1.浮気現場
その日、婚約者のネイサン・ベアリングは朝食の時間になっても姿を現さなかった。
彼の二十歳の誕生祝いという名目で、前日から我がヴィリアーズ家に招かれていたのだ。
「おい、さっさと起こしに行けこのグズ」
「……はい、お父様」
「まったく気が利かないのだから。いつになっても使えない子ね」
「申し訳ございません、お母様」
両親に言われて慌てて立ち上がる。
視界の端で、兄がため息をつくのが見えた。
食堂を出てトボトボと歩く。
親同士が決めた婚約からもう八年近く経つ。
以来ネイサン関連の面倒ごとは全部私が対応するのが常だけど、気ノリはしなかった。
彼が泊まりに来たのは初めてではなく、彼の寝起きが悪いのは熟知していたから。
また殴られるのだろうか。
最近では反応が悪くなったからと、手加減されなくなってきている。
さすがに痕が残るようなのはやめてほしいのだけど。
憂鬱な気分でノックをし、客室の扉を開ける。
けれどそこにネイサンはいなかった。
ベッドにはひとつも乱れが存在していない。
なんとなく予感がして、食堂には戻らず向かう先を変えた。
まだ来ていなかったのが、ネイサンだけではなかったから。
妹のニコルの部屋の前で立ち止まる。
ドアノブに手を掛けて、ノックもせずに扉を開けた。
だけどたぶん、ノックをしたところで結果は変わらなかっただろう。
「……あらお姉様。わざわざ迎えに来てくださったの?」
可愛らしい声が明るく言う。
ニコルはベッドの上に座って毛布を胸元で押さえていた。
はみ出ている肩は素肌で、衣類を身につけていないのは明らかだった。
時折見る光景だから驚きはしなかった。
性に奔放な彼女は、気に入った従僕をとっかえひっかえ寝台に引き込んでいるから。
用があって部屋に入ると、裸の彼女の隣に先日入ったばかりの従僕が寝ているということはままあった。
だけどその日は違っていた。
彼女の隣で寝ていたのは、私の婚約者であるはずのネイサン・ベアリングだったのだから。
「どういうことなのか、説明してもらえる……?」
「説明も何も。見てお分かりにならない?」
頭を抱えながら問う私に、ニコルが厭味ったらしい口調で言う。
「んん……ニコル……愛しい人。もう少し共に微睡んでいよう……」
寝ぼけているのか、ネイサンが目を閉じたままニコルの身体に手を伸ばした。
聞いたこともないような甘ったるい声だ。
だけどそれを聞いてもショックは受けなかった。
ああ、そうなのね。
それだけ思った。
「ふふ、見つかっちゃった。ごめんなさいねお姉様。でも正式な婚約はまだだから、別にいいでしょ?」
ちっとも悪くなさそうにニコルがピンクブロンドの髪をさらりと揺らして小首を傾げた。
その魅力的な仕草は、同性で姉でもある私にも可愛らしく見えた。
けれどその儚げな可愛らしい容姿とは裏腹に、ニコルは十六にして性悪女と化していた。
間違いなくこの状況はニコルが狙ったものだ。
私は確信していた。
どうせ涙目で「最後の思い出に」とかなんとか言ってベッドに引き込んだのだろう。
ネイサンが起きてこなければ、私が迎えにいくのを承知の上で。
そうしてわざわざ目撃させて、ショックを受けた私を見て笑うため。
「でも、ネイサンは私がいいみたい。一晩中離してくれなかったの」
だってほら、申し訳なさそうに眉尻を下げている顔の裏に、勝ち誇ったような馬鹿にしたような色がある。
「ニコル……? さっきから誰と話して……」
ようやく目が覚めたらしいネイサンが、のそりと起き上がって私の方を見た。
「フ、フレイヤ……」
驚愕に見開かれる目を見て、少し笑いそうになってしまった。
彼がそんな顔をするのを初めて見た。
私の前ではいつも、蔑むような嘲るような傲慢な態度を崩すことがなかったから。
「こ、これは、そのっ」
「ねぇ、昨夜はたくさん愛してくださいましたわね。わたくし、嬉しくて泣いてしまいました」
言い訳をしようとするネイサンの胸元に、ニコルがしなだれかかる。
彼は慌てたような満更でもないような情けない顔をすると、すぐに開き直ったようにニコルの肩を抱いて私を睨みつけた。
切り替えの早いことだ。
「そうだ。僕はニコルを愛している。これがどういう意味か分かっているな」
「……ええ、もちろん。婚約の撤回を私から父に願い出ます」
「えっ?」
事実を粛々と受け止め、素直に頷く私に、何故かニコルが驚いたような声を上げる。
「それからニコルと婚約をし直すようにと。それでよろしいですか?」
「物分かりの良さはキミの唯一の美点だな」
ネイサンが醜く顔を歪ませて満足げに笑う。
怒鳴られるのも詰られるのも嫌で、いつも先回りで彼の望みを叶えてきた。
だから何を言いたいかなんてすぐに理解出来た。
要はニコルと婚約したいけれど、自分が悪者になるのは嫌なのだ。
「そ、それでいいの? だってホラ、愛し合っているのでしょう?」
淡々と話を進める私達に、困惑したようにニコルが言う。
どうやら妹は、私達が確かな絆を築いているというネイサンの嘘を信じていたようだ。
彼は異常なほどに外面がよく、誰からも信頼されている。
そして誰もいないところで私を罵り、蔑み、時に暴力を振るうのだ。
そのことを両親に訴えても私の言葉など彼らにとっては無意味で、ベアリング伯爵家と繋がりを作ることの方が重要だった。
何を言っても無駄だと悟り、少しでも機嫌を損なわないように私はネイサンの嘘に合わせることにした。
周囲には仲睦まじく見えていたことだろう。
だからこそニコルはネイサンを奪おうとした。
自分より下であるはずの姉が、順調に幸福を掴もうとしているように見えたから。
両親の性質を見事に受け継いだ彼女は、どうすれば人により大きなダメージを与えられるかを知り尽くしている。
よりにもよって今日という日に実行したのはそういう理由だろう。
けれど私は悲しい顔の内側で、妹にこっそり感謝していた。
私とネイサンの間に愛などなく、ずっと虐げられてこの先を一生奴隷として過ごすはずだったから。
ニコルが彼に手を出したと予感がした時、心が浮き立った。
そして実際に不貞の現場を目にして、ネイサンの心がニコルに奪われているのだと確信して、踊りだしたいくらいに嬉しかった。
だってネイサンから解放されるのだ。
それも誰にも迷惑をかけることなく。
両親は嫌な顔をするかもしれないが、大切なニコルが見目の良い血筋の確かな伯爵家へ嫁ぐことになるのだから、すぐに機嫌を治すはずだ。
それどころか雑に扱っていい娘がフリーになったのだから、権力はあるけれど歳がうんと上の高位貴族の後妻として宛がいやすくなったと喜ぶかもしれない。
ネイサンは本当に愛する女性と結婚出来るのだし、ニコルだってわざわざ自分から手を出したのだ、否やはないはずだ。
誰も不幸にならない。
誰も困らない。
私だって、ネイサンよりは知らないおじいさんに嫁がされる方がずっとマシだ。
けれどそういう気持ちはひた隠しにして、悲し気な顔でニコルの部屋を後にする。
ニコルは私の笑顔と幸福が何より嫌いなのだ。
ここで嬉しそうな顔を見せれば、きっとまた面倒なことになる。
予想通り、私の報告を聞いた両親は不快そうな顔の後でニコルとネイサンのことを喜んだ。
両親お気に入りの娘が、御しやすい貧乏貴族に嫁ぐとなれば将来は安泰だろう。
没落寸前のベアリング伯爵家は、我がヴィリアーズ子爵家のお金に頼り切りなのだ。
ニコルとネイサンが揃って食堂に入ってくるのを見て、父がニコルを「よくやった!」と褒め称えた。
それを合図に、お祝いは私とネイサンから、ニコルとネイサンにスライドして行われた。
姉を出し抜くなんて素晴らしい。
愛し合っていた恋人同士を引き裂くその手腕ときたら。
さすがニコルだわ。
この調子でいけば将来的にお前の力でライバル商会の取引も潰せそうだな。
彼らはそんな風にニコルを讃えた。
私はその間ずっと悲しい顔で俯いていた。
あっさり奪えたせいか不服そうな顔をしていたニコルも、それを見て満足したのか徐々に晴れやかな笑顔へと変わっていった。
これで無事にネイサンとの婚約から解放される。
そう思って私が胸を撫でおろしているとも知らずに。