23.それどころじゃない
「なるほど、確かにあれは気持ちが悪い」
ネイサンから距離をとったのを確認して足を止める。
オスカーの顔を見れば、不愉快そうに歪んでいた。
いつもどんな状況でも楽しそうにしている彼にしては珍しい表情だ。
「ごめんなさい、もう少しまともに対応できると思っていたのですが」
「いいさ。まあ見せつけるなら今だとは思うが、怖いならもう帰るか」
ネイサンの視界から遮るように壁になってくれながら、震える私を気遣うように言う。
「いえ、まだなんのアピールも出来ていませんので」
気合いでどうにかなるものでもないが、必死に震えを止めるようと自分の身体を抱きしめる。
ネイサンに諦めてもらうために頑張っているのだ。ここで逃げ出したら意味がない。
それに始まったばかりの夜会をすぐに抜け出したら周囲からの印象が悪くなる。
オスカーへの恐怖心を煽る必要はあっても、失礼な印象を与えるのは悪手だ。
野蛮で野卑な化け物を作り出したいのではない。あくまでも理知的に振る舞い、畏怖とのギャップで魅力的に見せることに価値がある。
「負けません」
「おお、頼もしいじゃねぇか」
なんとか自分を奮い立たせて言うと、オスカーが微かに笑った。
「ならば全力でおまえを守ると約束しよう」
そう言って肩を抱いたままの腕を背中に回し、緩く私を抱擁する。
ちゅ、とこめかみのあたりで微かな音がした。
「……っくく」
突然のことにびしりと固まった私を見て、オスカーが忍び笑いを漏らす。
「せっかくの勇ましさが台無しだ」
「誰のせいですか!」
揶揄われたことに気付いて小声で抗議する。
オスカーは周囲に見えないよう顔を俯けて笑うばかりだ。
緊張と恐怖を和らげようとしてくれたのだろう。
さすがにただの悪ふざけじゃないことくらい分かる。
その狙い通りに、いつの間にか私の身体の強張りは解けていた。
だけどもう少し心臓に優しい方法はなかったのだろうか。
衝撃で乱れた心を、少しでも落ち着かせようとネイサンの方を見る。
彼は私が男といることが腹立たしいのか、憤怒の表情でこちらを睨んでいた。
それでスッと心臓が冷静さを取り戻した。
怖かったけれど、言葉通りオスカーは私から離れることなくずっと寄り添っていてくれる。
他の貴族たちがネイサンに話しかける。
こちらに視線を向けているのを見るに、私達のことを聞かれているようだ。
内容までは聞こえなかったが、ネイサンの表情に徐々に怯えが混ざり始めた。
たぶん、彼らの話を聞くうちにブラッドベリ伯爵と確信したのだろう。
けれどネイサンは私から目を逸らそうとしない。
恐怖と憎悪の混じった視線でじっとり見られているのは気持ち悪くて仕方なかった。
思わず眉をひそめた瞬間、顎先にオスカーの指が触れてついと視線を戻された。
「言っただろうフレイヤ。俺だけを見ていろ」
ドッ、と心臓が再び大きく脈打つ。
周囲に聞かせるためのセリフだと分かっていても、真剣な表情で言われれば軽い気持ちで受け止めるのなんて無理だ。
頬が熱くなり、とっさに顔を伏せる。
「上手いじゃねぇか。いい表情だ。そのままで」
今度は周囲に聞こえないように、耳元に唇を寄せて囁く。
こんなの、全然演技なんかじゃない。
だけどそれを伝えるわけにもいかず、黙って頷いた。
「あんなのはマネキンかなんかだと思え。おまえはいつも通り、俺しか眼中にないフリをしていろ」
もちろんそうすべきなのはわかっている。
だけどなんだかいつもみたいには上手く出来ないのだ。
こめかみにはまだオスカーの唇の感触が残っている気がする。
ほんの一瞬、軽く抱きしめられただけなのに、その余韻がいつまでもなくならない。
「フレイヤ」
お願いだから今は名前で呼ばないでほしい。
動揺がピークに達して、思わずオスカーからわずかに距離を取る。
この密着した状態から解放されれば、少しは心臓の動きもまともになる気がしたのだ。
「おいおいなんのつもりだ?」
けれどオスカーは片眉を跳ね上げ、ガラ悪く再び距離を詰めてくる。
もう少しで肩を抱かれそうになって、慌ててまた後退る。
「フレイヤ……?」
「だ、だって、近すぎて……」
消え入りそうな声で必死に言い繕うが、それこそ今更だ。
腰を抱く、肩を抱くなんてことは夜会のたびに見せつけるようにやっていて、私ももう慣れたはずなのに。
「……あいつの前だからか?」
「え……?」
気のせいか、いつもより少し低い声でオスカーが言う。
「あの男が見ているから嫌なのか」
いつの間にか笑みを消したオスカーが重ねて問う。
「あっ」
それでようやくネイサンの存在を思い出した。
「すみません、それどころじゃなくてネイサンのこと忘れてました……」
オスカーとの距離が近いことを急激に意識しすぎてしまって、肝心の目的を忘れていた。
なんのために彼に恋人のフリなんて無茶なことを頼んだのか。
大事なのはそこなのに、自分の浅はかさが嘆かわしい。
「……おまえなぁ」
案の定オスカーも呆れたのか、脱力したように項垂れた。
「まあいい。とりあえずこっち来い」
オスカーが気を取り直したように言って、手を差し伸べる。
前までは躊躇なくその手を取れたのに、今は触れてはいけないものに思えて動きが止まってしまう。
「このままじゃ俺はただのセクハラオヤジだ」
苦笑混じりに言われてハッとする。
周囲を見れば、動向を窺うような視線が集まっていることに気付いた。
確かにこのままでは嫌がる女性に無理やり手を出そうとしているように見えてしまう。
そっと手を載せ、おずおずと距離を詰める。
オスカーの腕の中に戻ると、ホッとしたような嘆息が聞こえた。
急に失礼な態度を取ってしまったことを恥じる。
オスカーは私に協力してくれているのに、どうしてこうなってしまうんだろう。
また動悸が激しくなったけれど、逃げ出したくなるのは必死で耐えた。
「夜会の間だけなんとか堪えてくれよ」
オスカーの手が遠慮がちに私に触れる。
明らかに挙動不審になっている私への配慮だろう。
ありがたさや申し訳なさを感じるのに、反面少し寂しく思う身勝手さに嫌気が差してくる。
夜会が終わるまでの間、オスカーのことばかり考えていたせいで、ネイサンの視線なんて全く気にならなくなっていた。




