第19話 沈潜
片目が紅いとは珍しい。
滅多にいないだろうがこの広い世界だ、西の端の方では蒼い瞳や黄金の瞳の人間もいると聞く。紅い瞳くらいひとりいたところで、何らおかしくはない――この程度の話で終われば、よかったのだが。
暁明の思考は、海原に浮かぶ小舟のように、浮上と降下を繰り返す。
しかし彼女の立場と中身が合わぬちぐはぐさが、その奇異な容貌を際立たせる。
左目が紅、年は十代後半、女――逃亡した妃の娘は、確か片目が紅い奇異な見た目であったとか。当時は忌み子と囁かれたと聞く。
暁明は頭によぎった考えを振り払う。
天長節も無事終わり、一夜の宴が幕を閉じて空が白み始めた頃。暁明は未だ官服のまま、自室で椅子に身体を預けていた。その細い指が卓を思案するように叩く。
疑念はひとつ浮かべば、またひとつと増える。
桜の木の下から掘り起こした木筒は、未だ開けられないまま棚の奥にしまい込んでいた。掘り起こしに立ち会った彼女は知らないだろう。
それが安妃が遺した櫻花妃への手紙であるということに。
これが偶然なのか。
曄琳がいたことで見つかった安妃の遺書には、しっかりと櫻花妃の名が書かれていた。遺書の最後の一行には『櫻花妃とその娘・皇女様へ手紙を遺してある。桜の木の下を探してほしい』と書かれていた。
暁明は驚いた。櫻花妃と安妃にそれほどの繋がりがあったとは知らなかったのだ。
暁明が科挙を通り朝廷に仕官したのは、十七のとき。既に櫻花妃の一件から十二年が経ち、当時を知る女官の大半が退官していた。
逃亡当初は後宮が上へ下への大騒ぎであったらしいが、さすがに十年以上経てば噂話程度に落ち着いてしまう。好色者の穿った噂も加わり、何が真実かわからぬまま年月が彼女のことを風化させていくばかりであった。
そんな中での、今回の安妃の遺書である。
安妃は女官から貴妃にまで登り詰め、見事たったひとりの皇子を産んだ女傑であった。かの女性の年齢からして、もしかすれば女官時代に櫻花妃と関わりがあったのやもしれない。
暁明は小さく息を吐き出す。
道理で遺書を隠したわけだ。大罪人として扱われている櫻花妃への手紙など、主上の御母たる安貴妃が堂々と残せるはずがないのだから。
そして大罪人であるはずの櫻花妃と並ぶ――皇女という文字。
暁明を今強烈に悩ましているのは、それであった。
櫻花妃は不貞を犯し、どこぞの男との間に成した子を産んで逃亡した妃であったはずだ。宮中ではまことしやかにそう囁かれている。
それを、今になって亡き安妃が皇女と綴っている。
もしや、櫻花妃が連れて逃亡した赤子は、本来は公主となる娘であったのではないか。
暁明は頭をぐしゃりとかき回す。
そうであるならば、その娘は片目が紅い、歳はまさに――曄琳くらいの娘であるはず。
なくはない話である。
そう考えると、彼女がやたらと宮廷の外へ逃げようとする理由もわかる。
しかし――まだ証拠が足りない。彼女の耳の利用価値を鑑みても、泳がせておく方が都合がいい。
暁明は目の前の卓に置かれた楽器の残骸に目を落とす。遺書として機能したことで琵琶としての役目を終えた楽器の部品達だ。
件の琵琶の遺書は、未だ暁明の手元にあった。
「姚人」
扉の外へ呼び掛けると、跳ねるような元気な声が返ってきた。
「はい! なんでしょうか!」
「朝一番で主上の下へ行く。支度を」
「了解ですっ!」
幼子のように駆けていく姚人に、暁明は苦笑する。不寝番で一晩中外に控えていたにも関わらず、あの元気はどこから来るのか。
主上もあれぐらい屈託なく駆け回っていればいいのに、と思わずにいられない。
御年五歳の皇帝陛下は、人見知りという点を除けばとても大人びている。どこまで真実を伝えればと悩んでいたが、この遺書も包み隠さず見せるべきだろう。
内容は大半が我が子の今後を憂う内容であったのだから。
櫻花妃のことは、こちらから説明するしかない。
知って幼い皇帝がどう動くか、暁明には想像がつかなかった。
暁明は琵琶を布で包むと、重い腰を上げた。
頭の片隅には、片目の宮妓が居座っていた。