一目惚れ
眩しさが消えたことで、海里は腕を下ろしながら目を開いて何が起きたのかを確認する。
「どこだ、ここは……」
建物に囲まれていた先ほどの路地裏ではない。下へ降りる階段のみがある洞窟のような空間。学校の教室ほどと思われる広さで、円形に近い丸みを帯びた部屋だ。天井部には黄みがかった白色を発する鉱石が突き刺さっており、この空間を照らしていた。
「……マジでなに、これ。転移させられるなんて、ファンタジーのお決まりかよ」
周囲を見渡しながら、海里は強張った表情で言葉を漏らした。
しばらく苦い表情をしていたが、何もしないでいても無駄だと思い、一度落ち着くために深呼吸をする。
とりあえず自宅に連絡しようと携帯電話を起動してみた。
「やっぱり電波はなし、か」
携帯電話には電波が届いていないことを知らせるように、アンテナが立っておらず、通信サービスを利用できない案内も出ている。
以前に読んだ異世界に転移する物語の中に同様の事象を描いていた作品があったので、海里の動揺は比較的小さいといえる。
携帯電話をズボンのポケットに入れた海里は、手を顎に当てて眉間に皺を寄せた表情でこれまでの出来事を思い出す。
「えーっと、整理すると、家に帰る途中で不思議な鳥に道を塞がれて、見つめてくるから見つめ返した。そしたらいきなり喋りだしたんだよな。んで、ついてこいと言われたからついて行ったと。その鳥を追いかけた場所で変な穴みたいなものを見つけて、その穴が光ったらこの場所にいたってところかな。……うん、まじファンタジーだわ」
記憶を呼び起こして、ここに至るまでの大まかな流れを整理すると、今回の出来事はファンタジーであるとの結論になった。
「はぁ~。ファンタジーなんて現実的じゃないけど、現状がコレだしな。一体何が起きてるんだ?」
ため息を吐いて、何が起きたのかを考える。だが、思考の渦に巻き込まれた時間は十数秒ほど。ぐぅ~っという音が、腹から鳴り響いたのだ。
日頃ならば晩御飯を食べ始める時間帯。今日は昼食を早めに食べているため、いつもより空腹になる時間が早かったのだろう。食べ物を欲している音が鳴り響いた海里は、周囲に誰もいないとはいえ、恥ずかし気な表情で腹に手を置いて考えることを中断した。
「ははは。確かにそんな時間だもんな。電話も繋がらないから、父さんも母さんも心配してるだろうし、皆でご飯を食べるためにも、早く帰ろうか。今日のご飯は何だろうなぁ」
現状の理解はできていないが、連絡が取れないことで両親へ心配をかけているだろうことは理解できているので、海里は帰宅への気持ちを強く持つ。
さらに、今日の食卓に並ぶ献立を想像する。オムライスにハンバーグ、焼きそばやラーメン、焼き飯、お好み焼き。海里の好きな食べ物を想像してはより帰宅の意思を強くする。
「とりあえず、現状がファンタジーってことは、これから起こることの理解は後回しにした方がいいな。それに、あの鳥の目的はここへの誘導ってことは分かった」
ファンタジー系統の創作物に日々お世話になっている海里は、理由の分からない事象でも後に明らかになるものがあることを知っている。中にはご都合主義解釈として『そういうものだから』で通す物語もあるが、海里は設定が作り込まれている作品が好きなタイプだ。
もちろん、すべての事象について設定が必要とは考えていない。海里の好みの範囲内である事象が対象である。その範囲内で設定が作り込まれていれば、物語の世界観に入り込めるのだ。
今回の出来事は海里の好みの範囲内。しかし不思議な鳥は、ついてきて欲しいと言う前に、『今は』という言葉を添えていた。それは、後に理解できる何かがあることを示しているのではないか。
そう考えた海里は現状の理解を後回しにすることを選んだ。喋る鳥が海里の名前を呼んでいたことからも、相手は海里のことを知っていることが分かる。そんな相手が案内だけで終わるとは思えない。接触する機会はまた訪れるだろう。
「あの鳥たちが何をさせたいのかは不明だけど、時間が迫ってるとか言ってたからな。見た感じ下りる道しかないみたいだし、この先に早く行って欲しいってことだろうな」
海里は階段を覗き込める位置まで進んで言葉を零す。階段の横幅は大人二人が並べる程だろうか。海里だけならば余裕をもって下りることができるだろう。奥からは淡い青い光が伺えるが、それが何かは分からない。
「……はぁ。本当にファンタジーの世界ならめちゃくちゃ怖いな」
携帯電話のライトを点灯しても奥は見通すことができない。この空間の光が届いている数段を見ると、足の踏み場が少し広くなっているので、踏み外すということはないように作られているようだ。
母親からの説教が嫌で外出することになったとはいえ、それが自分を心配してくれているがゆえであることを海里も分かっている。父親にしても、歩く時間を減らしてくれようとして自動車での送迎を申し出てくれるなど、優しく接してくれる。
そんな両親を海里は大切な存在だと感じている。家で自分の帰りを待っていてくれているだろう両親のためにも、海里は早く帰りたいのだ。だが、同じように恐怖を感じてもいる。
主人公が転移される物語も読んでいる海里は、現実世界が剣と魔法の世界だったら楽しそうだと考えたこともあった。だがそれは、最初からそれなりの強さがあったり、魔法があったり、努力して成長した後などの楽しめる条件が揃っているときだけ楽しそうだと思えるのだ。
今の海里は不思議な鳥に出会いはしても、謎の力に目覚めた感覚は特にない。ファンタジー世界に現状の海里が飛び込んでも楽しさなどなく、何が起きても対処ができないという恐怖を感じてしまう。
「ふぅ。よし、いくか」
海里は呼吸を整えて気合を入れた。分厚い書籍で身を守れるように、手に持っているレジ袋を自身の手に巻き付けて、気後れする足を踏み出して階段を一段ずつ下りていく。
前方は淡い光のみで耳に聞こえてくるのは判然としない小さな雑音。少しでも光が欲しくて、携帯電話の表示画面の明るさも最大にする。海里は恐怖で鼓動を早くしながらも、着実に前へと足を動かしていた。
最初の空間の明かりだけでは足元が覚束ない場所まで下りてきた頃、階下への入り口が見え始める。奥から放たれる淡い光の正体は、下の空間を照らす光で間違いないようだ。
「出口か!」
希望の光が見えたと感じた海里の踏み出す足が速くなった。
『……ゥグラアアァ!!』
「っ!?」
だが、急ぎ足で数段下りた辺りで、その足が止まってしまう。獣が吠える怒気の含んだ大きな音が、海里の耳に届いたからだ。
(うわ~、明らかに怒ってる声じゃん)
声を出せば気が付かれるかもしれないため、海里は言葉を心の中で漏らす。着ているTシャツは冷や汗でびしょ濡れになっている感覚がある。
それでも、家に帰るためには前に進んで手掛かりを探さなければいけない。その気持ちが勇気となって海里の足をゆっくりと動かしている。
海里は分厚い書籍を袋ごと掴んで、いつでも武器として使えるように準備をした。怒りを放つ声の主に鈍器が効くかは分からないが、無いよりはマシというものだ。
光が強くなって来たことで、足下も若干ではあるが見えるようになってきていた。ライトを消してポケットに携帯電話を入れる。明るさよりも片手が空いている方がいいと判断したからだ。
海里は手足に力を込めて震えを抑え込みながら階段を下りていく。数段下りた辺りで獣の声以外にも別の声が聞こえてきた。
ーーっふ!
海里が聞き取ったのは若い女性の声。力を入れるときに口から出る鋭く短い声。そんな声が聞こえた。
(ん、獣じゃない声が聞こえる? 女の人? 俺以外にも連れてこられた人がいたのか、それとも他の理由か。とにかく行くしかないか)
どのような人かは分からないが、自分の他にも誰かがいることに気持ちが落ち着いたのか、海里の恐怖は少し薄れる。
だが、未知の場所ということに変わりはなく、先程のように希望から恐怖へと変わる可能性もある。手足の震えは治まっているが、下りる速さはあまり変わらなかった。
そして、目的の空間を覗くことができる位置にまで到達した。
そこで繰り広げられている光景を目にして、海里の足がさらに遅くなり、階段を降りきるまで残り数段の場所で止まる。
「なんだ、あれは――」
学校の体育館よりも少し大きいくらいの空間。先ほどまでいた場所と同じように、天井には発光する鉱石が突き刺さっていた。薄く青みがかった白い光を放ち、目の前の部屋を照らしている。壁面は上層階と同じような作りとなっているようで、ゴツゴツとした岩が不均一に積み上げられたような壁だ。
そのようなことには目もむけず、海里は部屋で争っている存在に目を奪われてしまい、呆然と立ち尽くした。その存在は、四本の足で地面を蹴って走り回る獣と、常人離れした移動速度で走り回る少女。
獣の体長は5メートル程度であり、見た目はライオンに近い。だが、体表の色は毒々しい紫色で、首周りに生えている鬣と地面を蹴っている足は黒色だ。目は吊り上がっており、二本の長い牙を覗かせている口からは唸り声が聞こえてくる。四本の足も、体長に見合った太さをしているため、爪で引っかかれなくても、殴られたり蹴られたりすると誰も持ちこたえることはできないだろう。
異色の巨大ライオンともいうべき恐怖を感じる獣である。
そんな獣と同じ空間にいる少女は、高校生くらいの女の子だ。やや灰色がかった明るい青色の髪は腰に少し届かないあたりまで長く、髪をまとめるために何かのマスコットキャラクターがついているヘアゴムでポニーテールにしている。階段で聞こえた鋭く短い女性の声は、恐らくこの少女によるものだろう。
少女の装いは学生服のようにも見えるが、アニメや漫画などで着用されているコスプレ衣装に近い。全体的な色合いは淡い水色だが、胸元のリボンや袖口は鮮やかな緑がかった青色が使われている。膝丈のスカートはフリルで縁取られて可愛らしく仕上げられており、膝をも隠すソックスも履いているので、露出部分は少ない。
海里がこれから向かう先には、そのような獣と少女が戦闘といえる激しい攻防を繰り広げているのだ。
『グルアアァァァァ!!』
「……っふ。はぁ!」
獣が地面を蹴って少女に突進し、前足を振り下ろす。腰を落として待っていた少女は、獣の足が振り下ろされる直前のタイミングで横へと大きく一歩ズレて距離を空けた。そして、振り下ろし後の動きが止まった獣の足へと、腕を思いきり突き出した。
『ギャオウゥゥ!!』
少女の細腕で攻撃されたとは思えないほどの苦痛の叫びをあげながら、獣は仰け反って後退する。少女の腕と獣の足では太さにかなりの差があるのに、示された結果は獣の腕に攻撃が通るというものだった。
後退した獣には隙が生じる。少女はその隙を見逃さずに地面を蹴って攻勢へと出た。足の損傷が大きかったのか、獣は前進せずに風圧を伴う威圧の声を張り上げて少女の接近を拒む。だが、少女の一歩は常人離れした距離を進むことができ、多少の風圧では僅かに速度を鈍らせる程度でしかなかった。
少女は獣を攻撃できる距離まで近づくと、先程攻撃した足に狙いを定めて腕を振りかぶった。
「はぁ! っん!?」
獣も狙いを理解していたのか、少女の攻撃の瞬間に全身を横転させることで、少女を押しつぶそうする。そのことに腕を突き出す間際に気が付いた少女は、殴ることを止めて地面を蹴ることでその場から離脱した。
ドスンッという巨大な獣が倒れる音がする。獣は器用に体を回転させてすぐに起き上がった。少女も勢い余って数回転した後に立ち上がる。距離は空くことになったが、獣の腕を損傷させた分、少女の方が有利かと思われた。しかし、獣は損傷した前足で地面を踏み鳴らすことで、損傷が回復していることを示している。
獣は地面を蹴って突進して少女に近づき、牙や爪、腕を振るう。少女は獣の攻撃を避け、隙を突いて反撃を行う。だが、獣の体力の回復速度が高いので、戦闘は膠着状態になりつつあった。
目の前で繰り広げられる戦闘を目にすれば、誰もが驚きで固まるだろう。だが、海里が立ち尽くしていた理由は別にある。その理由を海里は無意識に口に出した。
海里の口から漏れ出た言葉。それは、
「めっちゃタイプ」
という言葉だった。
海里は少女に一目惚れしたのだ。
「え、なに、あの綺麗さと可愛さを兼ね備えたカッコいい女の子は。まじやばくね。女神? 天使?」
狭い通路で響かない程度のつぶやく音量ではあるが、海里の口からは様々な評価の嵐が巻き起こった。
少女の見た目の美しさ。獣に攻め入る姿勢と凛々しい表情。現状把握を忘れて見惚れるほど。
全体的に青色を基調としたコスプレ制服の可愛さ。一本にまとめられている艶のある髪の綺麗さ。空間を照らす薄い光によって美しさがさらに増している。そのうえ、端正な顔立ちである少女が戦闘モードの雰囲気を醸し出しており、相対する者の動きを見逃さないような眼差しには、少年の心を揺さぶる格好よさがある。
海里の魂が天使の矢に撃ち抜かれた場面であった。
女神の如き少女を見て呆けていた海里だが、突如として我に返る瞬間はくるものだ。
膠着状態を脱しようと、先に動いたのは獣だった。先ほどの戦闘と同じく少女に突進していき、少女を攻撃範囲に収めると、突進速度を落として腕を横薙ぎに払ったのだ。今までは振り下ろしの攻撃ばかりだったため、少女は行動のタイミングが遅れて獣の攻撃を受けてしまう。なんとか腕を上げて身を守ることはできたが、地面にバウンドを数回しながら、壁まで後数メートルという位置まで飛ばされてしまった。
「っ!? 助けなきゃ!」
そんな少女を見た海里は、身体が勝手に動いていた。
階段を下りていた時に感じていた恐怖が嘘みたいに、少女のもとへと走り出したのだった。
不明点等ありましたら、遠慮の欠片も不要です。
ここが分からない。何を言っているか理解できない。
ここが良かったなど、今後の参考にさせていただきます。