29.ヘンリー・フィッツロイ
「一体何の騒ぎだ。ここは舞踏会の会場だぞ」
彼は見られることに慣れているのか、その場の全員の視線をものともせずに堂々たる態度で言った。
それからツカツカと靴音を響かせながら姿勢よく近付いてきて、私とニコルの間に立つ。
「騒ぎの原因は君達か。ここはダンスと社交を楽しむ場であって、言い争いの場ではない」
「申し訳ありません……私のせいなのです」
急に割り込んできた青年が誰かもわからず戸惑っていると、ニコルが涙声で言った。
青年がニコルに視線を向ける。
「……なんてことだ。泣いているではないか」
彼はニコルが泣いているのに気付いて、痛ましげな表情で寄っていく。
「可哀想に……こんな泣きはらした顔をして」
慰めるように言って、自分のハンカチを差し出す。
ニコルはそれを受け取って、目許に当てた途端ワッと声を上げて泣くのを再開させた。
青年はキッとこちらを睨んで、腹立たし気に口を開いた。
「どんな事情があるのかは分からない。しかし三対一でこんなかよわい女性を泣かせるなんて、恥ずかしくないのか」
詰問口調で言われてミラと思わず顔を見合わせる。
いきなりやってきたこの人は誰なんだろう。
どうしてわざわざ首を突っ込んでくるのかしら。
微かに首を傾げた私に、ミラが小さく「お手上げです」というジェスチャーをした。
「反論も出来ないようだな。まったく嘆かわしい。父にどれだけの金を積んで参加したかはわからないが、フィッツロイの名を汚すような真似だけはしないでほしいね」
それを聞いてようやく思い至る。
今日の主催者はフィッツロイ侯爵で、ここは彼のお屋敷だったから。
ニコルの目元が涙にではなくキラリと光ったように見えた。
たぶん、彼女もこの青年の正体に気付いたのだろう。
「ぐすっ……あの、ありがとうございます……あなたのお名前は……?」
さりげなく名前を聞き出すあたり、狙いを定めたと見て良さそうだ。
顔だけでなく、彼は身なりも良い。
昔から金持ちのイケメンに嫁ぐんだと豪語していたから、私への嫌がらせよりもそちらの方が優先されたのだろう。
「ああ名乗るのが遅れて申し訳ありません。私はヘンリー・フィッツロイ。本日のパーティーを主催させていただいた、フィッツロイ家の嫡男です」
名前を聞いた途端、ニコルの目が再びうるみ始めた。
頬が紅潮しているのは、泣いていたせいではないだろう。
「ヘンリー、さま」
甘く舌ったらずに彼の名を呼ぶ。
「な、んでしょう」
そっと袖を掴み、上目遣いのその魅力的な表情に、ヘンリーがあっさりと陥落するのが分かった。
「私、もうここには居たくない。ひどいことばかり言われるの」
ニコルの涙は自由自在だ。
一番効果的なタイミングでポロポロとこぼれる涙の美しさに、ヘンリーが息を呑んだ。
「……彼女にひどいことを言ったのはあなたか」
思い切り私を睨みつけてヘンリーが低く言う。
それはもはや迷惑な招待客に向ける目ではなく、完全に敵を見る目だった。
「ひどい人だ。その炎のような赤髪は、あなたの苛烈さを表しているようだな」
「ヘンリー様……」
私を糾弾するヘンリーにニコルがうっとりと呟く。
「行きましょう。あなたが落ち着けるよう部屋を用意します。君達はもう帰ってくれ」
ヘンリーは吐き捨てるように言って、ニコルの肩を抱きその場を後にした。
去り際、ニコルが勝ち誇った顔を向けるのを、私は見逃さなかった。
口を挟む間もなく完全に二人の世界で、残された私はぽかんとするしかない。
「良かったですわねフレイヤ様。御髪を褒められましたわ」
「ええ……絶対違うと思いますけど……」
ほくほくと嬉しそうに言うミラに、どう返していいか分からない。
「事情知らないなら口出すなって感じでしたね」
だけどバートンが困惑したように言って、今度こそ耐え切れずに噴き出してしまった。
「正義感の強い方なのでしょう」
「思い込みも強そうでしたけど」
「バートン、あなた少しお黙りなさいな。フレイヤ様がお顔を保てなくなります」
私の表情が周囲に見えないように庇いながらミラが言う。
「はあ。なんか申し訳ありません」
全く自覚もなさそうに、バートンがとりあえずといった感じで頭を下げた。
もう本当にやめてほしい。
「……帰りましょうか」
「そうですね、少し早いですけれど」
「なんだかドッと疲れました」
主催者側が帰れと言うならそうするしかない。
口々にぼやいて、会場を後にしようと帰り支度を始めた時だ。
「フレイヤ」
怒りに満ちた声が私を呼び止める。
そちらを見なくてもそれが誰なのか、すぐに分かった。
「貴様一体何を考えている」
「……お父様」
ゆっくりと視線を向け、震える声で言い返す。
父だけではなく母まで私を睨んでいて、それだけで俯いてしまいそうになる。
ニコルは怖くもなんともなかったけれど、彼らは別だ。
「まったく次から次へと……」
ミラが険しい顔で呟く。
だけど予想できた事だ。
彼らは妹の付き添いで来たのだろう。
ニコルを目にした瞬間から、きっと会場内にいるのだろうなとは思っていた。
責められる覚悟もしていたつもりだけど、目の前にするとやはり足が竦んでしまう。
「勝手に家を出てどういうつもりだ! ベアリング家に嫁げと言ったはずだぞ!」
近付き、小声で恫喝を続ける。
ニコルと違って周囲に聞かれるようなヘマはしない。
彼らは貴族界でのし上がっていくために、恥にも外聞にも人一倍気を遣っているのだ。
「逃げたどころかあのブラッドベリに厄介になっているだと? ふざけるな。ただでさえ無価値なくせにさらに価値を下げるような真似をするんじゃない! お前を嫁がせるためにベアリング家にいくら投資したと思っている!」
「それは……だって」
私が頼んだことじゃない。
お父様たちが勝手に決めたこと。
そう言い返したかったのに、私の口は上手く動いてはくれなかった。




