42.告白
「さっぱりしたか」
「はい。おかげさまで」
タオルで髪を拭いながら談話室に入ると、中で待っていたオスカーがわざわざソファから立って私の前まで来てくれた。
「ミラはどうした」
髪がロクに乾いていないことを不思議に思ったのか、私の手からタオルを取ってオスカーが首を傾げる。
「早くジャムを落としたそうだったので、あとは一人で大丈夫ですってお断りしてきました」
「ははは、帰るなり真っ先に俺のシャツを剥ぎ取っていったもんな」
笑いながら優しい手つきで私の髪を拭いてくれる。
嬉しいし幸せなのに、少し暗い気持ちになって俯いてしまった。
こんな贅沢な日々も、あと少しで終わってしまうのだ。
ネイサンを撃退する作戦は大成功で喜ばしいことなのに、もうきっと関わって来なくなってしまうのだろうと思うと素直に喜べない。
一番の厄介事が片付いたというのに、これでは本末転倒だ。
私の目的はネイサンと縁を切ること。
そしてオスカー達を解放して、程良い距離で友人関係を続けること。
それなのに。
「どうした……?」
オスカーが少し腰を屈めて、心配そうに私の顔を覗き込む。
「あっ、いえ! さすがに少し疲れてしまったみたいで」
慌てて明るく答えれば、オスカーが安心したように表情を緩めた。
「ああ。頑張ったもんな。なかなかいい演技だったじゃねぇか」
タオルの上から労うようにポンポンと頭を叩いた。
「オスカー様も熟年の演技力が光っていました。俳優さんになれるのではないですか」
「悪かねぇがあれは決められた演技を繰り返すだけだろ。俺には即興演劇の方が性に合ってる」
「あはは。今日もそうでしたね。台本にないセリフが出てきて慌ててしまいました」
ざっくりとだけど決めていた会話の流れを、オスカーが急に変えてきた時は焦った。
それもまるで私の心を読んだかのようなセリフだ。
ジャムの血糊や付け歯の仕込みも私へのサプライズで黙っていたような人だから、セリフを変えたのも私の反応を楽しむためだったのだろう。
決められたことで手一杯の私には真似できないことだ。
たぶん深い意味のない、思い付きのセリフだったのだろうけれど、動揺するには十分だった。
「ああ」
オスカーが緩く笑みを浮かべて、私の頭からタオルを外す。
「本当のことを言ったからか」
「…………え?」
言葉の意味を一瞬理解しそこねて聞き返す。
オスカーの笑みは崩れないままで、けれど目が笑っていないように見えた。
「さっさと終わらせたがっているだろう」
「それは、だって……」
ストレートに指摘されて言葉に詰まる。
否定するようなことではないはずなのに、責めるような口調に感じるのはどうしてだろう。
面倒事が早く片付くのは、オスカーにとっても悪くないことのはずだ。
「俺から離れようとしていることくらい分かるさ」
ため息交じりに言われて何も言えなくなってしまう。
「無理をさせてたなら謝る。揶揄われるのが嫌ならやめる。だから不満があるなら言え」
「そんなもの、ありません」
「おまえが嫌がることはしたくない。変に遠慮するな」
「そうじゃ……なくて」
心配するような、気遣うような表情でオスカーが言葉を重ねる。
だけど彼は何も悪くない。悪いのは私で、オスカーにはどうにもできないことなのだ。
「家族やあいつに言えなかったこともちゃんと言え。俺たちはもう仲間だろう」
「違うんです!」
優しく肩に触れられて思わず大きな声が出てしまう。
オスカーは驚いたように手を揺らしたが、離すことはしなかった。
「……無理なんてしていません。揶揄われるのだって、オスカー様が笑ってくれるのが嬉しいからいいんです。不満なんて、あるわけがないです」
泣きそうになりながら答える。
肩にあるオスカーの手に自分の手を重ねた。
「なら、どうして」
オスカーが苦し気に眉根を寄せる。
正直に言うべきか迷いかけて、その表情を見て言うべきだと悟った。
彼に自分を責めるようなことをさせたくなかった。
私はこの手を失ってしまうのか。
重ねた手の感触を確かめながら、悲しい気持ちで口を開く。
「……好きになってしまったんです」
オスカーの顔を見ていられなくて顔を伏せる。
「恋人のフリをするのが、宝物みたいに触れられるのが、辛くなったんです。このままじゃ離れられなくなりそうで嫌だったんです。オスカー様に執着して、ネイサンみたいになりそうで怖かったんです」
一気にまくし立てて、自分の愚かさを改めて自覚して呪いたくなる。
「呆れられて嫌われる前に離れたかった。面白い奴だったと、いい思い出にしてもらえるうちに終わりにしたかった。それだけです」
オスカーは何も言わない。
反応に困っているのだろう。
善意で助けた女に懸想されて、面倒なことになったと思っているかもしれない。
だけどここまで言ってしまったのなら、もういっそ全部ぶちまけてしまいたかった。
「本当の恋人になろうなんて企んでたわけじゃないです。いつか絶対離れなきゃいけないって分かってたから。だけど止まらないんです。もっと触りたいとかもっと抱きしめてほしいとか思ってしまうんです。浅ましくてはしたないのは分かっています。でも」
恥ずかしいことを言っている自覚はある。
今まで誰かにこんなことを思ったことなんてない。
ニコルの奔放な振る舞いを、冷めた目で見ていたはずなのに。
「今なら少しくらいは許されるんじゃないかとか、変な自信がついちゃったせいで、でもこれはシキが全部やってくれたことで、それもオスカー様のご指示ですし。ずっと優しいのも私に同情してくれてネイサンを追い払うまでのことだし、この関係が終わったらそれも全部なくなっちゃうのに、ここを出たらシキもみんなもいなくなって元通りの無価値な女に戻ってしまうのに」
耐え切れず涙がこぼれる。
思考はまとまらず、これ以上はもうまともに喋ることも出来そうにない。
「……だから、オスカー様は悪くありません」
支離滅裂な言い分を無理やり締めくくって、雑に涙を拭う。
これ以上同情を引くのは卑怯だ。
ああ、言ってしまった。
後悔はなかったけれど、沈黙が続いて居た堪れない気持ちになってくる。
それから長いため息が聞こえて、今すぐこの場から消えたくなった。
「……全部俺が悪い」
重い口調でオスカーが言う。
「そんなことっ」
慌てて否定しようと顔を上げると、オスカーが真剣な顔で私を見ていたことに気付いて口が止まる。
「今のおまえの価値は、そのまま全部おまえが元から持っていた価値だ」
タオルで私のぐちゃぐちゃな顔を丁寧に拭いながら、オスカーが言う。
「泣きはらして腫れた目をしてても、風呂上がりでボサボサの頭でも、おまえは美しいままだ」
生乾きのほつれた髪を、優しく指で梳きながら優しく笑う。
「それは、だって」
「少なくとも俺はそう思ってる」
すべてシキのおかげだと、否定しようとしたのを思いがけず強い口調で遮られて口籠る。
「……ずっと、そう思っている」
私が怯えて黙ったと思ったのか、静かに言い直してオスカーが私の頬にそっと触れた。
「おまえの気持ちには気付いてた」
オスカーがゆっくりと言う。
なんとなくそんな気はしていたけれど、本人から直接言われると顔から火が出そうなほどに恥ずかしい。
「だがその想いは偽物だ。おまえは虐げられ続けた人生で初めて優しくされて、絆されちまったんだ。離れようとしたのは正解だ。俺から離れればそんな感情、すぐになくなる。ここで自信をつけて一人で歩くことを覚えれば、いずれおまえを愛する男が現れるだろう。一人や二人じゃない。何十人だっておまえを本気で愛する男はいる」
オスカーが慈愛に満ちた表情で言う。
私の恋心に引導を渡そうとしているのだろう。
優しく励まして、落ち込まないようにしてくれている。
そう気付いて、私はこの恋に終止符を打つ時が来てしまったのだと理解した。




