3.伯爵に願うこと
「旦那様がお会いになられるそうです」
一度客室で待たされたあと、伯爵が会ってくれるということで女性が再び案内してくれた。
廊下の明かりはどこも最低限で、かろうじて転ばずに済むというくらいに薄暗い。
少しでも彼女から離れれば、その背中は闇に消えてしまうのではないかという不安にかられて、ぴったりとくっついて歩く。
ひときわ豪奢な意匠を施した扉の前で、彼女が足を止めた。
控えめなノックの後、返事もないのに扉に手を掛ける。
重々しい動きで重厚な扉がゆっくりと開いていく。
広間と思われるその部屋は、やはり薄暗く全体を見通すのが困難なほどだった。
扉から、毒々しいまでに赤い絨毯が部屋の奥まで続いている。
その終点に、まるで玉座のような荘厳な造りの椅子が鎮座していた。
「お連れいたしました」
そう言って、椅子の前まで進み出た女性が一礼した。
「……ご苦労」
落ち着いた低い声が聞こえて、びくりと肩が跳ねる。
椅子には領主と思われる男が座っていた。
ブラッドベリの領主は五十代のはずなのにどう見ても三十代半ばにしか見えない。
その男は一昔前のゴテゴテした古めかしいデザインの服に身を包んでいて、それがやけにしっくり見えた。
女性は頭を上げると、ごく自然な動作でその椅子の横に立った。
こちらを向いたその顔には、どこか恍惚とした表情を浮かべている。
先ほどまでの無機質な雰囲気はすでになく、艶やかな赤い唇は薄く微笑んでいた。
その劇的な変化に確信してしまった。
そこにいるのは、本物の吸血鬼なのだ。
彼女は主人を前にして悦びを顕わにしている。
隷属することを至福と感じている。
「どうした。もっと近くまで来るがいい」
扉から動けずにいる私に、嘲るような声が言う。
ふらりと、誘われるように足を踏み出した。
その声には逆らえない魅力のようなものがある。きっとそれが吸血鬼の力なのだろう。
そうやって誘い出し、美しい彼女を自分のものにした。
きっとそういうことだ。
近付くと、その男の迫力に呑まれそうになる。
椅子に深く腰掛けているのに、彼のその体躯は男性の平均身長を大きく超えているのが分かった。
長い足は優雅に組まれ、バランスのいい腕は退屈そうに頬杖をついている。
「用件はなんだ」
渋めのバリトンがゆったりとした調子で問う。
整えられていない闇色の髪は無造作に掻き上げられ、酷薄そうな薄い唇に笑みが浮かぶ。
「そう暇ではないんだがな」
何も言えないでいると、口許は笑みの形のまま、三白眼気味の切れ長の瞳が射すくめるように私を見た。
「もっ、申し訳ありません……、フレイヤ・ヴィリアーズと申します。ヴィリアーズ子爵家の次子にございます」
慌てて平伏し、自分の名前を告げる。
身分に差はあれど、王族でもないのにそこまでする必要はない。
けれどそうせざるを得ない気迫を感じて、身体は自然に動いた。
「この度は突然の訪問をご容赦くださいませ。どうしてもお聞き届けいただきたい願いがございまして、王都より遥々参りました」
顔を上げることも出来ずに早口に捲し立てる。
少しでも不興を買えば何をされるか分からないという恐怖が、私の心を急き立てていた。
「ほう……王都から、供もつけずにか」
面白そうな響きを感じてちらりと視線を向ければ、ブラッドベリ伯爵は真意を探るように目を細めた。
そうするとただでさえ恐ろし気な人相がいっそう怖くなる。
慌てて顔を伏せ、震える声で言葉を続けた。
「はい。僅かな路銀を手に、馬車を乗り継ぎ、時に自分の足で歩き、必死でここまで辿り着きました」
「王都から最低でも四日はかかるだろう。女一人の旅は辛かろう」
あえて同情を引くように言うと、予想外に労わるような言葉をくれた。
けれどきっと言葉通りの意味は持たないに違いない。
彼にとって人間の小娘の苦労など、取るに足らないもののはずだ。
「して、そこまでして申し出たい願いとは」
面識もない、なんの繋がりもない、一地方の伯爵に。
名ばかり子爵の娘が何を頼もうというのか。
言外にそんな意思を感じた。
お門違いなのは分かっている。
けれどもう彼しかいないのだ。私があの男に対抗できる手段を得るためには。
こんな風に怯えている場合ではない。なんとしてでも彼の協力を勝ち取らなくてはならない。
意を決して顔を上げる。
それからまっすぐに伯爵の目を見て口を開く。
「……私の恋人に、なっていただきたいのです」
荒唐無稽な願い出に、伯爵だけでなく隣にひっそり佇んでいた女性までもが目を丸くした。
「一体どういう経緯でそんな結論に至ったのだ」
もっともな問いを受けて、私はこれまでのことを話し始めた。
妹とネイサンの浮気現場を目撃したことや、あっさり捨てられ乗り換えられたことを説明するのは恥ずかしかった。
親からの扱いの酷さ、妹との差、それにそうなるに至った私自身の価値のなさまでもを説明しなければならないから。
それでもなんとか妹との婚約が決まったところまでを順序だてて話すことができてホッと一息つく。
「なんだ、大団円ではないか」
そこまで聞いて、ブラッドベリ伯爵がつまらなそうに感想を述べた。
確かに人間同士のいざこざなんて彼に取ったらおもしろくもなんともないだろう。
だけど残念ながら話はここで終わらない。
「それで何故俺がおまえの恋人などと」
「いえ、フリだけでいいのです」
「フリ?」
私を恋人にする価値がないのは分かっている
美人ではなく、要領も悪く、気の利いた会話も出来ない。
両親にそう言い聞かされて育ったから、しっかりと自覚していた。
私と一緒にいたって、彼に得はない。
だけど。
「……ネイサンを諦めさせたいのです」
「元婚約者の名か。諦めるも何も、おまえの妹と結婚するんだろ?」
「それが……」
そうならどれだけ良かっただろう。
実際、一度はそうなりかけたはずなのに。
私は浮気発覚後の親の言動や、その後の流れをかいつまんで説明する。
「おまえんちヤバイな」
「返す言葉もございません……」
捨てられた娘が目の前にいるというのに、奪った方を褒め称えるのだ。
この家で育った私にも、さすがにその異常性は分かる。
我が家の恥部を晒すのは辛かったが、伯爵の同情を引くことには成功したようだ。
彼は思いのほかしっかりと私の話を聞いてくれている。
「それで、続きは?」
「彼らが上手くいかなくなるのはすぐでした。ネイサンがニコルの歓心を買うために、本当のことを言ってしまったのです」
我が家のあまりの酷さにうっかり砕けた口調になってしまったせいか、伯爵の怖さが少し薄れた気がした。
そのおかげで少しだけ話しやすくなる。
「本当のこと?」
「もとから私を愛してなどいなかった、と。むしろ大嫌いで、最初からニコルだけを愛していたのだと」
最初、妹はそれを嘘だと思った。
自分の気を引くために、聞こえのいい言葉を並べているだけだと。
けれどネイサンがニコルを気に入っていたのは本当だ。
地味で冴えない私より、母似の可愛らしい容姿とピンクブロンドの髪に魅了されるのは当然といえる。
私を罵倒するセリフの中で、何度となく言われてきた。
ニコルの方が良かった。
ニコルだったらきちんと大切にできたのに。
僕がこんなことを言うのはお前のせいだ。
お前が僕にそうさせている。
ニコルだったら。
ニコルなら。
私はただごめんなさいと言うことしか出来なかった。
ネイサンのニコルへの気持ちは本当だ。
ニコルもだんだんとそのことに気付いた。
だからすぐにネイサンに飽きた。
ニコルは釣った魚に餌をやらないタイプだ。
身体だけではなく心まで夢中にさせたらもう飽きてしまう。
ニコルにとって恋愛はただの遊びで、真面目な堅物相手ほど燃えるものらしい。
今まで何度有能な従僕が骨抜きにされ、食いつぶされてきたことか。
私のものだと思ったからネイサンを誘惑しただけ。私のものだと思ったから奪ってやろうと思っただけ。
分かりやすくも悪質な妹は、身体を使って落とすまでもなく自分に熱を上げていたらしいネイサンが鬱陶しくなって、真実を告げた。
あんたなんて愛していない。ただの姉への当てつけなのに何勘違いしてるの。鬱陶しいから消えて。私いま新しい従僕に夢中なの。
容赦のない言葉を浴びせられて、若くて可愛い一途な婚約者など存在しなかったと、ネイサンもさすがに理解できたらしい。
「捨てられたのか。ざまぁない」
「正直、私もそう思ってしまいました」
私と同じ感想を伯爵が言ったことで少しホッとする。
自業自得とは言え、踏みにじられてショックを受けている人間相手にそんなことを思ってしまうのが少し後ろめたかったのだ。
「それにしても、妹は清々しいまでの人でなしだな」
人ではない者に人でなしと称される妹は、どれだけ悪辣なのだろう。
少なくとも私の手に負える相手ではなかった。
「だがまぁ、それもある意味ハッピーエンドだろう」
「大変恐縮ですが、まだ続くのです」
私は項垂れて、ここに至るまでの最終段階を続けて説明するために再び口を開いた。




