母の目線
夫のラントゥスが戦死して、もう九年になる。初めてラントゥスに出会ったのはオージー様の家で仕事をしている時だった。当時、私は見習いのメイドで、ラントゥスは見習いの兵士だった。私たちの出会いはちょっと不思議な出会いだった。
私が館内の清掃をしていたとき、正門の呼び鈴が鳴った。私は急いで正門に向かった。来客の対応は新人の仕事だった。
正門前にいたのがラントゥスだった。ボサボサの頭髪に、よれよれの上着、ボロボロの靴と、どう見ても貴族であるオージー様の知り合いとは思えなかったから、十分に警戒して近づいた。するとこちらに気がついた彼が笑顔で手を振った。
「おーい、そこのメイドさん。おっちゃん、いる?」
「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが、誰を訪ねられているのか、判断致しかねます。御用のある方のお名前をお聞きしてよろしいでしょうか」
「あー、えーっと。そういや名前聞き忘れてた…………ちょっと頭のてっぺんがハゲかけてるおっちゃんだよ、ほらいるだろ?」
「申し訳ございませんが、うちの家主の名前も知らないような方を招き入れるわけにはいきません。お帰り下さいませ」
「え、ちょっと待ってよ!おい、おーい!」
やっぱり乞食の類いだったか、と思い踵をかえして屋敷に戻ろうとすると、後ろからどさっと重いものが落ちる音がした。振り返るとさっきの乞食が門を乗り越えて敷地内に入り込んでいるではないか。私はその一瞬で、やるしかない、と思った。
「ちょっと待ってって、俺の名前言えば分かるはずだから、って危ねっ!」
完全に不意を突いたはずの蹴りはいとも容易く回避された。まさか避けられるとは思っていなかった私は焦りを隠せなかった。先ほどの蹴りはメイドの仕事に就いたときにメイド長から教わったものである。といっても戦闘のためではなく、自衛のために教わったものだ。
「ごめんごめん。勝手に入ってきたのは悪かったって。でも、俺ほんとにおっちゃんに呼ばれてんのよ、だから」
「キャァァァアアアアアアアアアアア!」
「うわああああああああああ!叫ぶなよぉ!」
私一人ではどうにも出来ないと悟ったため、悲鳴を上げて館内にいる人達に何かが起こったことを知らせる。すると近くで作業をしていた庭師を筆頭に十数人が集まり、侵入してきた乞食を取り押さえた。
「おーもーいって!ごめんって勝手に入ったことは謝るから!」
「なーにやってんだお前ら」
「あっ!おっちゃん!助けてくれ!」
「ラントゥス、お前何やってんだよ…………」
その後オージー様の仲裁によって諸々の誤解は解消したのだけれど…………
「申し訳ございませんでした!!」
「いいっていいって!元はと言えば俺が勝手に乗り込んだのが悪いんだからさぁ。あっはっは!」
「おめえが悪いよ馬鹿野郎」
まさか、本当にオージー様の知り合いだとは思わなかった。おそらく二十才近くの差があるし、絶対にありえないと思い込んでしまった。
「でも、最初にオージー様に確認すれば良いのを怠ってしまったから、こんな大事になってしまって」
泣きそうになっている私を見てラントゥスは少し困った様子だったけれど、すぐにいいことを思いついたとばかりに笑顔を見せた。
「じゃあ、お詫びってことで今度の休みの日デート行こうぜ!」
「え…………?」
実にラントゥスらしい解決方法だった。当時の私は大いに戸惑ったものだけれど、ラントゥスからすれば、かなり私に気を遣っていたらしいと後で知った。
ラントゥスはオージー様に本気で殴られていた。
その後は、デートに行って、次回の予定を決められて、毎週二人で出かけるようになった。色々な話をして、この人が良いと思えるようになって、大人の関係にもなった。彼から結婚しようと告げられたのは彼が戦争に行く直前だった。私は泣きながら頷いた。
戦争から帰ったら二人で幸せな家庭を築こうと約束した。子どもの名前だってもう決めてあった。
でも彼は帰ってこなかった。私はもう何も手につかなくなって、仕事にも行かず家に引き籠もった。もういっそ死んでしまおうかと考えて、勇気が出なくてやっぱりやめるを繰り返す。私が私ではない感覚とでも言おうか。ラントゥスはいつの間にか私を構成する要素の大部分を侵食してしまっていたようだ。
ご飯が喉を通らなくなって、眠れなくなって、とうとう吐き気が止まらなくなった。意識が朦朧としている状態が何日も続いて、ふと気づいたら私は病院のベッドで寝ていた。自宅で倒れていたところを隣人さんが見つけてくれたらしい。私はそのまま知らず知らずのうちに死んでしまえたら良かったのにと思った。
医者から妊娠していると告げられたとき、言葉では表現できない感情が心の奥からあふれ出した。憎しみだったかもしれない、喜びだったかもしれない。分からないけど強い感情だった。
そして私はようやく目が覚めた。現実から目を逸らすのは止めなければならない。私に宿った新たな命を、ラントゥスが遺した小さな奇跡を、私は一人で守り抜かねばならないと決意した。
それからの毎日は自分の子どものことだけを考えて生活を一変させた。栄養を摂るためにしっかりとご飯を食べ、自宅でできる新しい仕事にも就いた。その甲斐あってか、息子は元気に生まれてきてくれた。ラントゥスと同じ金色の髪に、私と同じ青の目をしている。名前は迷わなかった。以前ラントゥスと二人で考えた素敵な名前があったから。
マツバ。世界で一番大切な私の息子だ。
ありがたいことにマツバは手のかからない賢い子どもだった。マツバが生まれて一、二年は自宅でできる仕事をしていたのだけれど、将来のことを考えるともう少しお金に余裕が欲しいと思い直して、店舗の仕事に転職した。まだ小さいマツバを家においていかなければならないのは不安で仕方なかったが、マツバは文句一つ言わず、いってらっしゃい、と送り出してくれた。
多分マツバは自分の家が貧しいことも、父親がいないことも理解できていたのだろう。ワガママを言って私を困らせるようなことは絶対にしなかった。悪く言えば子どもらしくない子どもだった。いや、それは今もそうだ。私はそんなマツバの様子に喜べばいいのか、さみしがればいいのか、よく分からなかった。
ただ、マツバが手のかからない子どもであることは凄く都合が良かった。私は仕事に集中することが出来たし、稼ぎも増えた。でもまだまだお金に余裕はなかった。マツバがどんどん大きくなるにつれて必要な経費も増える。
せめて学校は通わせてあげないと、マツバに友達が出来ない。しかし年間三十万イェンの支出はどう考えても今の私には捻出出来そうになかった。
仕事を増やすしかない。昼の仕事はそのままに、夜間に時間は短く稼げる仕事を増やす必要がある。そんな仕事は限られている。自らの身体を金に換えるのだ。それしかない。強い拒否感はあるけれど、選択肢がない。
だからマツバにこれから帰りが遅くなるかもしれないことを話した。するとマツバは不思議そうな顔をして「どうして?」と尋ねた。「お仕事を増やすのよ」と答えると、また「おかあさん、何でお仕事ふやすの?」と首を傾げる。
マツバは成長してラントゥスによく似てきた。首を傾げたその姿なんか、ラントゥスそっくりだ。
「マツバが学校に行けるようによ」
私はちゃんと笑えていただろうか。マツバに私がこれからすることがバレてはいけない。だから、何事もないように、自然に振る舞わないといけない。
「おかあさん、俺、学校行かない!行きたくない!俺も働く!」
マツバは私の言葉を聞くや否や、そう言った。予想外だった。子どもは7歳になると学校に通うのが普通だ。だから、拒否されるなんて考えてもいなかった。
でも、マツバの選択は私にとって魅力的すぎるものだった。私はマツバが行きたくないと言ったから、マツバの意志を優先したのだ。そういうことにできると思ってしまった。
だから思わず、頷いてしまったのだ。
マツバは数日のうちに仕事先を自分で見つけてきた。かんむり屋に連れて行かれて、店主さんから挨拶を受けたときは、本当に驚愕した。まさか本当に働くつもりだったとは思ってもみなかった。マツバが働き出してから、生活は一変した。子どもだからまだ給金は少ないものの、少しずつ貯金が出来るようになった。新しい服を買ったり、娯楽用の本を買うことも出来るようになった。
その頃、私は段々マツバは天国のラントゥスが私を救うために用意した救世主なのかもしれないと思い始めた。
ある日、マツバと二人で買い物に出かけた。少し遠出をした帰り道、初等学校の真横を通った。そこは本当ならマツバが通うはずの学校だった。ちょうど正門前を通り過ぎようとしたとき、マツバの足が止まった。
マツバはじっと中を覗き込んでいた。まだ帰宅していない子ども達が学校で遊んでいるのが見えた。数秒して、マツバはふと我に返ったように目を逸らして先を急いだ。それからマツバはその道を通る時は必ず学校とは違う方向に目線を逸らすようになった。
私は頭をぶん殴られた様な思いだった。いつしか私はマツバが働いているのは本人の意志で、本人がやりたいことをしているのだと思い込んでいた。違う、そんなわけがないじゃないか。マツバが働くことを決めたのは、私があの時自分の身を犠牲にしようとしたのを察してしまったからではないか。マツバは私のことを考えて、学校に行きたいという自らの願いを捨てたのだ。
何が救世主だ。私はただ自分の息子に最愛の人を重ね合わせて甘えていただけじゃないか。マツバはまだ子どもなのだ。学校にも行って友達を作って遊びたいに決まっているだろう。自分の身勝手な理想を押しつけて、自分を正当化しようとしている私は母親失格だ!
今からでも、間に合うだろうか。もし、マツバが許してくれるのなら、私はマツバの母親でいたい。そのために、まず、マツバを望み通り学校に通わせてあげよう。
自分一人では何も出来ないのは身にしみた。一人、助けてくれるかもしれない人がいる。オージー様だ。いきなりいなくなった私のことなんて、覚えていないかもしれない。嫌われているかもしれない。どんなに惨めでもいい。やれることをやってみるしかない。
※マツバは学校に行きたくないだけです。