第41話 あなたしかいない
(なんで私はここに来てしまったんだろう)
曄琳は官舎の一角、人通りのない走廊でひとり立ち尽くしていた。
茗と皇城に出て用事を済ませた後、適当な理由をつけて抜けてきて。殿中省にたどり着いたはいいが――ふと我に返って、じわじわと後悔し始めている。
何のためにここに来たのかと問われると、返答に困る。抱えきれなくなった感情を誰かに聞いてもらいたい――多分これが正解なんだろうが、じゃあなぜ彼なのかと問われれば――また言葉に詰まってしまう。
そも、他人へのうまい頼り方がわからない。生まれの秘密含め、自分の問題は全部自分で抱えてきたし、そこに他人が入る余地はなかった。
だから、曄琳の心の内に踏み込んでこようとした彼にどうしようもない拒否反応と――それと同じくらいの引っ掛かりを覚えたのだ。
曄琳は息を吐き出す。
都合のいい奴よと追い返されないだろうか。
先日あんなに突っぱねておきながら、今度は自分からやってくるなんて、呆れられるに決まっている。いや、失望されるかもしれない――そう思うと、急に足が竦んだ。
(…………やっぱり戻ろう)
曄琳はひとり頷いて、踵を返す。すでに逃げ出そうとしていた足は、すんなりと帰路に向けて動き出した。
「あー! 宮妓さん!!」
だから、あのいつもの馬鹿でかい声で呼び止められて飛び上がるほどに驚いた。姚人の声はこのあたりからしていなかったはずなのに一体どこからと首を回すと、遠くの殿舎から顔だけ出してこちらに手を振っていた。
(あんなに遠くから見つけるなんて視力はどうなってるの!?)
曄琳はたじろいで足を止める。それがよくなかった。姚人の大声に、それまで曄琳の存在にすら気づいていなかった他の官人も建物の影からこちらを認める。
その中に、一発で聞き分けられるようになってしまった足音が早足で近づいてくるのを感じて、曄琳は慌てる。
彼が姚人の声に気づかないわけがない。曄琳がもともといた走廊は殿中省の一角、暁明の室がある場所なのだから。
「――曄琳」
当然、この距離で逃げられるわけもなく。
走廊の端と端、驚いたような顔をした暁明と鉢合わせした。
「何か急ぎの報告でもありましたか?」
後ろに下がろうとしたままの姿勢で固まる曄琳との距離を一歩一歩詰めてくる暁明。曄琳はなんと返事を返すべきか悩み「ええと」と、どもる。
「……違うようですね。何かありました?」
久しぶりに直接顔を合わせている上にここまで来た時点で、彼に用があると言っているようなものだ。曄琳は腹を括った。
「……先日の話の続きをしたくて」
暁明が察しのいい人間で助かった。彼はこれである程度把握してくれたようだ。曄琳の手首を取ると、走廊の奥を示す。
「……場所を変えましょうか」
頷くだけで精一杯だった。
◇◇◇
連れてこられたのはこれまで二度来た書庫ではなく、初めて入る房室だった。装飾品もなくこざっぱりとしたそこは、壁沿いの書架に書物が詰まっている以外は生活感が希薄で。なんとなくだが、彼の私室だろうと思った。
暁明は室内に入るまでずっと曄琳の手首を握っていた。逃げるとでも思っていたのだろうか。
曄琳はようやく解放された手首を握り、扉に閂を引く暁明の後ろ姿を一瞥する。
「他の人間が立ち入らない場所と考えて私の室にしましたが……嫌なら場所を変えましょうか」
やはりそうだった。振り返った暁明に、曄琳は首を横に振る。彼は了解したようだが、そこから先は何も言わない。
ああ、こちらが話すのを待っていてくれているのか――気づいて、曄琳はなにか言わなくてはと、引き攣る喉から声を絞り出す。
「ごめんなさい、あの……先日あんな態度をとった後で。自分勝手なことをしているって、わかっています」
口がうまく回らない。手が震える。彼の顔を見る勇気もなく、胸元あたりに視線をやる。
「でも、自分のことも、他のことも、ひとりじゃもう抱えられなくて」
暁明は、何も言わない。
秘密を話すことへの恐れか、この人に呆れた顔をされることへの恐れか。知らず手を握りこめていた。
「助けて、ください」
暁明はしばらく黙っていたが、数歩こちらに寄ると静かに口を開く。
「話を聞く前に確認してもよろしいですか。こちらも先日の話の続きです。どうして私のところへ来ようと思ったのでしょう」
声に抑揚がない。曄琳の肩がひくりと跳ねる。やはり勝手なことをしていると、突っぱねられるのだろうか。
「あなたの周りには、他にもたくさん人がいるでしょう。私が思いつくのは茗さんに蔡掖庭令くらいですが……話せる相手は、おそらくもっといる。その中で、あなたが私を選んだ理由はなんです」
彼を満足させる答えは持ち合わせていない。曄琳自身もわからないのだから。でも、その中でひとつ言えることはある。
「色んな人のことを思い浮かべました。でも――」
曄琳は今ある自分の中の正解を選ぶ。
「最後には、宋少監しか頭に浮かびませんでした」
どうしようもない自分が弾き出した、答えられる全て。
最後の最後に残ったのは、彼だけだった。
静寂が耳を打つ。
しばしの沈黙の後、ふっと暁明の雰囲気が緩むのを感じた。
「――その答えで十分です」
彼の沓が一歩また近づく。
曄琳がそろりと顔を上げると――そこには想像していたより穏和な顔をした暁明がいた。
「ああ、泣かないでください。詰問したかったわけじゃないんです。怖がらせましたか」
曄琳の頬に暁明が触れる。曄琳が首を横に振ると、ぽたぽたと目から涙が落ちた。
こんなつもりじゃなかったのに。
我慢していたものが堰を切ったように溢れる。話そうにも、しゃくり上げてうまく声が出ない。
「う……ごめっ、ごめん、なさい……っ」
「曄琳、ひとりで抱えようとしなくていいんですよ」
控えめに伸ばされた手が曄琳の背中に回り――引き寄せられた。大きな手があやすように背を撫でる。顔を埋める衣は、彼の体温を移して温かく。香のひとつも薫らない清廉な衣は、いかにも暁明らしかった。
「あのとき、あなたになぜ秘密を暴こうとするのかと聞かれてはぐらかしましたが、今なら答えられる」
曄琳は身体に響く暁明の声を不思議と心地よく聞いていた。涙で濡れる瞳で男を見上げる。
「私はあなたの力になりたかったんですよ」
藍に染まる彼の瞳、その中に映る自分はきょとんとしていた。
「……私のことを散々利用したお詫び、とかですか?」
思ったままを口にしたのだが、これは予想外の答えだったらしく、暁明の目が見開かれて。そして呆れたように逸らされた。
「見えている面を的確に理解して処理できるのはあなたの利点ですが、人には見えない部分があるというのも理解した方がいい」
「つまり?」
「私は他でもない、あなただから力になりたいと言ったんですよ、曄琳」
これは不意打ちだった。
いくら鈍感な曄琳でもわかる。背に回された手は温かく、暁明の拍動は平素より僅かに早くて。
この男でも緊張することがあるという事実に、曄琳は驚くも――憎たらしいほど顔色ひとつ変えず平然として見えるのは、彼らしくもあり。
「あなたの抱える荷を私にも分けてください」
ああ、こんなに嬉しい言葉があるだろうか。
瞬きをすると、また涙が溢れた。




