45.修羅場
コツン……、コツン……、と緩慢なリズムで頼りなげなハイヒールの音が響いている。
オスカーに腰を抱かれていても、微かな笑みさえ浮かべずにただ虚ろな目で歩く。
夜会に参加している人たちは、私達に気付くと面白いくらいに距離を取って、怯えたような視線を向けてきた。
「……どうしましょう、楽しすぎて顔が保てないです」
「くくく、ハマるだろう」
会場の隅に腰を落ち着け、あまり表情と口を動かさないまま喋れば、招待客たちに背を向けたオスカーが遠慮なく表情を崩した。
「おっと。おまえの元両親が青い顔でこっち見てるぞ。意外だな」
視線をよそに向けたオスカーが片眉を上げた。
言われて虚ろな目のまま両親の姿を探す。
目が合った瞬間、思い切り逸らされ噴き出しそうになった。
恐らく、ネイサン発祥の噂を彼らも聞き及んでいるのだろう。
「完全に怯えてねぇかアレ」
「……あの人たち、実は結構信心深いんです」
「へぇ?」
「ここ一番の大きな取引の時とか、高名な占い師に日取りを決めてもらったりしていました」
人を人とも思わないような人達なのに、そういうものに頼るのが昔から不思議だった。
そういう親の姿を見てきたからこそ、私もオスカーが吸血鬼だという噂を信じて駆けつけてしまったのだけど。
「人を信じられないからこそ、埒外の力に縋りたくもなるのだろう」
「そういうものですか」
「知らん。適当に言った」
表情を殺しながら楽しく話していると、少し離れた場所で招待客たちがざわめくのが聞こえた。
オスカーが反射的にそちらを見る。
緩慢な動作しか出来ない私は、完全に出遅れてしまった。
「……あれ、おまえの妹じゃねぇか」
ゆっくりと視線を上げれば、渦中のど真ん中には確かにニコルがいて、なぜか床にへたり込んでいた。
その正面に、もう一つ知っている顔を見つけて眉根が寄る。
「あれは……ヘンリー・フィッツロイ様?」
「お? 揉め事か?」
名前を言った瞬間、オスカーがウキウキと色めき立った。
「ちょっと近くまで行ってみましょうか」
「おまえもだんだん俺のノリに染まってきたな」
私の提案に、嬉しそうにオスカーが言う。
どちらかというとオスカーが楽しそうな顔を見たい一心なのだけど、それも含めて確かに前より物見高い性格になった気はする。
楽しいことはオスカーと分かち合いたくて、自分から面白そうなことを見つけるのが好きになってきたのだ。
騒ぎの中心にゆっくりと近付いていく。
皆ニコル達に注目しているから、私達には気付いていない。
まだハッキリと内容までは聞き取れないが、どうやらヘンリーが一方的にわめいているようだ。
ニコルは得意の涙目で、時折首を横に振ってヘンリーの言い分を否定している。
「……あっ」
「どうした?」
その近くに、もう一人見知った人物が立っているのに気付いて小さく声を上げた。
「……ヘンリー様とニコルの間に立っている方に見覚えがあります」
「あの給仕の男か?」
「はい……一時期ヴィリアーズ家の従僕として仕えていた方です。ニコルのお気に入りでした」
おそらく今この屋敷で働いているのだろう。
給仕服に身を包んで、二人の成り行きを見守っている。
その顔は恐ろしいほどに整っていて、ニコルは片時も彼を離さなかった。
「なるほど。一瞬で状況が読めたぞ」
「奇遇ですね。私もです」
「あの男、アチャーって顔してるけど事の重大さわかってんのか」
「頭も口も軽いからと母にクビにされるような方でした」
「その話あとで詳しく聞かせろ」
ボソボソと軽口を叩き合いながら近づいていく。
「――この売女が!」
ようやく会話が聞こえる位置まで来て足を止める。
ここからは、ヘンリーがワナワナと震えているのまでよく見えた。
「一体何人と寝てきたんだ! それでよく処女のフリができたものだな!?」
「違います……! その方の言うことは全て嘘なんです……!」
「この厚顔無恥の大嘘つきめ!」
ニコルの涙ながらの訴えにも動じず、ヘンリーは悪鬼のような形相で責め立てる。
あの王子様然とした余裕のようなものは、どこかへ消え失せてしまったようだ。
「ずっと私を馬鹿にしていたのだろう!? 全部知っているんだぞ! こいつだけじゃない、マルティネス侯爵の息子と寝たこともな!」
「お? そっちは現在進行形か?」
「だとしたらたぶんですけど、その息子さんだけでなくもっとたくさんいると思います」
「タフな女だな……」
さすがに婚約してまで男遊びを継続させるとは思っていなかったから呆れてしまう。
けれどすでに浮気相手がいるというのなら、一人や二人の騒ぎではないはずだ。
「ずっとおかしいと思っていたんだ……あの男が言っていたことは本当だったんだ……あの化け物は見抜いていた……」
「え、もしかして俺のことか?」
「もしかしなくても伯爵のことですね」
「お前は清らかじゃない……お前は乙女じゃない……お前は汚い……」
ヘンリーがブツブツと何かに浮かされたように呟いている。
その目は狂気を宿しているようで、背筋に寒気が走った。
「ヘンリーさまぁ……信じてください……」
グスッ、としゃくり上げながらニコルが訴えかける。
その儚い美しさは、他人が見れば心を打ったかもしれない。
「この状況でもあれを貫くとは、おまえの妹もなかなか役者だな」
変なところでオスカーが感心して、なるほどそういう見方も出来るのかと私まで感心してしまった。
「ひっく、ヘンリーさまぁ……」
「うるさい! その汚い口で私の名を呼ぶな!!」
血走った目で叫んで、近くのテーブルから何かをつかみ取る。
複数の甲高い悲鳴が聞こえた。
その手には、肉切り用の大ぶりのナイフが握られていた。
「おいおいそれはさすがにやばいだろう」
にわかに焦りを滲ませたオスカーが、私を背後に庇うように一歩前に出た。
「殺してやる……お前を消せば私の汚点もなくなる……お前なんかいらない……」
「うそでしょちょっと……アーロ! あんたのせいなんだから助けてよ!」
騙すのは無理と悟ったのか、ヘンリーを刺激しないようにゆっくりと立ち上がってニコルが給仕の男に向かって叫ぶ。
「ええ!? 無理無理! あんたの股が緩いのは俺のせいじゃないし!」
完全に怖気づいた顔でアーロがじりじりと距離を取り、身を翻して逃げ出した。
「アーロ!」
ニコルが悲壮感たっぷりに叫んでもアーロは振り返らない。
元々信頼関係なんてゼロに等しい主従だったから、当然といえば当然だ。
「殺す……ふしだらな淫売が……私の身体を汚しやがって……」
「うそ、待って、違うの、今はあなただけ……!」
ヘンリーはアーロには目もくれず、ニコルだけを殺意の籠った目で見つめていた。
「うるさい! 嘘つき女に制裁を下してやる!」
「いやあぁぁー!!」
「なにをしている!」
ヘンリーがナイフを振り上げた瞬間、屋敷の警備が数人駆けつけてヘンリーを羽交い絞めにした。
「離せ! ふざけるな! 私を誰だと思っている! 捕まえるなら男を惑わすあの毒婦だろうが!」
ギリギリのところで止めに入った彼らと、引き摺られながら喚き散らすヘンリーを見て、ニコルがホッとした顔になる。
「ヘンリー様……私を愛するあまりおかしくなってしまったんだわ……」
それから流れるような自然さで涙をこぼし、悲劇のヒロインを演じ始めた。
「すげぇなあいつ……」
「我が妹ながら恐ろしいです……」
オスカーが畏敬の念を抱いたように呟く。
その剛胆さは私も見習うべきかもしれない。
けれど周囲を見ても、もうそれを信じる人間は一人もいなそうだ。
ニコルには軽蔑したような冷たい視線が集まり、誰も彼女を心配する様子はなかった。
すっかり白けてしまったために夜会はそこでお開きとなり、私達も早々に退散することにした。
帰りの馬車で、オスカーは至極楽しそうな顔で「最後に良い思い出ができたな」と上機嫌に言った。
普通の人だったら最後のパーティーだったのに散々だったとなるところだ。
オスカーのそういうところを、私は心から愛している。




