40.悲鳴
「――小僧、言ったはずだぞ」
「ひっ」
突如聞こえた声に、ネイサンが甲高い声を上げた。
「俺のものに話しかけるなと」
「ひぃ!」
静かな怒りに満ちた声に、ゆっくりと目を開ける。
「な、なぜ……どこからっ」
ネイサンは私の背後に視線が釘付けになったまま、じりじりと後退っていく。
私のすぐ後ろに立ったオスカーは、いつの間にかマントを羽織っていて全身真っ黒だ。
勝利を確信して興奮しきったネイサンの曇った目には、彼が屋敷の明かりの届かない闇の中から忽然と浮かび上がったように見えたはずだ。
「懲りない男だ」
「ひ、ひぃ」
苛立ちの滲む声でオスカーが言う。
助けを求めるようにこちらを向いたネイサンを、冷めた目で見返した。
何故この状況で私が助けてくれると思えるのだろう。
オスカーの出現に一切の動揺もないのを見て、ネイサンは私にまで怯えた顔をした。
「くはは、今にも気絶しそうな顔をしているな」
オスカーが愉快そうに笑う。
その口許に、鋭い犬歯がちらりと覗いたのが見えたのか、ネイサンがますます青褪める。
「人間の真似事も楽しかったがな。貴様に汚されるくらいなら、おしまいにしよう」
背後から伸びてきたオスカーの手が、私の顎へと触れる。
優しく顔を傾けられて、窓から漏れるわずかな明かりに私の喉元が晒された。
「悪いな、フレイヤ」
ネイサンに向けたのとは違う甘ったるい声で、オスカーが歌うように言う。
私は頭をオスカーの肩に凭れさせながら、ゆっくりと目を閉じた。
「いいえ……ずっとあなたのものにしてほしかった」
うっとりとした口調で言うと、首筋にそっとくちづけが落とされた。
「いいこだ」
低い声が満足そうに言って、もう片方の手が首筋を這う。
「ひっ、ひぃっ」
ネイサンが情けない声を上げながら、少しずつ後ろへ退っていく。
踵を返して今すぐ逃げればいいのに、怖いもの見たさもあるのか視線は固定されたままだ。
首筋にオスカーが噛みつく。
「あっ……」
尖ったものが皮膚に食い込む感覚に、思わず声が漏れる。
同時に、とろりと粘性のある赤い液体が流れ落ちていった。
「ひいいぃぃっ!!」
逃げようとして腰が抜けたのか、足を縺れさせながらネイサンがその場にへたり込む。
全身がガクガクと震えて、立つことさえままならないようだ。
「……あまりオイタが過ぎると干乾びるまで吸い尽くすわよ坊や」
「ぎぇっ!」
艶のある色っぽい女の声に、大袈裟なほど大きくネイサンの身体が跳ねた。
私達に気を取られている隙に音もなく近付いてきたミラが、屈み込んで彼の耳元で囁いたのだ。
彼女は喪服のような真っ黒な衣装を身に纏い、黒いベールの隙間から覗く赤い唇が楽しそうに歪む。
「ひぃっ、ぁわっ、わぅ」
手を地面について、必死の形相のネイサンが四つん這いで逃げ惑う。
「ひわぁっ!」
その先で、何かにぶつかってドスンと尻もちをついた。
見上げた先には、こちらも真っ黒な衣装に身を包んだバートンが無言で立っていて、その巨躯にネイサンが声もなく戦慄いた。
ドサリと、トドメのように私が地面へと倒れ伏す。
ネイサンはその場で泡を吹いて気絶した。
* * *
会場には戻らず、四人で馬車へと乗り込む。
御者席にはバートンが座り、ミラもその隣に座ったため、四人乗りの座席には私とオスカーだけだった。
しばらく沈黙が続いて、夜道の中に馬車を走らせる音だけが響いていた。
「……っふ」
「くくっ」
噴き出したのは同時で、すぐに車内が笑い声で満たされた。
「見たかあいつの顔」
「あんなに情けない悲鳴を聞いたのは初めてです……」
言いながら目元を拭う。
涙が出るほど笑ったのも人生で初めてだ。
実家に居るときは、人を出し抜いて陥れて平気な顔をしていた家族を理解出来なかったはずなのに。
まさか人を騙すのをこんなにも楽しいと思える日がくるなんて。
「おまえの作戦がこうも上手くハマるとはな」
「ミラさん達がとってもいい味を出してくださったおかげです」
くすくすと笑いながら、ミラとバートンの怪演ぶりを思い出す。
バートンなんて一言も発していないのに、ネイサンは一番怯えていたように思う。
「俺もなかなかだっただろう」
「ええもちろん。板につきすぎて、私まで怖かったです」
たぶんオスカー達と知り合う前に同じことをされたら、心臓が止まるほどの恐怖を味わっていたことだろう。
私の時はあの程度で済んで、本当に良かった。
「ふふん、これだから吸血鬼のフリはやめられないんだ」
オスカーが心底楽しそうに言う。
今日の計画は、私が言い出したことだ。
成功するか朝から不安だったけれど、やって良かったと胸を撫で下ろす。
自分の考えたことで、オスカーが喜んでくれるのが心から嬉しかった。




