第31話 貧民街へ
(こんな気持ちで外に出るなんて。もっと晴れやかな気分で出たかった)
曄琳はろくに眠れず乾燥した目を擦り、教坊の門に足を運んでいた。
今日は滿月。貧民街に連れ出してもらえる日だ。
しかし被子に入ってからも楚蘭のことをあれこれ考えていたら、気づけば空が白んでいた。完全に徹夜である。
(姚人さんが付き添いだっけ。走れば逃げ切れるかも。いや、でも母様のことが気になる……)
ぼうっと門まで足を動かしていた曄琳は、既に門の下に人陰があることに気づいた。相手もこちらに気づいたのか、首だけ回して確認してきた。
「…………………………あれ?」
「どうしました」
そこには姚人ではなく、暁明が立っていた。いつもの官服ではなく、濃藍の搾袖に袴褶を合わせ、足元も身軽な革沓だ。平素は後ろで結われている髪も半分ほど降ろされ、濡羽色の長髪が肩口に落ちていた。
「少監がなんでここに」
「姚人は別用を言いつけているので、途中から合流します」
「そう、ですか」
何か問題でもといいたげな視線に、曄琳は無言で明後日の方向を向いた。
(藍染め……いかにも自分が金持ちだと言ってるようなものだわ)
服の形は庶民に溶け込めそうなものだが、藍色という選択はあり得ない。
藍は庶民には到底手の届かぬ染料。そんな藍を使った衣が安い訳がない。暁明は大抵をそつなくこなすのにこういった機微は上流階級の人間のそれで、どうにも理解しがたい。無知とは恐ろしいものである。
これから貧民街へ行くのに悪目立ちしそうで、曄琳は気が重くなった。
◇◇◇
曄琳のもと住んでいた場所までは歩くと半日以上かかると事前に伝えていたこともあり、暁明は馬車を手配していた。藍染めの件もあり軒車だったらどうしようかと思ったが、そんなことはなかった。街でも目立たなさそうな、小ぶりな馬車だった。まあ、頂板があるのでかなり上等な部類には入るが。
人目を避けるため幌を掛けた荷台に乗り込み、馬に牽引されること一刻。曄琳の前に少しずつ見慣れた風景が広がり始めた。
――懐かしい。
曄琳はじっと流れる景色を見つめる。
屋根に葦を乗せた小さく歪な房屋がぼこぼこと立ち並ぶ、煤けた街並み。何かに押し潰されそうに、どれも傾いて土埃で汚れている。入口には板を立てかけ、藁を束ねて戸の代わりとしている房屋が多い。宮廷の瓦屋根に白塗りの整然とした佇まいを見慣れてしまうと、なんとも言えぬ虚無感を覚えてしまう。
まさに篳門閨竇。ここは荒屋の集まりだ。
「まだ先でしょうか」
暁明が問うてくるので、曄琳は是とだけ答えて外の景色を眺めるのに戻った。
ここに来るまでの間、二人に会話らしい会話はなかった。暁明は普段立ち入らぬ区域故に物珍しいのか、外の景色に気取られていたし、曄琳は曄琳で、眠気と古巣に戻る妙な緊張感で口が乾いていた。
無駄な会話がなくてありがたかった。もし相手が姚人だったら、もっと騒がしい道中になっていたに違いない。行きの相手が暁明でよかったと、不本意ながら思う。
しばらく進むと、もといた貧民街の入口に近づいてきた。曄琳がそろそろだと言うと、暁明が馬車の床を二度蹴った。合図に気づいた御者が馬の手綱を引いて車を止めた。
砂利に乗り上げたような音がして、車輪が完全に止まる。立ち上がると尻が痛かった。
外は脳天を刺すような日差しが降り注いでいる。先に降りた暁明に続き、曄琳も荷台から降りる。
長く馬車に揺られたことで平衡感覚が馬鹿になっていた。降りた勢いで少したたらを踏むと、暁明に腕を掴まれた。支えられたのだと気づいて見上げると、こちらを窺うような目をした暁明と視線が絡まる。
「寝不足ですか?」
「え?」
「隈」
トン、と己の右目の下を指で叩く暁明。
ああ、隈か。曄琳は自身の目を擦る。
「昨晩は、その、寝苦しくて」
適当な嘘で誤魔化すが、暁明の探るような目は変わらない。
「昨日は先に掖庭宮から引き上げましたね。私は戻ると伝えていたはずですが」
「待っていろとも言わなかったじゃないですか」
「ええ、そうですね」
彼の目は藍がかっていた。初めて気づいた。
「烏氏と何かありました?」
妙なところで鋭い。それとも、自分がわかりやすいだけだろうか。
曄琳は暁明の手を腕から外すと、先立って歩く。
「行きましょう。ここにいると暑さで倒れちゃいますよ」
背後でため息が聞こえたような気がしたが、無視することにした。
貧民街も街とつくからには、街郭がある。あちこち崩れているが、岩壁に張り付くように小ぶりな門もきちんとある。
懐かしいような、不安なような。そんな気分で暁明とふたり、門をくぐり抜けた。
(母様の痕跡は房屋には残ってないし、遺品も笛子だけ。養母も私達の過去は知らないし、宋少監がいても、大丈夫)
暁明には忘れ物を取りにいくとしか伝えていない。ここで変に隠すような態度をとれば、暁明に怪しまれかねない。
曄琳は手汗を拭うと、目的の養母の住む場所へと向かった。
路地裏の奥、日の当たらぬ戸口は昔と変わりがない。曄琳はなんと声を掛けるか迷って、「ごめんください」と戸を揺らす。自分の住んでいた家にごめんくださいはないだろうに。思わず心の中で呟いた。
中に人の気配はある。
薪木の音、釜の音、そして億劫そうに立ち上がる足音。そういえばそろそろ昼時だ。朝を食べていないことに気づいて、空腹だなぁとぼんやりと思った。
「あンだよ、何か用……て、アンタ……」
養母――方蘇が幽鬼でも見たような顔をして曄琳を凝視する。
縮れた黒髪に、染みと日焼けで赤茶けた肌。数日水を浴びていないせいか、湿気に混じってツンと汗の匂いが鼻を刺す。
なんにも変わってない、と曄琳は方蘇を見下ろす。曄琳を売ったことで多少金は入ったはずなのだが、生活が上向いた様子は見受けられなかった。
「お久しぶりです」
「アンタ、なんで……王城に、行ったんじゃ」
「忘れ物をしたので取りに来ただけです。すぐに帰りますから」
曄琳が中に入ろうとすると、方蘇に阻まれる。
「アンタの物はここにはなンにもないよ。出てっとくれ」
「なら、せめて確認だけでもさせてください。笛子がありませんでしたか?」
「ないよ、そンなもん」
取り付く島もない。方蘇は胡乱な目をして曄琳の背後に目を向ける。
「で? その男は誰よ」




