第2話 幽鬼騒動
曄琳が身を置いているのは内教坊――即ち、宮廷に仕える女楽人・宮妓のための宮廷音楽の手習い所であった。ここに所属する宮妓は、皇帝の宴席や私宴に管弦や舞で花を添えるため、日夜芸事に励むことになる。
「ゆーき、ほーろー?」
これでも宮妓の端くれである曄琳は、口いっぱいに詰め込んでいた朝餉を茶で流し込み、休まず動かしていた食事の手を止めた。
「んぐ……幽鬼騒動って一体なんですか?」
曄琳の目の前には、茗が盆を抱えて座っている。曄琳よりいくつか年上の、一重の涼し気な目が印象的な女性だ。彼女は曄琳の琴の師匠であり、教坊で義理の姉妹関係を結ぶ存在でもあった。
「あんた知らないの!? ここ最近後宮ではこの話で持ち切りよ!?」
「知らないです。後宮には知り合いがいないので」
茗はため息をついてあたりを見回すと、声を落として前のめりに曄琳に近づく。周りが煩くて声がうまく聞き取れず、曄琳も自然と前のめりになる。
朝餉の時間、教坊の食事処は混む。決まった時間に飯を食えと言われているわけではないが、毎日同じ時間に食房から食事が支給されるため、自然と同じ時間に食事処に集まることになるのだ。
「赤い上衣を着た女の幽鬼のことさ。夜更けにふらふら後宮内を歩いてるんだってさ」
(夜更けにふらふら、ねぇ……)
曄琳は呆れ半分に箸を止める。
後宮に女なんてわんさかいる。赤い上衣を着た人間もだ。
愛憎渦巻く宮中に怪談話は付き物で、大概見間違いや勘違いが多い。妃嬪の誰かと見間違えているんだろうと、曄琳は内心早々に結論づける。
「それだけでなんで幽鬼だってわかるんです。実害は?」
「彷徨いてるだけらしいよ」
「なるほど。悪さしないならきっと良い幽鬼です。放っておいたらいいと思います」
曄琳の興味は幽鬼から食事に移る。
今日の朝餉は、饅頭に菜っ葉の汁物と、干し肉一欠片。こんな豪華なご飯が食べれるなんて、なんと宮中は恵まれていることか。肉なんて貧民街にいた頃はほとんど食べたことがなかった。基本一日一食。粟か米を塩で蒸して腹に流し込むのが定番だった。
温かい食事、ありがとう。感謝の念から勢いよく食事の手を再開し始めた曄琳に、茗はなんとか気を引こうと話を続ける。
「なんでも、主上が後宮にお泊まりになる日の夜にだけ出るんだって」
「そーなんれすか?」
「しかも女幽鬼は閉鎖されているはずの安礼宮をずーっと彷徨いてるんだって」
「あんーれーひゅー」
安礼宮の名に引っかかる。
思案するように曄琳のもぐもぐ動く口がゆっくり止まる。口の端には饅頭のカスがついている。
「んぐ……つまり女幽鬼は、昨年亡くなった主上の御母堂……安妃じゃないかと?」
「そう! だから皆余計怖がってんの! 主上が後宮に泊まる夜にだけ出るのも、安妃が主上をあの世に連れて行こうとしてるんじゃないかって」
安妃は先の皇帝の妃であり、主上の生母だ。
後宮の安礼宮に身を置いていたが、齢三十一にして一昨年亡くなった。持病もなく、突然のことであったらしい。
そしてその一月後、長く病に伏していた皇帝までも身罷ったことで、安妃が冥府に道連れにしたのではないか――などと噂が流れたという。
今回の幽鬼は安礼宮に出ることから、安妃の仕業だろうと考えられているらしい。
曄琳はふむと鼻を鳴らす。
(母親の安妃が息子たる主上を道連れにしたいなんて、普通思う? 先帝の件も偶然だろうし)
想像力は人の首を絞める。
実害もないのに勝手に怖がるなど、馬鹿らしい。死んで勝手に幽鬼扱いされては、安妃も浮かばれまい。
曄琳はくだらないと一蹴しかけたが、はたと顔を上げた。
「それをなんで私に話すんですか?」
「んー?」
「……魂胆はなんですか?」
茗は楽しい世間話をしようというような可愛い質の人間じゃない。宮妓は皆、強かだ。利用し利用される宮廷で、大概の女が逞しくなる。
「えへ。バレた?」
「そういう小細工はいいですから。なにが目的ですか?」
「小曄のよく聞こえる耳でさ、あたしらを助けてほしいんだわ」
茗は、ニヤリと笑った。
「幽鬼の正体、暴いてきてよ」
◇◇◇
宮廷の女なんて皆身勝手だ。
曄琳は後宮の空っぽの房室でひとり、暗がりに座り込んで悪態をつく。
――後宮女官に『どんな音も聞くことのできる宮妓がいるんだ』って話したら、是非幽鬼の音を聞いて本当にいるのか証言してほしいって言われてさ。もし見事証言できたら、謝礼を出してくれんだって!
茗が目を輝かせて宣った台詞を頭の中で反芻する。
(幽鬼の音ってなによ、音って。そんなもので正体がわかるなら、怪談話はこの世からなくなるわよ!)
夜の後宮に忍び込むのも、ただの謝礼では割に合わない。もし事情を知らぬ人間に見つかれば、どんな罰が待っているかわかったものじゃない。
意気込む茗に、曄琳ははっきり否と答えた。
しかしよくよく茗に話を聞くと、少し事情が込み入っていた。
依頼してきた女官というのが、尚宮の司闈長だというのだ。
宮門管理や夜警を司る司闈の間で、ここ一月、赤い衣の女幽鬼を見たという証言が頻発した。皆が口を揃えて安礼宮の中で彷徨う女を見たというのだ。
女達は震え上がり、怯えて夜警に出たがらなくなった。特に安礼宮付近の警備は押し付け合いになるという。
困り果てた長官が外部の人間に相談したところ、巡り巡って茗のところに行き着いた――ということらしい。
それを聞いて曄琳は天を仰いだ。
女官長ほどの頼みとなると、断ると角が立つ。目をつけられることだけは勘弁だ。
女官側としては不確定な話で内侍省を引っ張ってきて大事にするくらいなら、宮妓にでもやらせてみようという軽い気持ちなのかもしれない。
茗からすると、司闈にやると言った以上後に引けない。お願いだよと頭を下げられてしまえば、曄琳のお人好しな面が顔を出してしまい、結局頼みを受けてしまった。
(宮妓と女官の面倒な関係に板挟み……)
曄琳はため息をつく。
宮妓と女官は、すこぶる仲が悪い。
待遇の面で優遇されがちな宮妓が、同じ女として面白くないのだろう。
この寧楽国では、音楽が最も至高とされている。
舞、謡、管弦。
所詮娯楽よと切って捨てられそうなこの嗜みが、武よりも力を持つ類稀な国なのだ。
赤子は箸より先に楽器を持たされる――などと笑い話があるくらいに、音楽は生活に根ざしていた。数百年続く戦のない世がそうさせたのか、初代皇帝が楽人であったことに端を発するのか、綿々と続く楽への崇拝は今も変わらない。
楽人はその最たるもので、宮妓ももとの身分は低いが、努力次第では高位の官人と変わらぬ待遇を受けることができるのである。
当然、女官としては楽ひとつでのし上がる宮妓が面白くないわけだ。
今件も、解決できるものならしてみろという女官らの底意地の悪さが混じっていそうな雰囲気を感じていた。
ふんと息を吐いて曄琳は唇を撫でる。
(そういう確執は今は目を瞑るとして……安妃って名前、なーんか母様から聞いたことがあるような気がするんだよね)
可愛がっていた妃のひとりだとか、なんとか。
安妃は三十と高齢で主上を産んだことからして、長く後宮にいた妃なのだろう。楚蘭と面識があってもおかしくはない。
楚蘭と仲の良かった妃が貶められて噂されるのは気分が悪い。
様々な要因が絡んだ結果、曄琳は渋々承諾したのだった。
そして現在、夜警の女官の手引きで、曄琳は安礼宮に一番近い殿舎の房室に居座っていた。
安礼宮は安妃が亡くなってから閉鎖しているため無人。今は子の刻、後宮内に生活音は皆無だ。
今晩は主上が後宮に滞在。そしてここは安礼宮に近い場所。条件は揃っている。女幽鬼はいつ出てもおかしくない……いや、出るはずもないだろうが。
曄琳は眠い目を擦る。
安礼宮の中は人の気配がない。今は無人なのだ。
とすると、幽鬼が人ならば外から入ってくるに違いない。門を見張れば、自ずと正体が掴めるはずだ。
仮に幽鬼が本物だったなら、宮内にふっと湧いて出る――のかもしれない。本物だったなら、それはそれで話は変わる。専門の方士でも道士でも呼びつけて対処してもらうしかない。
曄琳の仕事は、幽鬼とやらが人か否かを見極めることにあるのだ。
曄琳としては、ほぼ人間であると思っている。この世ならざる者の大半は人の妄念だ。幽鬼も、妄念が生んだ見間違いだ。
曄琳はぐうっと伸びをした。
その顔は左目が眼帯で覆われている。紅い瞳を隠すための苦肉の策だ。物心ついたときからずっと眼帯を身に着けて生活している。教坊に来てからは、失明しているせいだと説明している。そのおかげで今のところ目の色の秘密は知れていない。
曄琳の無造作に束ねた一本結びの黒髪が肩から滑り落ちる。すらりと伸びた手足、長い睫毛に囲まれた丸い吊りがちな目に、気怠げに結ばれた形のいい唇。十人が見たら九人が美人の部類に入ると言いそうな涼し気な面立ちだ――まあ眼帯がなければ、だが。
遠くで木々の葉が風で擦れる音がする。曄琳はくわあと欠伸をする。絶妙に眠気を誘う音だ。人の話し声がしないのも良い。
喧騒は一番気力を削ぐ。曄琳は人混みが嫌いだった。煩くて、聞きたくもない話も聞こえてきて、毎回頭が痛くなる。
教坊も大概騒がしい場所だが、楽器の音色は好きだった。余計なことを考えずに済む。
それに、楽器は母のことを思い出させてくれる。
母は、とんでもない生い立ちがとびきり似合う、豪快に笑う人だった。
「これでここを出れたら……もっと、しあわせ、なのにな…………」
眠気で曄琳の意識が飛びかける。
幽鬼が出たら音でわかる。曄琳の耳は犬猫のそれに近い。本能的に目が覚めるのだ。
それまでは体力回復に努めてしまおう。
曄琳が諦めて瞼を閉じたとき。
ギシ、と。
外の走廊が軋み始めた。