36.婚約
「お会いできて良かった。きっといらっしゃると思って探していたの」
ニコルは見覚えのある男性を伴って近づいてくる。
無邪気な顔で、邪険に追い払ったらこちらが悪者にされるのを分かった上で。
「例の妹か」
「はい……」
オスカーがコソッと私に耳打ちで問いかける。
私はもう恥ずかしいやら申し訳ないやらで、今すぐこの場を立ち去りたかった。
「実はね、お姉様にお伝えしたいことがあったの。ふふ、聞いてくださる?」
「すごいなこいつ。良いとも悪いとも言ってないのに当然のように会話に入ってきたぞ」
「ド厚かましいっすね」
ニコルには聞こえない声量で横で、オスカーとシキがボソボソと言葉を交わし合う。
ああ元身内ながら本当に恥ずかしい。
ここは彼女の言うことに逆らわず、穏便にお引き取り願おう。
「こちら、ヘンリー・フィッツロイ様です。覚えてらっしゃいますよね?」
ニコルが隣の男性を紹介する。
もちろん覚えていた。
先日参加したフィッツロイ家の舞踏会で、こちらを一方的に悪と決めつけニコルを連れて去っていった男性だから。
笑顔のニコルとは対照的に、ヘンリーからの私へ向けられる視線は鋭い。
「先日はロクに挨拶も出来ず申し訳ない」
「いえ……」
「まさかニコルを泣かせていた女が姉だとは思わなかったからな」
私を睨みつけながらヘンリーが言う。
いつの間に呼び捨てするほどの仲になったのかは知らないけれど、何故こうもあからさまな敵意を向けてくるのか。
オスカーが私の肩を抱きグッと引き寄せる。
隣を見上げれば、彼は不愉快そうな表情でヘンリーを見ていた。
「私は姉に虐げられても健気に耐えてきた彼女を、絶対に幸せにすると誓った」
ああなるほど、私のことをそう説明しているのね。
呆れながらも、もう好きにしてくださいという気持ちになってくる。
「私達、婚約したんです」
ニコルはヘンリーにべったりとくっつきながら、うっとりしたような表情でそう言った。
その表情は、幸せそうというよりどこか誇らしげなものだった。
「あらそうなの。良かったわね」
特に感動もなくそう伝えると、ニコルがわずかにムッとしたような表情になった。
「お姉様はもう覚えてらっしゃらないかもしれませんが、彼は侯爵家の嫡男なのです」
さすがにそんなに短期間で忘れたりはしない。
人の顔と名前を覚えたり人間関係を把握したりするのは得意な方だ。
ただ、それらの能力を両親の望むように、弱みを掴んだり不和を生んだりする方向に活かせなかったから、無駄な能力だと言われていたけれど。
「ええそうだったわね。お父様たちが喜んだのでは?」
ニコルとヘンリーが本当に婚約したのだとすれば大喜びだったはずだ。
ネイサンよりもさらに格上の侯爵家の、しかも嫡男との縁談なんて。
彼女たちが上手くいけば、きっと私なんてもう用無しになる。
今度こそ本当の意味で解放されるのだ。
「すごいわニコル。おめでとう」
心からそう思って祝福したのに、何故かニコルは不服そうだ。
「……ああ。『伯爵』の前ですものね。羨ましがったりしたら失礼ですよね」
伯爵、を妙に強調してニコルがよく分からないことを言う。
「ヘンリー様はまだお若いのに将来有望で、まるで王子様のようなんです」
「素晴らしいことね。あなた昔から王子様みたいな人と結婚したいと言っていたもの」
確かにヘンリーの容姿は整っていると思う。
くっきり二重に長い睫毛。目鼻立ちはハッキリとしていて、少し目尻が垂れている。
いわゆる甘いマスクというやつだ。
ニコルの言う通り、年頃の少女の憧れを詰め込んだ、絵本に出てくる王子様のようだ。
ただ、正直今までニコルが散々遊んできた従僕たちとの違いがよく分からない。
ヴィリアーズ家に雇われる従僕たちは、母の好みや見栄もあって容姿に秀でた若者ばかりだった。
身分に差はあれど、それこそ着る物を変えれば王子様のような男性たちだ。
ニコルは新しい従僕が増えるたびに喜んで、母の目を盗んでは自分の部屋へと連れ込んだ。
彼女と母の好みはよく似ているのだ。
だからまぁつまり、ヘンリーはニコルの好みのど真ん中ということなのだろうけど。
「歳も近いし本当にお似合いだわ。まるで物語の中から出てきたみたい」
ところで最近気付いたことだけど、私はどちらかと言うと切れ長な瞳で甘さのない野性的な顔立ちが好きだったらしい。
だから母と妹の好みはよく分からなかったのだ。
「それに私だけを愛してくださるの。とても誠実で、常に私を褒めてくださるわ」
「本当に、いい方を見つけられたのね。良かったわ」
従僕たちもニコルに夢中だったけれど、あれはどちらかと言うと出世争いの足掛かりとして利用されていた感も否めなかった。
それにニコルの不興を買えばクビにされてしまうリスクも常にあった。
それゆえの必死感が、全くなかったと言えば嘘になる。
ヘンリーはそういう野心とは無縁の存在なのだろう。
ニコルより身分はずっと上だし、何かに利用する意味もない。
きっと本気でニコルを愛しているのだろう。
だからこそニコルの言い分を全部信じて、彼女を虐げていたらしい私に真っ向から敵意をぶつけてきたのだ。
ふと見ると、そのヘンリーがなぜか敵意を和らげ少し戸惑ったような表情で私を見ている。
不思議に思いながら首を傾げながらニコルに視線を戻すと、不思議なことに今度はニコルが私を睨みつけていた。
「ええ、なんだかすごく怒らせてしまったみたいです……」
困惑してコソッとオスカーに耳打ちする。
言いたいことは胸にしまって、全面同意で穏便に収まるはずだったのにどうして。
「くくっ、いいぞフレイヤ。その調子だ」
オスカーが至極上機嫌に耳打ちを返す。
なんだかよく分からないけれど、私の対応は間違っていないらしい。
「さて、じゃあ俺もそろそろ仲間に入れていただこうか」
ニコルの言葉を真似て、ウキウキした声でオスカーが楽しそうに笑った。




