38.自分でできること
「明日はあいつが来るが大丈夫か」
談話室のソファで、オスカーが私の肩を抱くようにして髪をいじっている。
なんてことない口調を装っているけれど、心配してくれているのはすぐに分かった。
「ええ。問題ありません」
くるくると指に髪を巻き付けて遊んでいるのを、くすぐったく思いながらそう答える。
明日の夜会はそこそこに規模も大きく、人気があるから多くの参加者が見込まれている。
そんな中で、いくらネイサンでも強引に復縁を迫ってくるようなことはさすがにないはずだ。
「むしろ少し話してみようかと思っているのですが」
前回と違って、今回はネイサンが参加するという前情報がある。
心の準備は万端で、前みたいに動揺することもない。
だとすれば、私にだって彼ときちんと話し合うことが出来るかもしれない。
「本気か?」
眉を顰めながらオスカーが問う。
髪で遊ぶ手を止めると、するりとほどけていった。
「ニコルだって話し合いでなんとかなりましたし」
「あれを話し合いと定義するか」
私が肩を竦めながら言うと、オスカーが笑った。
「夜会の最中であれば人目もありますし、無茶なことはしないかと」
「しかしわざわざ話し合いなんて」
「ブラッドベリ伯爵とヴィリアーズ子爵家長女の噂はすでに社交界中に広がりましたし、これ以上は見せ付けるだけではなかなか諦めてくれない気がして」
ミラが調べたところによると、ベアリング家の嫡男が新たな婚約者を探しているという話はないらしい。
それどころかこちらの動向を探るような動きがあるし、遭遇を阻止するために使用人たちが頑張ってくれている。
ということは、まだ私に執着しているはずだ。
ニコルはもうヘンリーに夢中のようだし、ネイサンとは連絡を絶ったのかもしれない。
だから私がヴィリアーズ家と縁切り宣言をしたことも伝わっていないのだと思う。
このままでは、これ以上進展せずに社交シーズンが終わってしまう。
長引けば長引くほどオスカー達に迷惑が掛かってしまうのだ。
「だが、俺が近くにいたら寄ってこないだろう」
「だからその、少し離れていただいて」
「嫌だ」
思いのほか強い口調で言われてオスカーの顔を見る。
不機嫌そうな顔だ。
「ほんの少しだけです、見えるところにいてください」
その子供みたいな表情に苦笑しながら言うと、オスカーはムッとした顔のまま返事をしてくれなかった。
「守られてるばかりの女って、ネイサンに舐められたくないんです」
私の正直な気持ちを言えば、オスカーがようやく表情を緩めてくれた。
「……話が聞こえる範囲にいるからな」
ということはわりとすぐ近くということか。
そんなに私は頼りないだろうか。
思わず笑いそうになった時、オスカーが私の頬にそっと触れた。
「ずっと見張ってる」
真剣な表情で、揶揄いの気配などまったくない口調でオスカーが言う。
「おまえが傷付けられることのないように」
労わるように頬を撫で、心配そうな顔で言われて胸が高鳴った。
「……大丈夫」
少し泣きそうになって、誤魔化すようにオスカーに抱き着く。
「オスカー様がいてくれるから、怖くありません」
本心からそう思う。
オスカーが本気で心配してくれるからこそ、ネイサンに立ち向かうことが出来るのだ。
今ならネイサンに殴られたって、笑いながら「最低ね」って言ってやれそうだ。
「はあ……なんだか急に強くなっちまってまぁ……」
オスカーが困惑したような声で言って、緩く私の身体を抱き返す。
「あんま無理すんなよ」
「無理なんて」
「なんか、妙に急いでねぇか最近」
笑って否定しようとしたところで指摘されて、ドキっとする。
やっぱりオスカーは鋭い。
ネイサンとのことなんて早く解決して、オスカー達を解放してあげたい。
そう決意して以来、自分からも積極的に動くべきだと試行錯誤中だ。
その気持ちをなんとなく見透かしているのだろう。
「ふふ、甘えてばかりでは格好悪いですしね」
だけど正直に打ち明けたりはしない。
そんなことをしたら、オスカーが気を遣って「そんなこと気にしなくていい」なんて言って優しく笑うから。
「おっさんは甘えられたい生き物なんだよ」
「オスカー様はおじさんではないので、程々にしておきます」
冗談を言うオスカーに笑いながら返して、抱き着く腕に力を込めた。
* * *
会場の向こう側から視線を感じて顔を上げると、何か言いたそうな顔でこちらを見ていたネイサンと目が合った。
「……いましたね」
「こっちすげー見てんな」
同時に気付いたオスカーが、嫌そうに顔をしかめる。
「本当に行くのか」
「ええ。見守っててくださいね」
まだ止めたそうなオスカーを安心させるように微笑み、ネイサンのもとへと歩き出す。
私から近付くとは思わなかったのか、ネイサンは目を軽く見開いた。
「……久しぶりね」
声を掛けると、ネイサンはチラリと私の背後に視線を向けた。
少し離れた場所から、隠す気もなく敵意の籠った気配を放つオスカーを気にしているのだろう。
「ひ、久しぶり……」
「少し痩せた?」
当たり障りのないことを口にして、少し探りを入れる。
前回遭遇してから二ヵ月は経っただろうか。
ネイサンは心なしか疲れた顔をしていて、いつもの傲慢さは鳴りを潜めていた。
「その、この間は本当にごめん。君しか見えてなくて、伯爵にも失礼な態度をとってしまって……」
申し訳なさそうに背を丸めながらネイサンが言う。
思いのほか穏やかな会話ができそうでホッとする。
やはり周囲に人がいるから、体裁を気にしているのだろう。
「もういいの。でも、分かってほしい。もうあなたと結婚する気はないって」
まっすぐに目を見て話す。
そういえば緑色の目をしてたんだっけと、関係ないことに気付く。
もうずっとこの人の目を見られなかったんだなと、今更なことを思った。
「大切な人がいるの。彼以外は考えられない」
「うん……彼とのことはいろんな人からたくさん噂を聞いたよ」
悲しそうに微笑んでネイサンが言う。
それから少し揶揄いを含んだ苦笑が浮かぶ。
「ずっとべったりなんだって? 驚いたな」
「……そうね。一秒だって離れたくないの」
オスカーに聞こえているのかと思ったら恥ずかしいけれど、本音を混ぜて答える。
下手な誤魔化しを入れれば疑われてしまうし、オスカーはきっと演技だと思ってくれるはずだ。
「僕といるときは絶対そんなことしなかったから。人前で触れ合うことなんて、一度もなかった」
ネイサンは過去を思い出すような遠い目をした。
確かに今までの私だったら人前で恋人関係を誇示するようなことはしなかっただろう。
「君は真面目で、結婚前の触れ合いはずっと拒否していたよね」
「……そうかもしれないわ」
だけどネイサンを拒否したのは真面目だからとか恥ずかしかったからなんかではなく、ただ触れられたくなかった。
自分を罵る人間に、自分の身体を預けるようなことは出来なかったのだ。
けれどわざわざ否定して事を荒立てる必要性も感じず、曖昧に頷く。
「今の君は本当に幸せそうだ」
切ない表情でネイサンが言う。
その表情を見て、私は何も言えなくなってしまった。
今まで私の前でこんな顔をしたことがあっただろうか。
「後悔しているよ。接し方を間違えてしまったんだって。君に好かれたいなら、優しくするべきだった。今更気付いたって遅いよね」
悲し気に微笑んで俯く。
どう返していいか迷っているうちに、再びネイサンが顔を上げた。
「……どうやって気を惹いたらいいか分からなかったんだ。ずっと両親から伯爵家の人間として誇りを持てって言い聞かせられて、君との婚約が決まった時も子爵令嬢なんかに舐められるなって言われた。金の力で支配するつもりだろうが血筋はこっちがずっと上なんだからって。逆に利用してやれって言われてたんだ。知ってたかい?」
自嘲するようにネイサンが笑う。
ネイサンの両親とは、何度かの両家の顔合わせの時くらいしか会ったことはない。
だけどそのたび見下すような目で見られていたから、ネイサンにそう言っていたとしてもおかしくはなかった。
「本当はずっと君を美しいと思っていた。愛してたんだ。なのに素直になれずひどいことばかりしてしまった。僕の言うことを聞かせることで愛情を確認しようとしてたんだ。馬鹿だったよ」
「ネイサン……」
眉根を寄せて苦しそうに言われて言葉に詰まる。
まさかネイサンがそんな風に思っていたなんて。
「婚約したばかりの頃は楽しい思い出もあったはずなのに。覚えているだろう?」
言われて、出会ったばかりの子供の頃を思う。
まだ親に言われたことに従うことだけが自分の価値だと思っていた頃のことだ。
「君は優しくて、なんでも僕の言うことを聞いてくれた。最初は僕を好きなんだと思って嬉しかった。だけど親の言うことを思い出すんだ。僕の立場が上だから従っているだけなのかもしれないって。ずっと疑い続けて、ずっと君を試し続けて、大人になってからはもう何が自分の本心なのか分からなくなってしまったんだ」
再び俯き、後悔するように顔を歪める。
ネイサンの肩が微かに震えていた。
「ようやく思い出せた……けど、もう手遅れなんだね。君達の噂を聞いて、それがよく分かった。だから、もう、諦める」
泣きそうな顔で微笑みながら言って、一瞬だけ悔しそうな顔でオスカーの方を見た。
それからすぐに私に視線を戻して、短く息を吐いた。
「おめでとう、フレイヤ。すべて君の望む通りにしてあげる」
諦めたような顔で祝福の言葉を残して、拍子抜けするほどあっさりとネイサンが去っていく。
「大丈夫だったか」
すぐにオスカーが私を抱き寄せて、心配そうに覗き込んでくる。
「……ええ、なんともありませんでした」
安心させるように微笑んでオスカーの腕に触れる。
「でも、ネイサンがあんなことを言うなんて……」
もっと負け惜しみとか、絶対に諦めないとか、周囲にはわからない程度に言葉を変えて言ってくると思っていたのに。
あんな優し気な口調で、未練を残しながらも素直に引き下がるみたいな態度は予想もしていなかった。
それに、ネイサンの傲慢な態度のきっかけが彼の両親の指示だったなんて。
きゅっと眉根が寄る。
「フレイヤ……?」
オスカーが怪訝な顔をする。
私は上手く返事をすることが出来なかった。
想定していた以上に上手く事が運んだはずなのに、胸にはモヤモヤしたものが残ってしまった。




