39.企み
「はあ……」
グラスを片手にため息をついて俯く。
今日はせっかくの舞踏会だというのに、一度も踊らず会場の隅にいて人のダンスを眺めているだけだ。
ネイサンと話してから、もう二週間が経っている。
それ以来彼とは顔を合わせていない。
諦めたという言葉の通り、今日まで何も接触はなかった。
「浮かない顔をしているな」
軽食を皿に載せて戻ってきたオスカーが言う。
慌てて顔を上げ首を振る。
「そんなことありません」
すぐに微笑を作って否定をしても、オスカーは信じてくれた様子もなく眉間にシワを刻んだ。
「今、何を考えていた」
低い声で聞かれて、答えられずにまた俯く。
大広間に流れる音楽も、楽しそうな人の声も、今の私の耳には遠く聞こえた。
「……何も」
「嘘をつくな。ここのところずっとそんな顔をしている」
オスカーが苛立たし気に言う。
「フレイヤ」
責めるような口調にびくりと肩が跳ねた。
オスカーにこんな乱暴に呼ばれたのは初めてだった。
「……あいつと話をしてからだ」
「っ、違います!」
「違わない。俺を騙せると思うな」
咄嗟に顔を上げると、オスカーが苦し気な顔で私を見ていた。
「戻りたいのか」
「……そんな、こと……っ」
短く問われてゆるく首を横に振る。
けれどハッキリとは口にしない私に、オスカーが焦れたように顔を歪めた。
「あいつのことを考えていたことくらい、俺にも分かる」
「わ、私はただ」
「俺のところに来たことを後悔しているのか」
「後悔なんてっ」
「しているんだろう。だから急いでたんだ。早く俺から離れようと」
断定口調で言われて何も言えなくなる。
急いでいたのは本当だ。早くオスカーの手から離れようと思ったのも。
それを思いがけずこのタイミングで指摘されて、言うべきセリフが出てこなくて言葉に詰まる。
「フレイヤ」
オスカーが私に近付こうと一歩踏み出した。
頬に触れようと伸びてきた手を避けて反射的に後退ると、オスカーが悲し気な顔をした。
「ごっ、ごめんなさい……」
咄嗟に謝ったけれど、差し出された手は力なく戻っていった。
何か言い訳をしようとしたけれど結局ただ俯いて、オスカーの目を見ないまま背中を向けた。
「……少し、頭を冷やしてきます」
沈黙に耐え切れず、振り返らずに歩き出す。
会場を出ても、オスカーが追ってくる気配はなかった。
* * *
屋敷の庭に出て、深く息をする。
広い敷地だが、外の明かりは少ない。
建物から少し離れると、窓から漏れる明かりはすぐに届かなくなった。
夜会は盛り上がっていて、退屈を感じて庭に出る人もいなくて、私一人だった。
ふるりと身震いをする。
春が近いとは言え、夜はまだまだ寒い。
せめて上着を持って出れば良かった。
後悔してももう遅かった。
背後から足音が聞こえてぎくりと身体が固まる。
ゆっくりと振り返ると、建物からの明かりを逆光に、人影が立っているのが見えた。
ごくりと息を呑む。
人影が近づいてくる。
すぐにそれが誰かわかった。
「……ネイサン」
「やあフレイヤ」
名前を呼ぶと、優し気な声でネイサンが微笑みを浮かべた。
「どうしてあなたがここに……?」
問いかけに答えず、ネイサンは距離を詰めてくる。
今日この夜会にネイサンは招待されていないはずだ。
ミラが調べてくれたからそれは確実だ。
それなのにネイサンは、私が一人になるのを見計らったかのようなタイミングで現れたのだ。
「……やっぱりそうだった」
「な、なにが……?」
ネイサンの確信に満ちた口調がどこか狂気を感じさせて、声が掠れる。
「あんな男、ただの当て馬だったんだろう? ニコルとのことで嫉妬したから、可愛い仕返しのつもりだったんだろう。まったく困ったやつだ。そんなことをするから話がややこしくなる」
「仕返しだなんて、そんな」
「いいんだ分かってる。お前は昔からそうだ。僕の気を引くために、僕を怒らせるようなことばかりする。そんなことしなくても僕はお前をちゃんと愛している。愛しているんだ、フレイヤ」
すぐ近くまで来て、逃げられないようにか私の腕をがしりと掴む。
その力の強さに思わず顔をしかめた。
「いたい! 離してネイサン!」
「ああ本当に綺麗だフレイヤ。痛みに歪むその顔も素敵だ。どうしてもっと早くその顔を見せてくれなかったんだ」
うっとりと笑う顔にゾッとする。
「あの男とは別れるんだろう? ああ、元々付き合ってなんかいなかったのか。僕から求められたくて嘘をついていたんだもんな」
「違う! 私は伯爵を愛してっ」
「うるさい黙れ!」
怒鳴りつけられてびくりと身体が竦む。
「聞いてたんだぞこのクソ女! 僕の気を引けたことに満足してあいつを捨てようとしてただろうが! だからお前を迎えに来てやったんだ!」
ギリリと手首に力が込められて、痛みに涙が滲む。
頑張って鍛えたはずなのに、その手を振りほどくことは出来なかった。
「あいつだって気付いてたじゃないか! お前がずっと僕だけを愛してるってことに! 戻りたいんだろう!? なら跪いて許しを請えよ! 身の程知らずが僕を試すような真似しやがって!」
血走った目で怒鳴り散らすネイサンに歯を食いしばって耐える。
こんなことで泣いたりはしない。
誰も見ていないところではずっとこうだった。
泣けばますますネイサンの罵倒がひどくなるのは分かり切っている。
やはりあの時の態度は演技だったのだ。
確信して、キッと顔を上げて睨みつける。
「私が愛しているのは伯爵だけ。捨てられるのはあなたの方よ、ネイサン」
きっぱりと言い放つと、ネイサンの顔が憤怒に染まった。
右腕が振り上げられる。
殴られたって構わない。
慣れた痛みを覚悟して、私は固く目を閉じた。




