかもしれない。あなたの今の年齢は十七。妃があなたを産んだのは……確か十八のときだったはずです」
「私は母様と暮らしているときに、母様と似ているだなんて思ったことはないですよ」
曄琳の反論に、暁明は緩く笑う。
「わかりませんよ、あなた方は母娘なのですから。年を重ねることで似るものもあります。雰囲気、所作、話し方。相手に何で気取られるかわかりません」
暁明は譲る気はないようだった。決定事項だと強く繰り返される。
「あなたが捕まれば全てが終わる。わかりますね?」
「……はい」
曄琳も頷くしかなかった。
「そもそも、皇太后があなたを認めたときにどういう動きをするのか予測できない。特にあなたには、その耳がありますから」
耳――よく聞こえるだけの耳だが、扱い方次第では間諜になるのだということは曄琳が身に沁みて知っている。
「利用されないやしないか、それが心配です」
これまで利用していた男がそれを言うのかと、曄琳は笑ってしまう。暁明は見なかったことにするようで、憮然とした顔で続ける。
「刑部の件は、明日にでも姚人経由で確認させます。何か動きがありましたらこちらから連絡しますので、あなたは今は凌氏子女のことをお願いします」
「わかりました。少監、何から何までありがとうございます」
曄琳が何度目かわからない礼をすると、暁明が苦笑する。
「私がやりたくてしていることです。気にしないでください。ああ、それから――」
暁明が一瞬視線を書架の方へ移した――が、すぐに曄琳の方へ戻した。
「なにかありました?」
「……いえ、なんでもありません。折を見て話しますよ」
「……?」
暁明は卓の上で冷めてしまった茶杯を手に取った。本当に話す気はないらしい。
少しずつ、欠片が集まってきている。曄琳も暁明にならって茶杯に手を伸ばした。
最後に手元に残るのは一体何か。想像がつかなかった。