43.悪魔
「……そう言って優しく導いてやるのが良い大人なんだろうな」
きっぱり諦めるべきだ。
そう切り替えようとした私の思考を、オスカーの言葉が遮った。
「だが生憎と、俺は悪い大人なんだ」
「え……?」
さっきまでの優しい表情をガラリと変えて、悪人の顔で笑う。
「この関係を終わらせたくないのは俺の方だ。本当は手放してやるべきだと分かっている。そうしようと思っていた」
「きゃあっ」
開き直ったようなふてぶてしい表情で言い放って、戸惑う私の腰を抱き強引に引き寄せる。
「だがもうやめだ。おまえから離れそうになって、そんな綺麗ごと言ってられねぇと分かった。他の男なんか知るか。この先訪れるだろう出会いなんて全部ぶち壊してやる」
乱暴なことを言って、自信たっぷりに笑う。
その表情に、言葉に、私の胸の内がどんなに荒れ狂っているのかこの人は分かっているのだろうか。
「この先どんないい男が出てこようが、誰よりもおまえを幸せにすると決めた。後悔なんか絶対させないように」
断定口調で言い切って、オスカーが満足げな顔をする。
それから混乱して何も言えなくなった私を見て、苦笑した。
「全部にケリを付けたらもっと格好良く言うつもりだった。だがおまえの行動に急かされて、焦って、結局泣かせた」
涙を優しく拭いながら、自嘲するようにオスカーが笑う。
「情けないだろう、誰もが恐れる吸血鬼が小娘の言動ひとつに振り回されて」
頬に手を添えて言われて胸が苦しい。
だけど嫌な苦しさではなかった。
「お前が好きだよ。フレイヤ。だからもう離れようとするな」
真っ直ぐに言われて心臓が止まりそうになる。
また揶揄われているのだろうか。
だけどオスカーの目に嘘の色はない。
私と同じ、焦がれすぎて苦しんでいる目だった。
「っ、……はい」
信じられない気持ちで頷く。
その瞬間、強く抱きすくめられて息が詰まった。
同じくらいの強さで抱き返すと、また涙が溢れてオスカーの服に染み込んでいった。
どれくらいそうしていただろうか。
ようやく心臓の音が少し落ち着いてきて、涙が止まった。
オスカーは何も言わないままで、私は少しずつ現実味を実感しつつあった。
だんだんとこの状態が恥ずかしくなってきて、また心音が速まっていくのが居た堪れなくなってくる。
「……でも、本当にいいのでしょうか」
抱き合ったまま、くぐもった声で問う。
「何がだ」
オスカーは体勢を変えないまま、やや不服そうな声で問い返してきた。
「だって、私には爵位も何も」
「そんなの気にする人間が吸血鬼の噂を意気揚々と広めると思うか」
もっともなことを言って、それからまたすぐに黙ってしまう。
腕の力は少しも緩まず、それがオスカーの気持ちを強く表しているようで胸が引き絞られるように痛んだ。
このままだと私の心臓は本当に壊れてしまいそうだ。
「……お父様が許してくださるでしょうか」
耐え切れず再び口を開く。
今度は少しの間が空いたあと、小さなため息が聞こえた。
「……長年住んだ自分の屋敷を勝手に塗り変えられても『思い切ったな』としか言わない男だぞ。そもそも王都に行きたくないからって息子を身代わりにするような貴族社会舐め腐った人間の何に気を遣えというんだ」
億劫そうな口調で呆れたように言う。
情熱的なまでに抱きしめてくれるのに、どうしてこんなに不機嫌そうなのだろう。
経験がなさ過ぎてオスカーの心情がよく分からない。
「んなことよりもうちょい余韻に浸らせろ」
「でも」
このままでは嫌われてしまう。
焦って言い訳めいたことを言おうとして、開きかけた口をオスカーの親指が阻止した。
「もういいから黙れ」
「んっ」
抱擁が緩むのと同時に顎を掬い上げられ、唇を塞がれる。
一瞬で頭が真っ白になって、続けようとした言葉が全部飛んでしまった。
キスをされたのだと、気付く間もなく触れるだけのそれが何度も繰り返される。
「……っは、まっ、……待って、オスカー、……さまっ」
呼吸のタイミングも掴めず、オスカーにしがみ付くのが精一杯だ。
私が必死で絞り出した言葉も聞こえないみたいに何度も口付けられて、頭の芯が痺れていく。
何も考えられなくなるまで、一分もかからなかった。
気持ちが良くて、頭がフワフワして、全身の熱が上がっていく。
身体が震えて、オスカーに縋る手にも力が入らなかった。
「おっと」
足の力が抜けて、カクンと崩れ落ちそうになるのをオスカーの手が支えた。
そのまま抱え上げられてソファに運ばれる。
「ごめんなさい……」
「いや、謝るようなことじゃねぇだろ」
オスカーが苦笑する。
朦朧とした頭で背凭れに体重を預け、ようやく深く息を吸えたことに安堵する。
心臓はバクバクとうるさくて、オスカーが隣に腰を下ろしただけで飛び上がりそうになってしまった。
「しつこくして悪かった」
謝られてもよく分からない。
ただただ気持ち良かっただけなのに。
「ずっと我慢してた反動がきたわ」
「がまん……?」
熱に浮かされたような頭でなんとか口を開く。
「オスカーさまはこんなきもちいことをがまんしてらしたんですか?」
今、私はちゃんと喋れていただろうか。
頭も呂律も回っていない。
「おまえは本当に……」
オスカーが頭を抱えて沈黙する。
彼が何を言おうとしたのかは分からなかったけれど、少し距離があるのが寂しくてオスカーの肩にそっと頭を乗せた。
オスカーが深いため息をつく。
なんだかよく分からないけれど、いろんな葛藤があるらしい。
「あの……」
思い悩んでいるところに言うのは大変申し訳なかったけれど、モジモジしながら口を開く。
「もう、大丈夫です」
「あ? ああ、もう立てるなら部屋に戻るか」
私の言葉に、オスカーが顔を上げた。
妙に疲れたような顔をしている。
「そうではなくて……」
袖を掴んでオスカーを見る。
もう眠たいのかもしれない。
おやすみを言って、オスカーの言う通り素直に部屋に戻るべきかもしれない。
そう思いはするけれど、口をついて出たのは別の言葉だった。
「もう座っているので、さっきみたいにフニャフニャになりません」
気持ちが良かったのだ。本当に。
キスがこんなにいいものだとは思いもしなかった。
「だから、もっとしたいです……」
はしたないことを言っているだろうか。
もうよく分からない。
でもオスカーも我慢してたと言っていた。
私がしたいなら、誰も我慢する必要はないのではないか。
そんな想いを込めて言うと、オスカーは再び頭を抱えて唸った。
「……俺が吸血鬼なら、おまえは夢魔の類だ。間違いない」
よく分からないことを言ってから私を膝に抱え上げ、私の望む通りにキスを再開させてくれた。
ただひたすらに繰り返すその行為は、私が寝落ちするまで続いた。
翌朝目が覚めると、いつの間にか自分の部屋のベッドの上だった。
枕元には何故かオスカーの筆跡で「おまえは悪魔だ!」と走り書きされたメモ用紙が残されていた。
隅っこにはオスカーに少し似た泣き顔が描き添えられていて、思わず小さく噴き出してしまった。
どうやら私の一日は、「ごめんなさい」と頭を下げることから始まりそうだ。




