第13話 天長節
薄雲たなびく払暁のころ、宮妓の雑居舎の片隅にて曄琳は麻袋に荷物をいそいそと詰めていた。その顔はいたく晴れやかな顔をしている。
(少監から報酬もたんまり貰ったし、これで今日の天長節でうまく逃げられれば、私は晴れて自由の身! やった!)
逃亡するための荷造りであれば、自然とにやけるというもの。なんなら鼻歌まで歌いたい気分だ。
曄琳はご機嫌に荷を纏めていたが、これからのことに何の心配もないかというと嘘になる。
もちろん、遺書のことだ。
知ってしまえばこうして外に出ようとすることもできなくなるので、想像することしかできないが。
呆気なく開放されたことも気がかりではある。曄琳としては、もっと詰められたり、下手をすれば口封じのために宮中から追い出されたりするかと思っていた。
いやむしろ追い出されることを密かに期待していた曄琳は、少なからずがっかりしたのだが、それはここだけの秘密である。
後日姚人経由で曄琳希望の報酬が届けられ、結局暁明には一度も会わぬまま、今日を迎えてしまった。
(ま、いいか。私はただの宮妓。ここから出れば貧しい一般庶民になるわけだし、一生会うことはないでしょ)
曄琳には私物がほとんどないため、荷造りもあっという間に終わる。報酬で貰った銭は紐で通し、甘味は半分だけ持っていくことにした。
三月しか内教坊で過ごしていないが、身一つで売られて来たときに比べれば物も増えた。思い出や名残惜しさもあるが、それよりも安心安全に暮らせる方が大事だ。
「小曄! 準備終わったのー?」
入口から茗が叫ぶ。本来ならまだ皆寝ているはずの時間だが、もう雑居舎には人っ子一人いない。皆、天長節の支度のために早起きをしているのだ。
「終わりました! 今行きます!」
今日が宮妓の曄琳としての、最初で最後の大仕事だ。
曄琳は琴を仕舞う箱に荷物を紛れ込ませると、抱えて外に出た。
◇◇◇
天長節の宴は、外朝の紫仁殿と皇城とを繋ぐ朱天門の間の大広場にて催される。最奥に組まれた高台の御簾に皇太后と皇帝陛下が、手前に各皇族がおわしまし、中央広場を取り囲む桟敷には高官数百名が観覧することになるという。
警備のため物々しく武装した禁軍が大広場をぐるりと取り囲み、煌々と燃える松明が彼らの鋼色の鎧をぬらりと照らす。
肌を刺すような緊張感と声を落とした人々のやりとりが、さざ波のように曄琳の鼓膜を揺らす。ここまで大勢の人間の声が一斉に聞こえるのは初めてだ。じとりと手に汗が滲むのを感じた。
「わーお、こりゃほんとに立派ねぇ!」
平時と変わりない緊張感の欠片もない茗が、唯一の救いだ。上品な臙脂色に身を包んだ茗はもとの化粧映えする顔立ちも相まって、人目を引く美女に化けていた。
宮妓の席は桟敷席の更に後ろ、末席に控えの場が設けられている。宮妓最高位の内人らを最前に、位が上の宮妓から順に腰を下ろす。
補填要員の下っ端曄琳はもちろん、一番端の一番後ろの、席とも呼べぬ布切れの上が居場所である。
「美人ねぇ、少曄!」
先輩宮妓らが通りすがりに曄琳の頬を突いていく。
茗の手により身なりを整えられた曄琳は、内人と見劣りしないほどに美しく仕上げられていた。吊り目がちな眦に朱を引き、ふっくらとした唇には薄紅を乗せている。しかしいくら身なりを整えても中身はは変わらない。ふわぁと欠伸をもらす姿は、平素の曄琳そのままであった。
(ああ、胸元が心もとない……)
欠伸をおさえた手で曄琳は大きく開いた胸元を押さえる。
裾子を胸まで上げて胸元を強調する着こなしは、女官の服装を見て知ってはいたが、実際に自分がやって、実感した。これは胸が豊かな女性がやらないと見栄えがしないのだと。
貧しい曄琳の胸では、色気もへったくれもなかった。
茗に抵抗して、暁明の女官姿のような首まで詰まったものにすればよかったのだと後悔する。
宴の開始までまだ時間があることもあり、ちらほらと冷やかしの官人が鼻の下を伸ばして宮妓の席を覗きに来る。すると、大概の男が曄琳の整った顔立ちを見て頬を染め、その眼帯と胸を見てがっかりした顔でため息をついていた。
余計なお世話である。
見世物小屋じゃないんだぞと曄琳が威嚇をして男共を追い返していたところ、今度は後ろから袖を引かれた。
また厄介な冷やかしが来たのだと仏頂面で振り返ると、そこには満面の笑みの姚人が立っていた。
ちょっと短いので、本日あともう一話アップします。