第18話 次の頼み事
暁明に押し込められた場所は、以前も来た殿中省の一室だった。脱走者としてそのまま刑部に引き渡されてしまうかと冷や冷やしていた曄琳は、ひとまず安堵した。
こちらに背を向ける暁明の影で鍵を下ろす音がした。曄琳の脱走防止だろう。窓は嵌殺しだ、外に出るにはこの扉しかない。
(これは、怒っている)
曄琳は暁明の広い背中を一瞥する。
連れてくる間も、今も、この男は終始無言だ。平素から口数の多い男ではないが、暁明がここまで黙り込む姿を曄琳は見たことがなかった。
肌を刺すようなピリピリとした雰囲気に耐えきれず、曄琳の方が先に口を開く。
「あの、先程はありがとうございました」
曄琳の呼びかけに振り返った暁明は、絵巻物の天女のような美しい笑みを浮かべていた。有り体にいえば、作り笑いである。
「礼には及びません。私が手を貸さずとも、あなたはひとりで逃げられそうでしたし、余計なお世話だったかもしれませんね」
(うわぁ、どうしよう)
曄琳も愛想笑いを浮かべた。
宋少監は怒ったらすごく怖いです、と姚人の言葉が頭をよぎった。
暁明が扉から離れて手近な榻に腰を掛けた。曄琳はその脇で居心地悪く立つ。暁明も席をすすめないので、そのまま立つしかない。
「香包が仕事をしたようで安心しました」
暁明はおもむろに口を開く。ふんわりと香る桂花の匂いで香包の存在を思い出した。曄琳は胸元に手をやる。あの騒動の中でもこれは落とさずに済んだらしい。
「どういうことでしょう」
「あなたが今日、宮中から脱走するのではないかと踏んで、あの香包と紙を渡したんですよ。人攫いは完全に計算外でしたがね」
曄琳は暁明からの手紙の内容を思い出す。
――午の正刻、青延門にて待つ。
しかし、暁明は九つの鐘ちょうどに曄琳がいた青芭門の方へ姿を現した。
つまり、暁明は端から青延門へは行く気がなかったということだ。
(ああ、完全に行動を読まれていた……)
曄琳が青延門か青芭門のどちらかから出ると踏んだ暁明は、手紙に青延門と指定した。そうすれば曄琳は青芭門を選ばざるをえなくなり、暁明は青芭門に行けば自ずと曄琳の脱走を阻めるというわけだ。
巧妙に行動を誘導されていたのか。曄琳は嘆息する。
全て読まれていたというのはなんだか癪なので、少しでも綻びがないかと足掻いてみることにした。
「なんで私が今日脱走するとわかったんですか」
「こういった内と外が開かれる催しでは、毎回一定数の出奔者が出るんですよ。宦官、宮女、官奴婢……もちろん、官人や女官にもいます。天長節が直近での一番大きな催しですので、可能性があるならそこかと」
暁明は白皙をことりと傾ける。
「報酬を銭で要求するなど、迂闊なことはしない方がいい。どこに使い道があるのかと、疑われるもとですよ」
続きがあるなら、私が目をつけたように、と後に続くのだろう。
宮中は必要な物は全て物品で配給される。必要な物を同僚内で物々交換したり、米や化粧品をもって上と交渉したりと、基本物ありきでここは回っている。
ここは物品の方が銭より価値がある箱庭なのだ。曄琳としては嵩張る物よりも銭の方が持ち出しやすいと思って銭にしたのだが、それが裏目に出た。こんな厄介な男を引っ掛けるつもりはなかったのに。
曄琳は最後にもう一つと食い下がる。
「私が東の門から出入りすると予想した理由は」
「簡単なことです。今日の宴は外朝。そこから外に出るのなら、門の配置からして南門は皇城を突っ切る必要があるので遠すぎます。北門は宮城側にあるので論外」
暁明の長い指がトントンと卓を移動していく。
「ならば西か東ですが……西は掖庭宮や教坊の近くになりますから、馴染みのある場所へは戻らないだろうと踏みました。ですので、必然と東門になる。東門に下女の通用口があるのは、青延門か青芭門の二つです」
涼しげな顔で一分の間違いもなく曄琳の心理をついてきた。
完敗だ。
曄琳は取り繕う必要もなくなったので大きなため息をついた。
「そこまで手間を掛けて私の脱走を阻む理由がわからないのですが?」
「おや、わかりませんか? あなたに価値があると思ったからですよ」
「あなたの耳に価値、の間違いですよね」
価値という言葉は人に使うには少々失礼な言葉だ。
曄琳はじとりと男を見下ろす。曄琳が小柄なのか、暁明が長身なのか。立ったままの曄琳と暁明、視線の位置はさほど変わらない。
「今度は何をさせられるのでしょう」
「話が早くて助かります。頬の傷は大丈夫ですか?」
穏やかに微笑む暁明からは先程までの険は見られない。もしこれで曄琳がごねれば、刑部へ突き出すぞと脅しがかけられるのだと思う。または――。
(櫻花妃のことを持ち出されるか)
紅い目を見られた。
彼がこの目から楚蘭を連想するかわからない。少なくとも、片目だけ紅という女はそうそういない。
どこまで知って、どこまで追及してくるのか。
曄琳から不用意につついて藪蛇になっても嫌なので、出方を見るしかない。
現在様々な要因で曄琳の喉元を掴んでいるのは暁明に他ならない。逆らって立場を危うくしたくはなかった。
(私はまだまだ死にたくない)
人生まだまだ長い。狭い宮中に押し込められた挙げ句、母の思いとは違う罰で処刑されるなんてまっぴら御免だ。
暁明の切れ長の目が曄琳を捉える。
「あなたには、また後宮で働いてもらいます。今度は四夫人のもとで」
「四夫………………は?」
聞き捨てならない単語があった。
これでしばらく宮中から出られないことは確定した。




