6 散策帰り、豆人の友人に遭遇する
何度も見る夢がある。
授業中うとうとしている時や、家のソファで本を読みながら眠ってしまった時。リビングのベランダのそばで暖かい陽にあたりながら、ついつい仮眠を取ってしまった時に、僕はその夢を見たりする。
『幸せになりなさい』
姿も見えない誰かが、僕にそう告げる夢だ。何度も何度も、不思議なくらいに繰り返し見た。
『お前は、幸せにならなければいけないよ』
その優しいしゃがれた声を、僕は知っている。でも、いつも誰だか思い出せないまま夢が覚める。
僕はいつも夢の中で、その人をずっと捜しているのだ。「どこにいるの」と情けなく声を上げる夢の中の僕は幼い姿をしていて、暗闇の中で優しいその声だけが『幸せに笑っておくれ』と言う。
「おい、起きろって。お前、こんなところで寝て大丈夫か?」
声を掛けられて、僕はハッとして飛び起きた。見慣れた公園が、茜色に染まっている光景が目に留まってびっくりした。
どうやら、ベンチに座ったまま眠ってしまっていたらしい。声のした方に目を向けてみると、ラフなスポーツ着に身を包んだ少年たちが三人いて、僕の方を覗きこんでいた。
中央で僕を覗きこんでいる短髪少年には、見覚えがあった。この前、学校の上り坂で僕に話しかけてきた男子生徒だ。手にはバスケットボールを持っている。
「いやあ、びっくりしたよ。お前、いつもこんな風に寝ちまうのか?」
奴は、困惑と心配そうな表情で僕を見下ろした。結構な長身なので、両隣りの少年たちが頭半分ほど小さく見えた。
「バスケして帰ろうと思ったらお前がいてさ、びっくりした」
「財布とか盗られてないか? この辺、多いらしいぜ」
短髪の奴の隣にいた、少し癖っ毛の少年がそう声を掛けてきた。
僕は寝起きの重い頭を振って、ポケットに手を触れた。「財布はあるよ」と答えたら、長い茶髪を後ろで一つ結びにしたその少年が垂れた瞳を見開いて「へぇ、良かったな」と語尾を滑らかに繋げるように話した。
「今五時前だけど、そのまま帰る? もし時間あるならさ、少しバスケしていかね?」
続けてそう誘ってきたけど、僕は首を横に振って立ち上がった。通り過ぎてすぐ、後ろから「なぁ」と声が聞こえたので振り返ると、パチリと目が合った短髪の少年が、少し嬉しそうに笑った。
「また来週、学校でな!」
短髪少年が大きな声でそう言って、元気良く手を振ってきた。残りの二人の少年も「俺ら二組なんだ、よろしくな」と愛想良く言って同じように見送る。
今日は土曜日だ。僕は社交辞令だと思って「ああ」とだけ答えて踵を返した。
※※※
明るい夕焼け色に染まり始めた町の商店通りは、帰宅がてら買い物をする客で賑わっていた。僕は、人の間を縫うようにして家に向かった。
商店通りを抜けて住宅街に入る頃には、一気に陽が傾いて茜色が深く色づいた。
僕はふと、公園であの豆老人が出現する前に感じたように、不思議な感覚がして辺りを見回した。歩く僕の五感は研ぎ澄まされていて、犬にたとえると、耳をぴんと立てて足音を消すようにしてゆっくりと歩きながら、何かを探しているような感じだった。
しばらく歩いて行くと、ひそひそと何かが聞こえてきた。それは静まり返ったと思ったら、甲高いすすり泣きに変わった。聞き慣れた抑揚のない声が「これからでしょう、ええ、わたくしたちはこれからなのです」と励ますように続く。
「……この声って、豆人か……?」
僕は、思わず立ち止まってそう呟いた。すると、どこからか「奏吾さん?」と、しっとり響くような声が聞こえてきた。
声の発生元が不思議と分かって、歩み寄ってそちらを覗きこんでみた。
しかし、そこを覗きこんだ僕は、それが正しかったのか突如に分からなくなってしまった。見慣れた豆人の向かい側に、もう一人、へんてこな奴がいたのだ。
「うん? こんばんはぁ」
そいつは、妙なイントネーションで喋った。小さな生物独特の声はしているが、どこか太くて頬の肉が邪魔しているような話し方である。ハッキリ言ってしまえば聞き取りにくいし、それ以上に僕は、自分の顔が引き攣るのを感じてもいた。
豆老人よりも大きな丸い緑の頭部には、僕の引き出しに住んでいる豆人と同じ顔が張り付いている。棒のような胴体は、全体的に短くて太い。丸々とした形は僕の知っている豆人とはまるで違っていたが、僕は彼がどんな豆人であるのか、一目で察してしまっていた。
「枝豆……」
僕は、夕食で父さんがよくおつまみにしている、あの食べ物の顔をした彼に衝撃を受けた。「塩味が結構いけるんだよね」と、どこかで耳にしたキャッチフレーズが脳裏を流れていった。
「すんばらすぃクールフェイスっすねぇ」
「ええ、この方が奏吾さんです」
緑の豆人はそんなことを口にしたが、次の瞬間には、小さな棒線一本の口許から「しくしくしくしく」と恐ろしい音がもれ始めて、僕は思わず身を強張らせた。
「ああ、泣かないでください。わたくしまで悲しくなってしまいます」
見ているだけで気力が削がれそうな顔で、豆人が緑の彼を励ました。
「……一体その泣き声はどこから出ているんだ?」
どうも声帯から出ているように思えないんだが、と僕が率直な疑問を抱いて息を呑んだとき、豆人が「奏吾さん」といって振り返った。
「彼、百回目の失恋をしてしまったのです。どうか、元気付けてあげてくださいませんか?」
「えぇぇ、元気づけるって……」
というか、百回の失恋って言った?
僕は頭が痛くなってきて、辺りに人がいないことを確認してからしゃがみ込んだ。「枝豆君」と言いかけた言葉を、「ねぇ君」に直して声を掛けてみると、しくしくしくしくと続いていた声が止んだ。
鼻をすするような音を上げて、緑の豆人が、ぼんやりとした様子で僕を見上げてきた。彼は失恋で傷ついているのだ、と僕は心の中で自分にそう何度も言い聞かせたが、まじまじと見つめても脳裏に流れるのは、母さんの豊富な枝豆料理の数々だった。
そもそも、奴は真剣に何かを思い悩んでいるようにも感じなかった。少し垂れた目と、小さく閉じられた口元の線も、なんだか馬鹿にされているような気がしないでもない。
僕は咳払いで一度彼から目をそらしたあと、ぎこちなくこう続けた。
「えっと、まだまだ青いんだし、これからもチャンスはあると思うし……」
言ってから僕は、ハッとして言葉を切った。言葉を選んでいたつもりだったのに、思わず枝豆の新鮮な色と艶を表現してしまったと気付いたのだ。
やばい。
そう思って僕が二人の豆人を見やると、そこには心配なんて本当に馬鹿らしいとしか思えない光景が広がっていた。
「そうっすよね! なんて素敵なお方なんでござんやしょう。まだまだ、これからっすぅ」
「わたくしも言ったでしょう? まだまだ、これからなのだと」
お互い、最近になってようやく豆艶が出てきたばかりではないですか、と続ける豆人に、僕はもう何も言えずに黙りこんでしまった。「ギャップのある顔以外にも、モテる条件はあるのか」ということについて、馬鹿らしくも考えてしまう。
というか、枝豆の方は独特な喋りだな。
文章として書いてみたら、誤字っぽくなるのではなかろうか。
僕がそんなことを考えている間にも、豆人が、緑の頭でっかちの豆人と手を取り合っていた。その周りの空気には、きらきらとしたものが垣間見える気もするが、二人の表情は見ているこっちの体力と気力を全て絞り取っていきそうなものである。
友人よ、といって抱擁しあう小さな豆人たちを見つめながら、僕は静かに立ち上がった。やけに身体がだるく、ひどい疲れを覚えた。
地面で豆人たちが、表情そのままで手と手を取りあったまま、口線を動かすこともなく「うふふふふふ」「あははははは」と一本調子で小さな奇声を上げている。
僕は思わず、その様子からそっと視線をそらした。一瞬、心臓を圧迫するような恐怖感――いやなんだろう、こう、ぞわぞわとしたものが全身を駆け巡り、家まで帰る気力を根こそぎ奪われてしまうという強烈な錯覚まで覚えた。
小さい生物は癒し系、と女子がよく口にしているけれど、彼らは例外だと思う。むしろ癒し系要素はゼロどこか、マントールの底に沈むのではないだろうか。
「あの顔が二つ並ぶと、威力も二倍だ……」
思わずそう呟いた僕の声は、二人の豆人には届いていないようだった。電柱のそばで視線をそらすように立ち尽くした僕の後ろを、スーツ姿の男性が、静まり返った中に聞こえる小さな二つの奇声にも気付かないまま通り過ぎていった。
僕は辺りに響き渡る、豆人たちの抑揚ない声をしばらく耳にしていた。そのまま帰ろうとして、その場の悪夢にさよならを告げるべく、ミジンコなみの勇気を奮い立たせて彼らに視線を戻した。
「じゃあ、先に帰っているから」
なのでここでお別れです枝豆君、本当に残念だけど、もう出会えることもないと思うし、さらば!
――という僕の考えは、残念ながら上手くいかなかった。豆人が僕を見上げて、とんでもないことを口にしてきたのだ。
「奏吾さん、彼を家に招きたいのですが、よろしいでしょうか? 落ち込んでいる時は、お喋りを楽しむのが一番だと思うのですよ」
「え、ちょっと待って。誰と誰がお喋りをするって?」
「わたしくと、彼と、奏吾さんです」
豆人の提案を聞いて、枝豆野郎が嬉しそうに眉影を引き上げた。
僕は、くらくらと眩暈を覚えた。けれど善意ある行動を止めるには良心が邪魔して、豆人に了承し「先に戻ってるね」とようやく告げて歩き出したのだ。
分かったことは一つだけだ。
ああ、さらば、穏やかな土曜日の夜。