レーズンパンが十個残ったら
優子は幼稚園の帰りに「パン屋のタナカ」の前をいつも通ることにしていた。店先のショーウインドウにはレーズンパンの入った茶色の竹籠が置かれてあり、とても美味しそうに見える。優子はその前で立ち止まり、レーズンパンの数をかぞえるのだった。
「良かった、八つ残っているだけ」
とたんに笑顔になった優子はスキップをふみふみ家の方に向かった。
優子は覚えているのだ、幼稚園の帰り道、「パン屋のタナカ」のレーズンパンが十個残っていたら、悪い風邪がはやるのを。
「去年もそうだったし」
優子は木枯らしの吹く中、赤いマフラーをコートの上からぐるぐる巻きにしてつぶやく。
家に帰るとすぐに、「ちゃんとうがいと手洗いするのよ」母親の声がした。台所に居るらしい。優子は素直だ、言われた通り手洗いをし、うがいもする。水道の蛇口をひねると冷たい水が両手を濡らす。
「今日も冷たいね、お水さん」
優子はその冷たい水が悪い風邪から守ってくれる事も知っていた。だから、ていねいに指先まで洗う。コップの水でのうがいも念入りだ。
「虫歯ないもの」
優子は鏡の中の自分に自慢げに言う。笑うと歯の矯正治具がのぞいた。
「いやなの、これって」
慌てて優子は笑った口許を閉じた。
夕食は優子の大好物のカレーライス。飼い猫のガトと犬のペロがテーブルに下でおこぼれをねだっている。今夜も良い夢が待っていそうだった。
翌日、優子はいつものように「パン屋のタナカ」の前を通った。白い息が冬の寒さを教えてくれる。
「あれっ! レーズンパンが……十個」
優子はもう一度かぞえた。だが、やはりレーズンパンの残りは十個だった。
――悪い風邪が来る!
優子は逃げるように家に向かって走った。
家に戻るとペロがいきなり飛びついてきた。優子の今日のおやつがイチゴ大福なのをペロは知っている。イチゴ大福はペロの大好物だから。
それでつい優子は手洗いとうがいを忘れた。母親は裏庭で洗濯物を取り込んでいて、それに気付かなかった。
案の定、その夜、にわかに優子は熱を出す。悪い風邪につかまってしまったのだった。
「うがいと手洗いをしないから……」
母親は優子のおでこに熱冷ましシートを貼りながら言う。
――レーズンパンが十個残ったから、悪い風邪が優子のところに来たの。
優子はボーッとする意識の中で想っていた。
子供の熱はすぐに高くなる。深夜の救急病院に父親の運転する車で向かったのは、もう真夜中頃。診察、点滴をして薬をもらって家に戻ったのが午前三時過ぎ。
優子は翌日から幼稚園を休んだ。丸二日、優子はうつらうつらと悪い風邪と闘いながらベッドで過ごした。あちこちで学級閉鎖や学校閉鎖が始まっていた。
三日を過ぎて優子の風邪は落ち着いてきた。食欲も出てきている。
寝ていると母親が玄関を開けて家に戻ったのがわかった。すぐに階段を上がってきて、優子のおでこに手を当てる。
「お熱は下がったみたいね、優子」
母親は安心して一度階段を降りる。母親がまとっていた冬の冷たい空気が氷砂糖のような香りをさせながら、そこに残った。優子は「パン屋のタナカ」のレーズンパンの事を思う。
――今日はいくつ残っていたのかな?気になるな。
そこに母親がアツアツのスープと一緒にパンをトレーに乗せて戻ってきた。
「さ、優子、スープよ。パンと一緒にね」
見ると、そのパンは「パン屋のタナカ」のレーズンパンだった、
「このパン、優子、好きでしょ? 毎日、眺めているのを知っているのよ」
母親は笑う。
優子は勇気を出して聞いてみた。
「お母さん、お店にレーズンパンはいくつ残っていた?」
「そうね、そのパンを買った後は十個残っていたわ」
優子はがっかりした。
――これで、また、悪い風邪がいっぱい来る。
みるみるうちに優子の顔色はくもっていった。
「でもね、美味しそうだったから、お母さんも一つ買ったの。だから、残りは九つね」
母親はポケットから自分のパンを取り出してみせた。
とたんに優子の顔が明るくなった。
――悪い風邪はもう来ない!
優子は声を立てて笑った。
窓から射し入る冬の陽がほんのりと紅色に優子の頬を照らしている。ペロとガトが何事かと顔をのぞかせた。
それからしばらくして優子の住む街から悪い風邪はいなくなった。
了