2.黒い館
それなのに、どうして私はこんなところにいるのだろう。
月夜の晩、眼前にそびえる館を見上げてごくりと息を呑む。
密集した木々を抜け、ぽっかりとひらけた場所にソレはあった。
壁という壁は黒く塗りつぶされ、月明かりに照らされたその建物はまるでソレ自体が影のようだ。
後ろで雑に括っていた赤毛が夜風にはためく。
秋の夜風はまだ冷たく、けれど寒さだけではない震えが全身に走った。
ここは吸血鬼の住まう城。
王都でまことしやかに囁かれている噂の場所だ。
持ち主はブラッドベリ伯爵。
ここら一帯の領地を治めている領主で、彼の姿を見た貴族はほとんどいないのだという。
その数少ない貴族たちが口を揃えて言う。
もう何十年も前から、彼は年を取る気配がないのだと。
その噂を後押しするように、彼の行動は不審な点が多かった。
彼が王都に来る頻度は最低限で、それも真夜中に近い時間にのみ。
まるで人目を避けるように、太陽の光を恐れるように。
王都に街屋敷を構えているにも関わらず、泊まりもせず夜のうちに領地のカントリーハウスに戻っていく。
そしてそのカントリーハウスは異様な外観をしていて、見る者を圧倒するほどにおぞましいのだという。
その中で、若く美しいメイド達がかしずくように働いているのだそうだ。
まるで魂を奪われたように、一心不乱に。
そんな場所を前に、私はいま呆然と立ち尽くしている。
ブラッドベリ伯爵家とも、この土地とも、なんの縁もゆかりもない。
ここに来ようと決めた私の判断は、本当に正しかったのだろうか。
ようやく辿り着いた館を目の前にして、気力が萎えていくのを感じた。
黒い館からは不穏な気配が漂っているし、背後の木々は私を追い立てるように風に騒めいている。
そのせいで心臓の音がうるさくて、冷静に考えることも出来ない。
足は竦んで、寒さと恐怖に身体はガタガタと震えている。
ここに来たのは完全に勢いだ。それは認めよう。
少しどころではない後悔もある。それも素直に認める。
だけど引き返すことは出来ない。
だってもう帰る場所なんてないのだから。
せめて朝に出直すべきだろうか。
だけど周辺に宿なんてなさそうだし、馬車は木々の合間を抜けられないからと随分手前で返してしまっている。
何よりも、なけなしの路銀がもう底をついていた。
行くしかない。
決意を新たに一歩を踏み出す。
もう、彼しか頼る当てはなかった。
ゆっくりと館に近付き、真っ黒な扉に手を伸ばす。
震える指先で、ドアノッカーの輪にそっと触れる。
鉄製のソレは底冷えするほどに冷たく、触れた場所から魂を吸い取られるような気がして恐ろしかった。
ふいにバサバサと音がして、びくりと身体が跳ねる。
反射的に見上げれば、何か小さな影が館から飛び去るところだった。
あれは小鳥か蝙蝠か。
どちらにせよ、ひどく不吉なものに見えて血の気が引いた。
やはり間違った選択をしてしまったのだろうか。
私の人生は明日を待たずに終わってしまうのかもしれない。
ああだけど。
こんな最低な人生なら、いま終わったって構わないじゃない。
そう気が付いて、ノッカーの輪をぎゅっと握る。
それから輪を限界まで引き上げ、思い切り打ち鳴らした。
もちろんすぐには反応はない。
返事があってほしいのか、ほしくないのか。
自分でももうわからない。
だからただ、祈るように胸元で手を組む。
そうして人生最期になるかもしれない瞬間を、目を閉じ一人静かに待っていた。
やはり来るべきではなかったかもしれない。
なかなか反応がない中、改めて後悔しそうになった瞬間に黒い扉がゆっくりと開かれた。
中から出てきた人物を見て身体が竦む。
「……どなた様でいらっしゃいますか」
艶のある長い黒髪に、深淵を覗き込んだような光のない黒い瞳。
透き通るような青白い肌に映える真っ赤な唇が、やけになまめかしい。
「お客様……?」
「あっ、あの、フレイヤ・ヴィリアーズと申します」
どこか人ならざるその気配に、名乗るのが遅れて慌てて口を開く。
「お約束はされておりますか」
聞き覚えのないだろう名前に、女性が微かに眉根を寄せる。
その表情がどことなく作り物めいて見えるのは、彼女があまりにも整った容貌をしているせいかもしれない。
動きやすそうなシンプルな服装にエプロンをしているのを見るに、この館の使用人だろうか。
「いえ、突然の訪問で大変申し訳ないのですが、ブラッドベリ伯爵様にお会いしたくて参りました」
声が震えるのを堪えながら伝えると、彼女は少しの沈黙のあと「かしこまりました」と短く言って、細く開いていた扉をさらに開いてくれた。
もっと色々聞かれるかと思ったのに、あっさりと許可を得られたことにぽかんとしてしまう。
だってこんな夜に、なんの約束もなく、知らない女が訪ねてきたのに。
自分で言うのもなんだけど、怪しいことこの上ない人間を、こんな簡単に通してしまってもいいのだろうか。
「どうぞお入りください」
淡々とした声が、無表情なまま紡がれていく。
動きには無駄がなく、淀みなく流れるようだ。
彼女は本当に人間なのだろうか。
そんな疑問が頭の隅に生まれて、ぞくりと戦慄が走った。
中を見れば明かりは少なく薄暗い。
まるで館の主が照明を嫌っているかのように。
ごくりと唾を飲みこむ。
伯爵が吸血鬼だというのはあくまでも噂だ。
吸血鬼なんて、物語の中だけの架空の存在でしかない。
馬鹿馬鹿しい。そんなもの信じるなんて。
理性はそう訴えている。
だけど目の前の女性の存在がそれを否定させる。
もしや彼女は領主に攫われ、血を吸われて隷属させられた女性なのではないか。
美しさを永遠のものとするために、意志のない傀儡にされてしまっているのではないか。
だからこんなにも人形めいた表情で、淡々と喋るのではないか。
怖い。
やっぱり引き返そうか。今ならまだ間に合うかもしれない。
だけど。
自分の意志もなく、隷属させられ傀儡となり。
表情もなく、感情もなく、ただ働くのみ。
今の私と何が違うのだろう。
少なくとも、婚約者に暴力を振るわれることはない。
それに彼女の肌や髪のツヤは、私なんかよりずっと綺麗だ。
「おやめになりますか」
「……いいえ」
やはり淡々とした彼女の問いに、首を横に振ってしっかりと答える。
今よりひどくなることなんて、ないのかもしれない。
そう気付いて、私は彼女に招かれるままに足を踏み出した。
私を先に入れて、扉を閉めようとする彼女がふと視線を外に巡らせた。
「あちらはお連れ様ですか」
思いがけない問いに首を傾げながら、彼女の視線の先を追う。
「ひっ」
そうして思わず悲鳴を上げかけた。
館の敷地の向こう側。目隠しのように広がる木々の囲いのその境目に。
木の陰に隠れるように潜んでいた人物が、月に照らされ浮かび上がる。
顔なんてほとんど見えない。だけど私にはそれが誰かすぐに分かった。
「しっ、知らない人です……!」
館の中へと後退りながら、青褪めた顔で言っても信憑性はないだろう。
けれど女性は私の顔と向こうに見える人影を見比べるように視線を巡らせたあと、「わかりました」と短く言って扉を閉めた。
視界が遮られたことにホッと息を吐く。
そのまま腰が抜けそうになるのをなんとか堪えた。
まさかこんなところまで追いかけてくるなんて。
この館を目にした時の恐怖とはまた別の恐怖が全身に這い上がってくる。
だけどあれ以上近寄ってくる気配はない。
先導する女性についていきながら、しきりに背後を気にしていても、ドアノッカーは鳴らされなかった。
館の中にまで入る気はないようだ。
あそこまでが限界だったのだろう。きっとそうだ。
ということは、ここに来たのはやはり間違いじゃなかったんだ。
そんな確信が湧いてきて、身体の震えが少しずつマシになっていく。
中はやはり明かりが少なく薄暗いけれど、意外なほどに暖かいせいもあるかもしれない。
「どうぞ、こちらです」
「はい……」
少しずつ余裕が出てきて、そろりと館の中を見回した。
すぐに見回したことを後悔した。
廊下に置かれたオブジェはどれもおどろおどろしい怪物ばかりで、女性の持つロウソクの炎の揺らぎに合わせてうごめいているようだった。
今にも動き出して襲い掛かってくるのではないか。
そんな不吉な予感に足が止まりそうになる。
けれど女性の足は機械的に規則正しく動き続け、こちらを振り返ることもなく迷うことなく進む。
ここで足を止めればこのまま取り残されてしまう。それだけは御免だ。
竦みそうになる足を叱咤して必死についていく。
ここは何もかもが気味悪く、やはりここの領主は吸血鬼なのだという噂は、もはや私の中で確信に近いものになっていた。