説教回避
春休み。
学年の区切りに与えられた、束の間の自由時間。苦手を克服するも、新しいことに挑戦するも、すべては本人次第――のはずだった。
上松海里、中学二年生。修了式を終えて春休みに突入した彼は、そんな建前とは無縁の、まさに「休み」らしい怠惰な生活を満喫していた。
この日、両親も仕事は休み。昼食を早めに済ませた海里は、リビングのソファに全身を預け、薄い毛布にくるまりながら本を読んでいた。
読んでいるのは、剣と魔法のファンタジー系ライトノベル。ページをめくるたびに頬が緩み、時折、くすっと笑いが漏れる。
「ホントに好きねぇ、そういう本」
ソファの向こうから呆れ混じりにそう言ったのは、母の鈴音だった。中学二年の海里よりさらに小柄で、童顔のせいか年齢を知らなければ二十代前半と錯覚するだろう。
「ん? ああ、まあね。魔法とか戦闘シーンとか、想像するのって楽しいし」
顔だけ向けて軽く返し、再び視線を本に落とす。
「分かってると思うけど、もうすぐ受験生になるのよ? いつまでもダラダラしてたらダメよ」
「分かってるってば。せめて今日くらい、ゴロゴロさせてよ」
学校から解放されたばかりの今くらいは、ゆっくりさせてほしい。それが海里の主張だ。
「そんなこと言ってたら、春休みがあっという間に終わっちゃうわよ。勉強をしろとまでいわないけど、せめて準備くらいしなさい。そうしたら何も言わないから」
「えー……成績悪いわけじゃないんだから、今日くらい見逃してよ」
確かに海里の成績は悪くない。定期試験では上位に入ることもある。しかしそれは、短期集中型間で詰め込んだ成果。模試や復習テストのように範囲が広がると、平均的な結果に落ち着いてしまう。
勉強は嫌いじゃないが、好きでもない。始めれば集中するが、その「始めるまで」が長い――それが海里の課題だ。
「定期試験と受験は別物なの。出題範囲が広い分、早くから準備しておかないと間に合わないのよ。ほら、お金渡すから、参考書でも見てきなさい」
母としては、やる気が出るなら投資は惜しまないらしい。
「後でやるってば。それに今日はほんと動きたくない……」
再び本に意識を戻しながら、ひじ掛けを枕にしてごろんと横たわる。
「……行ってきなさい」
「いーやーだー」
拒否の声にも熱はなく、目はまだ本に向けたまま。
「海里」
その一言。声が一段低く、冷静な分だけ怖い。
「っ……あぃ、行きますとも。行けばいいんでしょ……」
さすがに空気を読んだ海里は、ようやく折れた。
溜息を吐いて去る母の背中を目で追いながら、しおりを挟んで本を閉じる。毛布を脱ぎ、立ち上がって伸びを一つ。
夜着のままだったことを思い出し、自室へ戻る。タンスから無地で薄緑色の長袖Tシャツと黒の緩めのパンツを取り出し、春の気温に合わせた装いに着替える。
持ち物を確認し、再びリビングへ。
「はい、軍資金。ちゃんと使いなさいよ?」
「了解。行ってきまーす」
玄関に向かう途中、父・隼人が声をかけてきた。
「買い物行くんなら、車で送ってやろうか?」
海里より一回り体格の良い、健康的な中年男性。家では穏やかな存在だ。
「んー、歩いて行くよ。運動がてらってことで」
「そうか。夕方は買い物に行ってるから、鍵と携帯は忘れずにな。それと、晩御飯はちょっと遅くなるぞ」
「りょーかい!」
「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃい」
二人に見送られながら、海里は上着を羽織って玄関を出る。
外に出るのは面倒だと思っていたはずなのに、着替えて扉を開けて歩き出した今、気分は意外と悪くない。
まだ冷たい冬の風が頬を撫でるも、陽気な春の日差しで気持ちよくなりながら、近所の大型書店へ向けて歩いていく
道端には新芽の緑が映え、空は柔らかな青に染まっていた。
歩きながら、ふとポケットの中の財布を握る。
「さてと、どんな参考書なら“やる気”がでてくるのかな」
自嘲気味に笑いつつも、足取りは軽い。
そしてまだこのとき、彼は知らない。
この“説教回避”の外出が、奇妙な出会いと新たな日常の扉を開くことになるとは──。
不明点等ありましたら、遠慮の欠片も不要です。
ここが分からない。何を言っているか理解できない。
ここが良かったなど、今後の参考にさせていただきます。