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第3話 幽鬼の正体





 

 曄琳(イェリン)は飛び起きる。

 壁に凭れていた身体を起こし、外に耳を澄ませる。


 ギシ、ギシ、と。

 規則的に床板を踏みしめる音が近づいてくる。丑寅(うしとら)の方角からゆっくりと走廊(ろうか)を渡ってくる。

 曄琳は更に耳を澄ませる。

 女官にしては足音が重く、一歩も大きい。身長も高そうだ。そも、女というには大柄すぎるような気がした。

 曄琳は眉を寄せる。男の可能性もある……が、内廷に限って男はいないため、後宮に身を置く不浄を取り払われた宦官(かんがん)だろうか。


 そうであるならば、夜警の宦官。

 これが一番しっくり来る。

 

 可能ならば曄琳のいる方へ来ず、どこかへ行ってほしいところだ。宦官であっても、見咎められるとややこしいことになるので、来てほしくはないのだ。

 

 だが曄琳の願い虚しく、足音は真っ直ぐに曄琳のいる方角へ近づいてきた。


 曄琳は懐から木の棒を取り出す。ここに案内してくれた女官が、もしものためにと手渡してくれたものだ。夜警の女官が持ち歩く護身用の棒らしい。こんな原始的なもので幽鬼とどう戦えというのか。

 とりあえず貰っておいたが、使いたくはない。

  

 じわじわと近づいてくる足音に意識を向けていると、曄琳はあることに気づいた。


 足音の持ち主は、少し足を引きずっていた。

 一歩出すたびに、たまにだが僅かに爪先が床を擦っているようだった。左右はわからないが、どちらかの足音の方に体重もかかっていそうだ。

 

 いよいよ足音が曄琳のいる房室(へや)のある走廊に差し掛かってきた。曄琳はそろりと房室の扉を開け、透かし窓から目を覗かせる。木の棒は懐に押し込んだ。

 走廊に灯りはなく窓も全て雨戸で塞がれているため、全てが闇に沈んでいた。

 曄琳が目を凝らすが、まだ何も見えない。左目を眼帯で覆い隠していることもあり、目だけでは距離感が掴みにくい。やはり耳も使わないと相手の正確な居場所が掴めそうになかった。

 

 ギッ、と床が大きく軋む音がした。走廊の端からお待ちかねが姿を現した。


 女物の、赤い上衣。

  

 赤であるということがわかった瞬間、さすがの曄琳も背筋に嫌な汗が伝った。

 ゆっくりと、滑るように赤が近づいて来る。灯りもなく暗黒を歩く姿もやはり異様である。

 そして思った通り、身長が高い。歩き方からして男のようなのだが、女物を身に纏っていて性別の判断がつかない。

 そのまま曄琳のいる房室の前を通り過ぎたが、顔は見えなかった。

 

 好奇心は猫をも殺す。

 

 頭によぎるが、男とも女とも判別つかないこいつの存在が気になってしまう。なにより、幽鬼がこんな人間臭く音を立てて移動するとは思えない。このまま安礼宮に向かえば、これが噂の幽鬼の正体ということになる。

 どこの、誰なのか。

 一目見るくらいならバチは当たるまい。女官や(ミン)への土産話にもなる。

 

 曄琳は、ぺろりと唇を舐めた。

 好奇心の方が勝ってしまった。

 

 曄琳は後をつけることにした。そういえば来るときに途中身を隠せそうな柱があったはずだと思い出し、距離を大きく開いたのを確認してからそろりと身体を出す。

 暫定・幽鬼が先の角に差し掛かったのを確認し、柱に向かって小走りで向かう。

 

 幽鬼が向かう先は――安礼宮。

 これは、当たりだ。


 赤い上衣を視界の端で認めながら次に隠れる場所の目星をつけていると、背後で戸が軋む音がした。曄琳がハッとして振り返ると、もともといた房室の扉が閉まりかけていた。

 常人には全く気にならない程度の音量なのだが、敏感な曄琳にはとても大きく聞こえた。

 気を取られた隙に、今度は懐から木の棒が転がり落ちた。これは完全に不覚であった。こんなもの、房室に置いてくればよかったのだ。

 慌てて掴もうとしたが、手遅れだった。


 カンッと高い音を立てて棒が落ちた。

 今度は、誰もが振り返るような音量だった。


「……まずい」


 曄琳がそう零すのと、幽鬼の動きが止まるのは同時だった。


 曄琳は諦めて柱から飛び出すと、走廊の窓に飛びついた。

 この闇の中では相手をきちんと視認できない。光が必要だった。

 窓を開け、更に雨戸に手をかけて押し開けた。月明かりが入り、走廊を一気に照らす。


「あなた、誰ですか! 夜警の女官より命があり、本日ここへ調査に来――」


 なぜこんなところにいるのかと咎められぬよう、あえて長々と口上を述べていた曄琳の口が止まる。


 走廊の先、曄琳を振り返るようにして動きを止めている幽鬼――いや幽鬼だった者も、驚いたような表情で固まっている。

 ――女装をした状態で。

 

 いや、女装というのもおこがましい。奴は、赤い女物の上衣を肩から引っ掛けてはいるが、中に着込んでいるのはどう見ても官服で、濃茶の盤領袍(ばんりょうほう)に、袴褶(こしゅう)、革靴と、全て男物を身に着けていた。にも関わらず、顔は化粧を施し、頭は一丁前に女の結髪をしていた。無駄に端正な顔立ちなのがまた腹立たしい。

 

「………………変態か」


 曄琳の感想は至極最もである。

 女装したいのか、したくないのかはっきりしろと言いたい。中途半端な格好をしたよくわからない人物を前にして、曄琳は言葉を失った。


「そこのあなた」


 先に口を開いたのは女装の方だった。程よく通る低い声だ。

 幽鬼も喋れるのかと思った曄琳だったが、そもそもこいつは幽鬼どころか変質者の類である。当然口もあれば足もある。喋るのだ。

 曄琳が更に雨戸を押し開ける。

 

「なんのつもりで安礼宮に忍び込もうとしているんですか、女装さん。尚宮にご同行願えますか」


 月明かりが更に女装宦官の姿を照らす。

 恐ろしく顔立ちの整った人だ。顔だけを切り取れば女性にしか見えない。

 妙な緊張感が両者の間に流れる。しばしの沈黙の後、女装宦官が口を開く。


「……申し訳ありませんが、同行には従えません。ここは見逃してもらえませんか」


 曄琳は頭を振る。

 

「それはできません。こちらも仕事なので」

「そうですか。理由をお話したいところなのですが、こちらも()()()()の命で動いておりまして、おちおちと他人に漏らすことができないのです」

「尚宮相手でも、ですか」


 女装宦官の目がきゅうと細くなる。


「――ええ、そうですね」


 曄琳は頬が引き攣るの感じた。


(これは、相手が悪い)


 どこまでがはったりなのかわからないが、そもそも女装宦官が安礼宮に入れるという時点でおかしいのだ。

 安礼宮の鍵は、尚宮が管理していないと聞く。

 安妃が亡くなって以降、掖庭宮の外に渡したというのだから。


 外――つまりは、外廷だ。

 この男は、本当に宦官だろうか。もしや、女装をした官人――――。


 そこまで考えて、曄琳は思考を止めた。

 とある方、が何をさすのか不明な以上、深入りはしない方がいい。曄琳の勘がそう告げている。宮中で波風を立てず、そして近いうちに脱走を企てるなら――ここは引くのが正解だ。


「……わかりました。見なかったことにします」

 

 曄琳は落ちた棒を拾うと踵を返す。急いで戻ろうとしたところ、数歩床を蹴る音がした。

 背中に人の気配。慌てて振り返ると、真後ろに女装宦官が迫っていた。

 

(早……っ)


「少しお待ちを。あなたの名前を――」

  

 曄琳を捕まえようとするように、手が伸びてきた。避けようと下がると、その指が眼帯にかかってしまい、するりと顔から抜けてしまった。

 奪い返したいが、そうすると捕まってしまう。 

 曄琳は顔を伏せると、振り返らず司闈の詰所のある宮門に向かって真っ直ぐに走っていく。目を見られるわけにはいかないのだ。

 

 背後で女装宦官が何事か言っていたが、気を払う余裕はなかった。

 



 

 

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